みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

お薬手帳

2016-04-30 19:23:25 | Weblog

熊本や大分の被災地に薬剤師や薬を積んだ車が被災者の皆さんに薬を配っているという報道を先日聞いた。

助かる人たちもたくさんいるだろうと思う。

けっして悪いことではないし、この仕事に携わっている人たちには感謝だ。

ただ、この報道には一つだけ違和感を覚えた部分があった。

非常時での「お薬手帳」の大切さとその存在意義についてのコメントがそれ。

普通、投薬は医師が患者を診断し薬を処方してそれを薬剤師が調剤して患者に売る。

これが基本で、調剤薬局はお薬手帳を処方箋と一緒に持ってくるように勧める。

一人一人の患者の投薬記録がこのお薬手帳に記載されているので、今回のような災害時にはたとえ患者自身が薬の名前を覚えていなくてもこのお薬手帳さえあれば薬剤師は適切な薬を被災者に渡すことができる。

だから皆さんきちんとお薬手帳を保管して大事にしましょうという主旨のコメントで締めくくっていたが、身近に病人を抱える私としてはこのコメントには「ちょっと待てよ」だ。

ポイントは2つ。

一つは、誰でも疑問に思うはずだが、そんなに大事な個人の投薬調剤情報なら何でオンライン化しないの、という単純な疑問だ。

私は、この疑問をこれまでたくさんの医師やいろんな薬局にぶつけてみたが要領を得た解答はどこからも返ってこなかった。

きっと私は尋ねる相手を間違えているのだろう(それってきっと厚生労働省…の上の人、なのかナ?)。

オンライン化ができてさえいれば、大災害で被災した人たちに「お薬手帳、持ってますか?」などという馬鹿げた質問をしないでも済む。

着の身着のままで避難所に逃げてきたというのにお薬手帳をちゃんと持ってきた人が一体何人いるというのだろうか。

 で、もう一つの疑問。

これが、多分一つ目の疑問に対する答えなのかなと思う。

実はこのお薬手帳、タダで配っているわけではない。

病院に行く。

医師が処方箋を書く。

もちろんここで処方箋代が書類作成費という名目で保険点数に計上される。

 今度はその処方箋を薬局に持っていく。

薬の調剤に点数がつく。

まあ、これも薬剤師さんたちの収益につながるのだから当たり前だろう。

問題は、お薬手帳に投薬記録を記載することにも点数が加算されていることだ(つまり、薬局に手帳を持っていくたびにそこでお金が発生しているのだ)。

これって案外、人の意識にのぼらないし知らない人が多い。

ははん、…これか?

 もしお薬手帳にアナログで記載されている情報が全部オンライン化されてしまったら、一つ一つの薬局の請求できる点数が減ってしまうことになる(のかナ?)

オンライン化された情報は全国の薬局ならどこでも閲覧自由なはずだし、げんに調剤薬局は全国どこでも調剤しますと歌っている。

日本の「お上」の考えるシステムというのは理解できないことだらけ。

災害があった時皆さんお薬手帳持ってないと大変ですよ。

出せる薬も出せなくなりますよと公共放送を使って煽る(これって一種の恫喝…脅しに近い)。

違うでしょ。

もしマイナンバーがあると便利でしょというのだったらこんな災害時にこそマイナンバーで投薬情報までわかるようにすればよいだけのこと(オンラインってそういうことなんじゃないの?)。

マイナンバーという仕組みはその中身を知れば知るほど「え?たったそれだけの情報を知るためだけにあんな大袈裟なことをしたわけ?」だ。

「縦割り行政」の弊害をなくすためにマイナンバー制度を導入、なんてかけ声は建前だけで、本気で縦割りをなくそうなんて思っている役人や政治家はゼロだろう。

縦割りで生まれる既得権益は絶対になくしたくない人が「本気のオンライン化」なんてするわけがない(とは思いませんか?)。

 

 


レジェンド・プリンスの死

2016-04-28 08:24:25 | Weblog

先日亡くなったロックレジェンド・プリンスで思い出すのが、80年代の私の個人的なある記憶。

私は、88年にある人物と一緒にプリンスの出身地であり彼の活動の拠点となった都市ミネアポリスにあるミネソタ大学のアーティストインレジデンスとして滞在していた。

ある人物というのは、私の友人であり、先輩であり、作家/編集者であり、そして偉大な現代詩人だった奥成達という人(残念ながら昨年急逝された)。

ミネソタ大学の文学部のお招きによる「artist in residenceアーティストインレジデンス」なので大学側のお目あては当然、詩人・奥成達氏。

私は、単なる「おまけ」(だったんだろうナ)。

ところが、奥成氏にとって私は「おまけ」どころではなかったはずだ。

私は、奥成氏と一緒に大学の内外で「poetry reading performance」に明け暮れただけではなく、私は、(英語のまったくできない)彼の「通訳」でもあったからだ。

このpoetry readingという文化(ある意味、サブカルに近いかナ?)が今の日本に根付いているのかどうかは知らないけれど、アメリカでは60年代既にサンフランシスコを中心にヒッピー文化の一つとして定着していた(サンフランシスコのHAIGHT AND ASHBURYという原宿のような一画が60年代文化/ファッションの象徴として今でも観光名所の一つになっている)。

私は、若い時から即興演奏に長けていたせいか、多くの現代詩人の方たちからお声がかかり、画廊、喫茶店、レストランなどでの「朗読」イベントにパフォーマーとして呼ばれ詩人の方たちが朗読する自作の詩に即興的に音楽をつけていた。

詩人が自作を朗読すると言ってもその朗読のやり方はさまざま。

ひたすら「絶叫」に近い形で熱唱する人もいれば、聞き耳をたてないと聞こえないほどボソボソとつぶやく人もいる。

でも、「これが本当のリサイタルじゃん!」と思ってこのイベントに積極的に関わっていた(recitalということばはもともと詩人の詩の朗読(recite)会から始まったもので、楽器演奏は朗読の合間の「おまけ」のような存在だった)。

そんなこんなでしばらく滞在していたミネアポリスは、プリンスが世界に飛び出したホームグラウンドの地。

彼の存在を一躍有名にした『パープルレイン』という楽曲のプロモ映像はこの街にある「ファースト・アヴェニュー」というクラブで撮影された。

街の一番端っこのファースト・アヴェニュー(1番街)にあるクラブだから「ファースト・アヴェニュー(超わかりやすいネーミング!)」。

そして、このクラブの向いには、マリファナ関係の情報専門誌『High Timesハイタイムズ』という雑誌の本社ビルがあった(今もあるのかどうかは知らないけれど)。

アメリカにはマリファナ合法の州が幾つかあるが、このミネソタ州もその一つ。

にもかかわらず、このミネアポリスという街は、全米で初めて禁煙条例が施行されたほどの「クリーンさ(というか健康志向)」を誇る街。

こんな(クリーン過ぎてタバコも吸えない街への旅は)ヘビースモーカーの奥成氏にはキツかったに違いない(げんに、彼は夜な夜な「酒が飲めてタバコが吸えるところ!」を求めて酒場を一人でうろついていたようだ)。

そうした「禁煙先進都市」の看板と「マリファナ文化」との共存(アンバランスさかもしれない)がとても面白かったのだが、このクラブに足を踏み入れたのはあるローカルFM番組(FMって電波の飛ぶ距離が短いので基本的にみんなローカル局)への出演がキッカケだった

私と奥成氏が出演したこの番組のDJが、「プリンスは、ファースト・アヴェニューで時々サプライズライブをやるよ(このDJ氏、ほとんどプリンスのダチみたいなノリでしゃべっていたけど、ホントかナ?)。運が良けりゃ、生で聞けるかもネ。興味あったらゲストで入れてやるぜ(この会話はもちろん英語なので彼がこんなことば使いをしていたわけではない…(^-^))的な誘いをかけてきたので、私は二つ返事で「行く!!」。

で、後日このクラブを実際に訪れた時は、その広さに圧倒された。

え?!ここって、本当にクラブなの…?

日本のライブハウスやクラブの比ではない。

天井の高さも奥行きもほとんど体育館(さすがに武道館ほどは広くなかったけれども、2/3ぐらいの大きさには感じた)。

ステージに向ってUの字の二階バルコニーがあって、そのバルコニー下の奥にはピンボールマシーンやらビリヤードやら、いわゆるアメリカの場末のバーにありそうな遊び道具がたくさん並んでいた。

ライブを聞きながらでもこうした遊びはできるようになっているわけで、要するに、アメリカ映画によく出てくるバンドがライブしていてその前でビール片手に客が踊っている的なバーの巨大サイズを想像すればいい(かえって想像しずらくなったかナ?)。

私が行った時たまたま演奏していたのは、シンネッド・オコーナというアイルランドの女性ロッカー(当時はスキンヘッドの女性ロッカーとして世界的に有名だった)。

このクラスのアーティストの日本公演だったら、きっと何とかホールでの「コンサート」になってしまうはず(そう考えると日本にはサブカル的な音楽文化が根付いていないことに改めて気づく)。

日本では「イカ天」が流行っていたロック全盛時代だ。

きっと、プリンスだけじゃなく、ここでさまざまなロックレジェンドが歴史を作ってきたんだろうナ….そんな場所(環境)が日本でも増えて欲しいナなんてことを思いながらネットに並ぶ『パープルレイン』の映像を改めて鑑賞した。


43回目のアニバーサリー

2016-04-22 16:17:43 | Weblog

ということに気づいたのは朝起きてカレンダーの日付を見た瞬間。

「ああ、そうだ。この4/22という数字はなんとなく見覚えがある(当たり前じゃ)」。

(私の脳の中で少し間があって)「ああ、そうか、今日は結婚記念日ダ(今頃気づいた私…)」。

昨年のアニバーサリーは(私の脳も)もうちょっと違ったリアクションだったはずだが…と思いつつも、恵子に「アニバーサリーだよ。なんかケーキでも作ろうか?」と促すと「そうだね」という返事。

で、早速ケーキ用の粉を探すと、最近よくライ麦パンを作るせいかライ麦粉は、細かい種類から粗挽きまで4種類もあるくせに、強力粉の全粒粉がほとんどない(50g程度しか残っていなかった)。

うん、これではケーキを作るには足りない(ここら辺じゃ全粒粉売ってるところないからけっこう遠くまで行かなきゃだし、どうしよう?)。

そう恵子に言うと「なんでもいいよ。ケーキじゃなくても。クッキーでも作れば?」

そうだな、クッキーなら薄力粉で済むし、そんなに手間もかからないとクッキー作りに取りかかろうと思った瞬間、またもや私の脳の中で変なリアクションが起こった。

「ねえ、結婚式の写真ってどこにあったっけ?(モノの整理は私よりもはるかに恵子の方が上手だが、あいにく彼女は今病気で身体の自由が利かない)」

ああ、それはネ…と写真の場所を適確に教えてくれた。

と、ここからがかなりヤバくなってくる(笑)。

さて、クッキーにするのか、写真を整理するのかおいどっちなんだよ状態になったが、結局、両方ともにやるハメに。

ただ、若い頃の自分の写真を見つけては「なんちゅうクソ生意気な顔とファッションしてるんじゃい!」と自分自身の(若き)写真にケリを入れずにはいられなくなる。

そんな過ぎた昔の自分にどうのこうの文句言ってみても始まらないのだが、なんとなくツッコミを入れたくなった(きっと、若い頃の自分を肯定するのが照れくさいのかもしれない)。

でも、恵子の写真には真逆の感情しか起こらない。

これも当たり前のリアクションだろう。

自分の好みの女性だから長くつきあい長い結婚生活を送り、今でも彼女を世界中で一番愛していることに変わりはないのだから。

それよりも、ここから先の人生で結婚記念日を40回以上も(二人一緒に)迎えることは(おそらく)ないだろうから、一回一回のアニバーサリーがきっと何らかの「ヤバさ」を感じながら(笑)迎えることになるのだろう。

どうヤバいかはきっと毎回違うだろうし、恵子が病気になってからの4回だってけっこうヤバかったけど…、まあ、とりあえず二人でアニバーサリーが祝えただけでも良しとするか…ハハハ(^-^) 。


「被災地取材のTV局がガソリン給油割り込みで謝罪」

2016-04-20 17:32:21 | Weblog

というニュースを聞いてまた「メディアの勘違い」と思ったのだが、私自身もこれまでこうしたメディアに近いところで何十年も仕事をしてきたので、この業界で仕事をしている人たちが陥り易い「思考の罠」が何なのかはよくわかっているつもりだ(もちろん肯定しているわけではなく)。

要するに、ある種の「特権」意識なのだろうと思う。

「自分たちは特別なことをしている。それができない一般大衆の代わりに番組を作ったり、ニュースを伝えたり、文化を作っているんだ」という意識はメディアの世界で働いている人のほとんどが持つ「思考の罠」だ。

今回の熊本のように、地震などの災害の報道も「自分たちがやらなくて誰がやる」ぐらいの気持なのだろうが、今どきスマホ動画で送られる情報の方がよっぽど役に立ったりするし、マスメディアの「あらかじめ結論を決めつけた、上から目線」で編集された報道よりよっぽど「被災者目線」の情報が得られるような気がする。

おそらく、災害時に被災者の気持を一番逆撫でしているのは報道関係者だという自覚はまったくないから、このニュースのように「俺たちが先にガソリン入れて当たり前」的な行動に出られるのだろうと思う。

このメディア人の「奢り」と「勘違い」は今に始まったことではないが、この勘違いは、気をつけないと私たちの誰もが陥る「思考の罠」だ。

音楽家も例外ではない。

音楽家が楽器を演奏できたり歌を上手に歌えたりすることを「特技」と勘違いしている人が多いが、それが大きな「勘違い」につながる。

音楽家がやっていることは、他の人たちと比べて格別優れたことでもないし、「特別な能力」を持っているわけでもない。

もし、私たち音楽家に「何か」が与えられているとしたら、それこそが「才能(ギフト)」なのであって、それが「(天から与えられた)ギフト」であるという自覚さえあれば、そのギフトを使って社会や世の中のために役立てることが音楽家のやるべき仕事だという結論に行き着くはずなのだが、そんな意識で音楽活動を行っている人は少ない。

ある意味、突き抜けた才能を持っている人たちは、自分たちに与えられた「才能(ギフト)」の意味とその使い道をよく知っている。

彼ら彼女らは、それを惜しみなく与え、私たちもその「ギフト」を余すところなく享受する。

この「ギフト」によるコミュニケーションが自然にできる人たちだからだ。

問題は、ハンパにしか音楽を理解せず、ハンパな技術しか持ち合わせない人たち。

勘違いのタネは、そんなところから生まれる。

私たちがメディア人たちの「勘違い」を非難するのは簡単だが、どんな世界でもどんな場面でもハンパな理解やハンパな技術は、取り返しのつかない「勘違い」を産み、世の中をけっして良い方向には導かない。