みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

「あらゆる病気は音楽的な問題であり、あらゆる治療は音楽による解決である」

2014-02-21 20:52:49 | Weblog
 先日(2/18)発売されたばかりの私の新著『奇跡のはじまり(新潮社刊)』は、このドイツロマン派の作家・ノヴァーリスのことばの引用から始まっている。
私がなぜこのことばを引用したかは明確で、私自身の人生はきっとこのことばに集約されるんだろうなと思ったからだ。
日本には、結ばれるべき運命の人とは、生まれた時から赤い糸で結ばれているという表現があるけれども、別に男女の結びつきだけでなく「運命」というものは全てが決定づけられているような気がしてならない。
もちろんDNAの情報で人の一生が運命づけられているというような科学的な説明もできるだろうけど、そんなことよりも「これは運命としか思えない」というような出来事に人は何度も遭遇する。
私が妻と出会ったことも、もちろん運命の一つだろうし、その彼女が脳卒中に倒れて身体の半分の自由を奪われるということもおそらく運命の一つなのだろうと思う。
ただ、問題はそれをどう解釈してどうその後の人生に結びつけていくかなのかもしれない。
人はこの世に生まれたこと自体が奇跡なのだから、その奇跡をどう探っていけばよいかを妻は自分の「命を賭けて」教えてくれようとしたのではないのか。
それが彼女の病気の意味だったのではないのか。
著書の出発点はそんなことだった。
「自分の身内が病気に倒れる」。そんな出来事を予測できる人は誰もいないし、それはいつも突然やってくる。
しかし、問題はその時その問題をどう受け止めるかだと思う。
私も「その時」に考えたのは自分の「運命」だった。
この出来事は私に教えようとしているのか?
私に何をやれと言っているのだろうか?
私は、妻が倒れた晩、病室の中でそんな「天の声」を必死に聞こうとした。
もちろん、声はすぐには聞こえてこなかった。
しかしながら、どんな些細な出来事でも人の一生の中で意味のない出来事など一つもないはず。
だとしたら、自分の家族が死と隣り合わせのような重大な病に倒れたことの意味を探らないことは、逆に「自分の生」そのものを否定することになるのでは…?
そのことをこれまで必死に考えながら、病気と闘い、介護や家事に励み、そして仕事も一生懸命やってきたのだが、この著書は、いわば、そんな私が自分の運命の意味を具体的にどうやったら自分や妻、そして社会に行動として現すことができるのかを探っているサマをそのまま文章にしたものだとも言える。
私の場合、その「運命」の意味は、ノヴァーリスのことば通り「音楽」の中にあると思っている。
人が音楽を発明したのではなく、音楽があるからこそ人は人として生きていかれるのでは?
今回の私の著書のサブタイトルに「ある音楽家の革命的介護メソッド」とあるが、私が妻にこれまで施して来たものはいわゆる音楽療法なんかでは全くなく、「人は音楽があるからこそ生きていかれる。
だから、人の全ての思考も行動も音楽的に考えれば良いだけなのでは?」
単にこの発想で毎日の生活と介護をしただけの話だ。
人は、人生の途中でおそらくいろいろな病に犯されそしてそれらと闘う運命を背負わされる。
しかし、その病をどうとらえるかによってその人の人生は大きく変わってくるだろう。
「あらゆる病気は音楽的な問題であり、あらゆる治療は音楽による解決である」
なんとも明快な答えだと思う。
ただ、それを額面通り素直に受け入れられる人はそれほど多くはないはずだ。
私も、そのことばの本当の意味をいつも探っている。