みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

インドネシアのガムラン音楽を

2008-08-27 01:39:42 | Weblog
日本のコンサートホールで見る(聞く)というのも、何か阿波踊りをサントリーホールで見物するような(そんなことは多分ないだろうけど)違和感を覚えるのだけれども、昨日(8/25)すみだトリフォニーで見たスアル・アグンはけっこう楽しめた。
スアルアグンの演奏は基本的に竹の打楽器が基本なのだが、時折管楽器も登場する。ガムランやケチャというのはポリリズムがリズムの基本なので、それなりのアンサンブル訓練が必要になってくるけれども、こうした地方(インドネシアやタイ、ベトナムといった地方)の音楽は、農耕(米作)する人間と神とのコミュニケ-ションを音楽で媒介することが主な役割。ガムランではあまりメロディやハーモニーは重要視されない。メロディやハ-モニ-で語る西洋音楽とは違い、リズムで話していかなければならないからこそ音楽が複雑なポリリズムになってくるのだろう。しかも、音楽そのものが神との対話なので、異界とのコミュニケーションを図るためにトランス(要するにハイになって「向こう」に行ってしまう状態)が絶対的に不可欠になってくる。
男性ばかりの14人の打楽器アンサンブルのリズムの中でメンバー数人が演奏中に突然憑衣状態になって舞台の上で次々に倒れこんでいった。そんなサマは昔のGSの「失神」状態にもある種似ているナと思った。
要するに、音楽の演奏というものには「トランス」が必要なのであって、それを簡単に起こさせてくれるこうした音楽が農耕民族の儀式の中で発展したのも頷ける。
じゃあ、GSも同じか?。
うん、多分同じだと思う。今のクラブ音楽だっていつもクスリがそこにつきものだ。クスリが必要なのは、このトランス状態が欲しいからだろう。ロックやジャズだって必ずクスリがそこにあるのは、音楽でトランスを起こす助けになるからこそ。
じゃあ、クラシック音楽はどうなの?と思われるだろうが、クラシック音楽というのは、基本的にキリスト教が作り出した音楽。キリスト教はこうしたトランス状態を異教として排除してきたのでそことは相容れない。映画「ダヴィンチ・コード」で自分の身体に鞭打っていた男の姿こそが「異教」そのものなのだ(鞭を打つのが修行なのではなく、このトランスを作り出すため)。
そう考えるとクラシックとクラシック音楽以外の音楽の違い(これが「正統と異端」という西洋文化の中で何百年も続いてきた大テーマにも関係してくる)が理解できるのだが、これは音楽が直接的に「何」と向き合っているかという問題と根本的に関わってくるので、ここで深いところまでは突っ込まないでおく。
それにしても、ふだん女性ばかりオーケストラで何十人も女性と向き合っている私としては、男性ばかりのアンサンブル(しかもコスプレで化粧をしている人たちだ)というのはとっても新鮮だった。

オリンピックの口パクの少女

2008-08-24 19:34:40 | Weblog
が話題になっているけれども、私は開会式のあの映像を見た瞬間から口パクだとは思っていたし(っていうか口パクに決まってるじゃんと逆に信じて疑わなかったけど)、いろいろな民族衣裳着た人たちがたくさん出てきた時も「こんなもん誰が着たってわかりゃしないじゃない」と思っていたので、このことがそれほど重大な問題だとは思ってはいない。
それどころか、これって単にオリンピックがどうのこうのとか国としての威信とか政治とかいった問題でもまったくないと思っている。
むしろ、音楽だとか舞踊だとか、あの開会式のようなエンタテインメント(あえてエンタテインメントだと言い切ってもいいと思う。だからこそ、演出を映画監督が仕切っていたわけだろうし)といったプレゼンテーション(=表現)を受け手がどう見るかといったコミュニケーションの問題でしかないのでは?と思う。
ロサンゼルス・オリンピックでの開会式の場面が今でも思い出される。何百台ものピアノが並びそれが一斉に演奏される。人間ロケットのようなものが飛ばされる。けっこう度胆を抜かれた演出だったが、この開会式にはわりと好感を持てたのはそこに「生身の人間」がいたから(ピアニストが何百人もいたし)。今回の北京では、それが「やらせ」で、実際はCGだったり口パクだったことが判明して非難されているようだけど、それを最初からCGだとか口パクだと承知していれば見方もまったく変わってくるだろうと思う。
世界中のTVのほとんどの音楽番組の「音」は事前にとられている(「ミュージックステーションは、バックミュージシャンだけあてぶりで、歌は「生」という変則スタイルだが)。これを承知している関係者は「そういうものだよ」と理解するけれども、それが実際にその場で演奏されたり歌われていると思い込んでいる視聴者にはそれがそうではなかった時に「裏切り」とうつる。これって、単にコミュニケ-ションが不足していただけの問題じゃないの?と思ってしまう。
お芝居の舞台には「かきわり」という絵や舞台装置であたかも現実の背景や自然、セットが作られているが、観客のすべてはそれが「ウソ」だということを承知して見ている。それでも、それがあたかも「ホント」のように自分自身を思い込ませお芝居の中に感情移入しようとする。そして、役者をお客の感情移入の手助けをする。
これがエンタテインメントの基本だし、舞台と観客の間のコミュニケーションの基本なのでは?と思う。これは、オペラだろうが歌舞伎だろうが、ミュージカルだろうがギリシャ悲劇だろうが基本的に変わるところはない。なぜそれと同じ目線でオリンピックの開会式を見れないのだろうか?オリンピックの開会式にだけ何か特別な「真実」がなければいけないとでも言うのだろうか?
そういうエンタテインメント、ショーとして見れば北京オリンピックの開会式はハリウッド映画以上のエンタテインメントだったろうと思う。おそらくハリウッド映画が何本もとれるようなお金をかけていたのだろうから。それでもそこに批判が集まるというのは、もっと別の理由。つまり、中国という覇権主義の大国に対する周りからの思惑と非難以外の何ものでもない。実際、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
私は、あの開会式でピアノを弾いていたランランの横で座って鼻をほじっていた少女を興味深く見ていた。まったく自分がどこにいて何のためにピアノの椅子に座っているかをまったく理解していないような「あの少女の仕種」が開会式の中では一番面白かった。
あの少女は、今頃なにを思っていて、十年後には何を思うのだろうか?

今日の読売新聞に

2008-08-06 23:52:45 | Weblog
音楽評論家の湯川れい子さん(私は彼女を作詞家として評価しているの思だが)が、つい最近解禁になった「ダビング10」という方式のコピー方式についての論を展開していた。
 著作権の問題について、日本は比較的進歩してきているのかと思いきや、「ダビング10」のようなトンデモない法律を平気で作る国なので、ほとんど意識は昔と変わっていないのかナ?と思ってしまう。イソップの童話に『アリとキリギリス』という有名な話しがあるけれど、せっせと財産(この場合はお金とか食べ物とか要するに目に見える物質でしょうネ)を溜め込んだアリさんは偉くて、そんなものは何もためずにただただ歌って踊っていたキリギリスさんは「人生の敗北者」のように扱うこの童話が象徴するものは、「目に見えないものは何も価値がない」ということ。仏教やカソリックの国ではあまり出てこない発想だと思う。要するに、プロテスタント系キリスト教のひたすら真面目でストイックな生き方こそが人間には求められるという思想から生まれた童話なのかナ?と私は常々思っている。
 世界的に見ても、ここ数年本当に音楽は危機的状況だと思う。誰もCDを買わないし音楽はみんなタダ、ぐらいに考える人がどんどん増えてきているのだから、音楽家が音楽を生業として生きていくことがますます困難な状況になってきている。
 音楽はタダ。誰も著作権にお金なんか払わないじゃあ、キリギリスが生きていくことは絶対に不可能だ。やはり「カタギ」なアリさんしか世の中では生きていかれないということになってくるのだろうか?
 湯川さんの文章に「ビートルズが背負っているのは英国国旗で、ミッキーマウスの後ろには星条旗がはためいている」という一節があったけれど、島国の日本はミッキーマウスやビートルズからさんざん著作権料を請求されることはあっても、アニメやゲームの著作権料はちゃんと請求できているんかい?とつい思ってしまう。幕末の昔から外交がまったくできない日本という国は今でも外国の前では内弁慶にしかふるまえない情けない国だからだ。
 ....というようなことを私は別に愚痴っているわけでも何でもなくって、困難な状況でればあるほどファイトが湧いてくる根っから「Mな性格」の私は、これはいい機会だから「へん。やってやろうじゃないの」と心に誓った次第(何をやるかはこれからの問題だけれども...ハハハハ)。

一昨日は久しぶりの教会でのコンサート

2008-08-03 16:35:14 | Weblog
とはいっても、国際的人権組織アムネスティの日本支部と永山子供基金主催のコンサートなので、半分はシンポジウム。そのせいか、いつもの私のコンサートのお客さんとは層がちょっと違っていてかえってそれが新鮮で面白かった。
このコンサートの空間で思ったのは、ほとんどお客さんのいないリハーサルの時よりもお客さんが満員に埋まった時の方がはるかに音が響いていたこと。それがちょっと驚きでもあった。リハの時には、さほど響く空間とは思わなかったのが、お客さんを前にステージに上がり、音を出した瞬間、心の中で「ウソ!」と叫んだほどだ。
「わお、けっこう鳴ってるじゃん」(人が入ると人間の身体が吸音材になってしまうので、お客さんがいた方が響くホールというのも案外珍しい)。
演奏家というのは、自分の音が鳴っていると思ったら勝ったも同然(特に私の場合は...笑)。後は、何でも自分の思いのまま(というのも大袈裟だが)に表現していくことができる。
音楽というのは、ことばよりも直接的に人とコミュニケーションがとれるものなので、たとえ相手が外国人であろうとも、たとえ思想信条の異なる人とでもダイレクトに心を通じあうことができる。それが、ある意味、音楽の最も強い武器なのではといつも思っている。だからこそ、お客さんがどんな年令、どんな職業、どんな国籍の人たちでもどうやってコミュニケーションを取っていくかということを最も大切に考えなければならないことになる(こんなこと、別に音楽だけの話しじゃないけれどネ)。
だとしたら、音が自分の思う通りに出せているのと出せていないのではその説得力に雲泥の差がでてきてしまうのも当然の話し。自分の自分の音や表現に自信がなければ相手を説得して納得させることなど到底できないからだ。
まあ、そういう意味ではけっこう響く場所でよかったのかナ、と私自身は思っている。一緒にやったピアノの久保田修氏とも、丁々発止、いつも通りの「音の対話」を楽しむことができたし、ゲストに招いたフルムスきってのヴォーカリスト新藤清子さんの歌(児童虐待や親の愛情に飢えた子供たちへの愛情を描いた私の曲『置き去りにされた愛』一曲を歌うためだけに彼女に来てもらった)もきっとお客さんの心に届いていたのではないだろうかと思う。
久保田氏も私も、最近作曲やら指揮やら文筆やらで若干演奏から遠ざかっているきらいがあるけれども、音楽というのは、実際のお客さんを目の前にしてはじめて成り立つものなのなので、自分自身の演奏機会はできるだけ多くしなければと今さらのように思った次第だ(久保田氏はそう思ったかな?)。
そんなことを再確認できただけでも私にとってはとっても価値のある演奏会だった(謝々)。