みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

この日記を

2006-09-15 00:56:59 | Weblog
書こうと思った瞬間、自分が高校生だった頃書いていた日記のことを思い出した。
中学、高校とせっせと日記を書いていたのは確かだ。しかも、英語で。単純に英語の勉強のつもりで書いていたのだが、内容は誰を好きになっただの、誰と遊んだだの、部活のことなどが多かったが、そんな話題の中に大人の社会の醜さや腐敗だらけの政治に対する憤りなどをよく書いていたような気もする。要するに、若い時期特有の正義感に燃えていた内容もけっこう多かったのだが、何か今でもそんな高校生時代の自分とあまり変わらないぐらい、政治や社会に対する憤りが毎日ふつふつと煮えたぎっている。
最近、アメリカの9/11がブッシュの自作自演だったというような記事があちこちで書かれているが、私はあの事件が起こった日、中継のTV画面を見ながら「絶対にこれはブッシュの陰謀だ」と思ったのを今でもよく覚えている。だって、あの事件が起こる直前のブッシュの支持率って最悪だったのだ。フロリダ知事の弟が仕組んでくれたフロリダ州のウソの票で勝ったウソの大統領が、人気を巻き返すにはこれぐらいのことするだろうナって本気で思っていた。あの頃、メールのやりとりをしていたアメリカ人の友人も私とまったく同じ意見を持っていた。とはいっても、あれがブッシュの陰謀だという証拠を私なんかが示せるわけもないし、結局ビンラディンとかいう人のせいになっちゃったけれども、心の中では「ホンマかいな?」とは思っていた。今でもそう思っている。ここに来て、ブッシュ陰謀説がまことしやかにメディアの話題になっているけれども、多分、この説も絶対に証明できるわけはないので、「そうかもしれない」で灰色のまま終わってしまうのだろうと思う。でも、私には、日本の現状の方が心配だ。今の首相もヒドイけど、今度の首相もそれに輪をかけたようにヒドそうな首相だ。政治家ってもうちょっとエラい人たちじゃなかったのかナ?
本当に不思議な世の中になってきたような気がする。
まあ、それにしても、この前のネコ殺し以上に腹がたつのが飲酒運転の事件の多さ。

運転中でも人を殺したら「殺人罪でしょ?」と単純に思う私は頭が悪いのだろうか?
その人に殺す意志があろうがなかろうが人が死んでしまったことは事実なんだから、全部殺人罪でいいんじゃないのかナ?
なんで業務上過失致死罪なんてメンドくさいものがあるんだろ?
まあ、その辺は法律の専門家の人たちの仕事だからとりあえずまかしておいて、何しろお酒飲んで運転するという人間をどうしたら世の中からなくすことができるんだろうか?
居酒屋全部なくすか?
まあ、これは絶対無理だし、私も時々行くから残しておいてもいいけど、車で来てる人に酒を飲ませる店は営業停止が当たり前だと思う(アメリカは、未成年にお酒を売った店は即営業停止だ)。それに、一緒に飲んだ人も同じぐらい罪は重いと思う。友達どうしで「飲むな」と言いにくいのはわかるけど、絶対にウーロン茶しか飲ませちゃダメだよ。っていうか、「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」だ、絶対に(この標語はホントによくできてるナ)。
大体、お酒を飲んで運転しようと思っている人(これ自体が確信犯だし)が、「コップ一杯だけ」ですむわけがないじゃない。そういう人はお酒すっごく好きな人なんだから。

長い間不思議に

2006-09-06 00:08:12 | Weblog
思っていたことの一つにおやじギャグというのがある。私は基本的にああいうダジャレが苦手なので(というか、ああいうギャグを言う人をあまりカッコイイとは思わないので)自分から口にすることはほとんどないが、私の周りには、驚くほどおやじギャグを連発する人が多い。よく飽きずにあそこまで次から次ぎに「ギャグ」が出てくるものだと感心するほど彼らはそれを連発する。
おやじギャグはダジャレの一種。だから、相手のことば尻をとらえて、それに似た「音」や「ことば」をたちどころにオウム返しのように文章やことばにするので、ある意味、「頭いいナ」と思わせることもあるのだが、基本的におやじギャグというのは、「おやじ」とついているだけあって、ある程度年令のいった人に多いことば遊び。年令を重ねているからこれだけ豊富な語彙と経験で次ぎから次にことばが出てくるのだろうと感心ばかりしてはいられない。これも一種の老化現象だ。
人間の脳は、新しいことばを覚えたり、新しい物事を経験するたびに、脳に新しい回路をシナプスを通じて作っていくもの。おやじギャグは、脳に何の刺激も与えない。単純に、これまで覚えたことばを、今聞いたことばにつなげているだけ。これこそが、経験や年令を重ねれば単純な反復作業として(パブロフ反応のようなものだ)誰にでもできる作業なわけで、こればかりやっていると本当の意味でボケてくるかもしれない。
よく料理をしたり、楽器をやったり、大工仕事をしたり、絵を描いたりする作業をしていればボケにくいと言われているが、単なる反復作業だけではあまり新しい刺激は脳にもたらさない。常に新しいことを覚えようとする「意志」が絶対的に必要だろうと思う。クリエイティブな仕事は、常に、新しさを必要とする。今までの反復やこれまでの繰り返しだけでは、クリエイティブなものはけっして生まないからだ。新しい色を使う。新しい形を作る。新しい音を聞く。これまでやらなかった音楽に挑戦する。これまで作らなかった料理を作る。そういう作業をしなければ、けっして脳は新しいシナプスを作ってはくれないのだろうと思う。
私は、毎回毎回、ライブやコンサートをやるたびに新しいレパートリーを必ず入れるようにしている。前のレパートリーとまったく同じにはしない。自分自身が飽きることもあるし、前回聞いた人に「また同じかよ」と思わせたくないという意味もある。それよりも、自分自身に何か新しいことを覚えさせる作業を課しているといった方が正しいかもしれない。人生、夢やチャレンジがなかったら何が面白いんだろう?と思う。
でも、人は年を重ねれば重ねるほど、その夢とチャレンジを失っていくものだ。何やら政治家が「再チャレンジ」なんていうことばを使っているが、50過ぎても60過ぎても「再チャレンジ」したくなるようなモノがなければ、そんなかけ声は絵に描いたモチに過ぎないし、「何をたわごとを」で終わってしまう。
80過ぎの方でも90過ぎの方でも元気な人はたくさんいる反面、10代20代で既に「終わっている」人たちも最近はけっこういる。なんで、もっと夢をもったりチャレンジしたりしないのかナ?と不思議に思うのだが、多分、世の中が便利になり過ぎたのだろうナと思う。人というのは、モノがない環境ほど頭を使う。使わざるをえないのだ。例えば、無人島に一人で取り残された時、生死を分けるのは頭の使い方だ。どうやって食料を調達し、どうやって寒さをしのぐのか?要するに、人間というのは、どうやって生き延びていくかを、脳に蓄積された過去の記憶と目の前にある環境との連関で新しい方法を開発していくようにできているのだと思う。そうでなければ、人類があの厳しい氷河期を生き延びてこれたわけがない。
そんなことをアレコレ考えながら、おやじギャグを聞くと、そんなこと言う前に、もっとちゃんとやるべきことがあるだろうに?と思わずツッコミを入れたくなる。そんな大人を見てるから、若い人たちが、「こんな大人にはなりたくないな」と思ってしまうのではないだろうか?

人間とは

2006-09-02 13:09:18 | Weblog
いろいろな考えがあるから人間だということも言えるのだけれど、これは明らかにオカシイでしょ?と思えるようなことを言う人が発言力を持っている人だったり、世の中に影響力を持っている人だったりすると、「それは聞き捨てにしておくわけにはいかないな」と思ってしまう。
直木賞作家の坂東眞砂子が自分の「子猫殺し」を、日本経済新聞というメジャー新聞の中で堂々と半ば開き直った形で展開し、しかもそれを理路整然と正当化しようとしていることを知ってから、毎日寝起きが悪くてしょうがない。要するに、ムカツクというか、「なんでこんな女に大新聞が堂々とまったく支離滅裂なエッセイを書かせているんだ」という怒りがちょっとやそっとじゃおさまらない。
詳細については、あまり言いたくないので、「きっこのブログhttp://www.kikko.cocolog-nifty.com/kikko/」というのを読んでいただきたい。
怒りにふるえる人は、私だけではないと思いますので...。

なので、「世の中に何かいいことないかナ?」と思って探している時、アイススケートの荒川静香がアメリカでプロのアイスショーに出演というニュースを見て、ちょっとは気が晴れた。彼女のアイスショーへのチャレンジする姿勢を見て、やっぱりこの人は本物だ!と改めて思えたし、彼女のようなプロ根性を、どの分野のプロの人も持って欲しいなと本気で思えたニュースだった

フィギュアスケートで世界チャンピオンにもなり、オリンピックでも金メダルとった彼女の長年の夢がプロのアイスショーで演技することというのは、前から報道で知っていたけれど、彼女の姿を見ていると、「この人、本当に本気なんだな」ということがよくわかる。アマチュアの世界最高の勲章を2つもとった人でも、プロの世界では1からのスタート。当たり前の話しなのだが、普通、オリンピックの金メダルをゴールを思っているアスリートが多い中で、彼女は、そこから改めてスタートすることに何の抵抗を感じていない。そこが本当にエラいと思う。こういう姿勢を本当のプロ意識だと私は思っている。
音楽でも、世界最高のコンクール、例えば、チャイコフスキーやショパン・コンクールに優勝することはすごいことだけど、本当はそこからが本当の意味でのプロへのスタート。それを本当にそう思える人はなかなかいない。プロというのは、ただ技術がうまい、演技が上手なだけではダメ。そんなことわかっているよという人は、まずプロにはなれないような気がする。
プロとアマの違いについては、何度も何度もしつこいぐらい言っているので、みつとみさんの言いたいことぐらいわかっているよ、という人も多いかもしれないが、この荒川静香さんの姿勢を見ていると何度でも同じことを言いたくなってくる。彼女は、おそらくスケートを始めた時点からこのことを心の中でしっかりと自分自身に言い聞かせてきた人なのかもしれないと思う。「プロとは、人を喜ばせてナンボ」。
けっして自己完結しない努力がプロへの道だ。自分で自分の演技ができたと思ってしまってはまだまだアマチュア。できたかどうか判断するのは、お客さん。お客さんの拍手がどれだけもらえるか、どれだけお客が集まるか。判断の基準はそれしかない。そうなれるように毎日努力するのがプロの修行だろう。どうやったら、お客さんの拍手をもらえる演技ができるようになるのか?どうやったら、お客さんを集める演技ができるようになるのか?
その答えを出すのは自分自身しかいない。誰も教えてくれない。ここを勘違いする人が本当に多い。学校で先生に教わるのと同じような感覚で、「プロになるにはどうしたらいいんですか?」と真顔で聞く人がいる。そういう質問を聞くたびに、「バカヤロウ。顔洗って出直してこい」と本気で叫びたくなる。「何甘えてんだよ。プロになるノウハウは怒鳴られながら、失敗しながら、恥じをかきながら、一人一人ちゃんと覚えていくんだ」ということをみんな本当に学んで欲しいと思う。それがイヤだったら、とっとと楽な道に逃げればいいんだと思う。
答えのない道、方程式のない道がプロの世界なのに、お金を出せば授業料を払えば何か教えてくれる学校と勘違いするアマちゃんは、荒川静香やイチローを絶対に見習うべきだとも思う。寿命の短いスポーツやダンスの世界にいる人たちは本当に真剣だ。人生の本当に短い間に「結果」を出さなければならないスポーツや踊りの世界の人たち。できない人ははじかれるだけ。それが厳しいプロの世界の掟だろう。
荒川静香さんには、本当に頑張って欲しいと思う。