みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

学生時代、主夫と保父さんに憧れていた。

2013-01-30 16:38:16 | Weblog
保父さんになるチャンスは大学卒業時一瞬あった。
知り合いの保育園の園長さんが保母さんを募集しているという話を卒業間際に聞き込んだからだ。
すかさず「ピアノも弾けて子供も大好きですけど私じゃダメですか?」と聞くと「男の人はちょっと」という返事で雇ってはもらえなかった。
まだ保父さんということばが今ほど一般的ではなく、男性というだけで敬遠されてしまったのだ。
もしあの時私が保父さんになっていたら私の運命は大きく変わったことだろう。
まあ、人生というのはなるようにしかならないのだからそれが運命だと思うしかない。
アメリカに留学していた二十代当時、音楽学部の男の友人とカフェテリアでよく「ハウスキーピングって奥深い仕事だよな。なんかやってみたくない?」などと男同士でコーヒー片手にドーナツを食べながらこんな話をよくしていた。
ヴァイオリンを専攻していた男だったが、えらく繊細で大学オケのコンマスのくせに(つまり、彼はとりあえずNo.1の腕前だったのだが)本番の前に何度もトイレに駆け込む小心者でもあった。
そんな彼とよく「主夫やってみたいね」などと大真面目に話していたのだ。
私の気持ちは今でもまったく変わっていない。
というか、今は否応無しに主夫業を毎日やっているが、その仕事の奥深さにはいつも脱帽する。
「やってもやってもキリがない」この仕事は、いったんやり始めると止まらない。
すべてをやってしまいたくなるのだが、家庭内の仕事でやり尽くせるものなど何一つない。
洗濯一つ取っても、どこまで奇麗にすれば良いのか考えだすと時間があっという間に過ぎてしまう。
最近の服や素材はシワになりにくいようにできているからアイロンがけはあまり必要ないものが多いが、アイロンがけは、これはこれでけっこう面白い。
特にシャツのアイロンがけは襟や袖口をきれいにかけられた時などかなり快感だ。
掃除も際限がない。
特に、ウチのように畳の部屋がまったくなく全てがフローリングの家だと、どんな小さなワタぼこりでもすぐに目立ってくる。
「あれ、さっき掃除機かけたばかりなのに」という感じでいつも掃除に追われる。
ただ、この冬の時期に一番困るのは水仕事で手が荒れることだ。
私は男なので手あれ自体にほとんど頓着はないが、手があまりにもガサガサになってしまうとそのガサガサの手で彼女をリンパマッサージしなければならないのが困りものなのだ(リンパマッサージというのは本当になでるような優しいソフトなタッチが必要だからだ)。
手あれ防止に手袋をすれば良いという人もいるが、手袋で細かい作業なんかできるわけがない。
なるべく、水仕事は手早く済ませてしまう他、手はないのだ。
でも、こうしたハウスキーピング、基本的には彼女と一緒に生活し始めて以来ずっと分業でやってきたもの。
彼女にしても、今何もできない悔しさをイヤというほど味わっているはずだ。
早く家事に復帰したい。でも、できない。今、彼女はそのジレンマと闘っている。
でも、逆に言うと、彼女が家事に復帰できることそのものがリハビリの成果なのだから、考えようによってはこれはこれで頑張る指標にもなる。
友人に、家で年寄りの介護をしている男性音楽家がいる。
彼は、実にひょうひょうと家事や介護を毎日こなしている。
彼は、仕事をしながら毎日家中の人間の食事を欠かさず作っているのだ。
「何も考えずに坦々とやらなきゃ、こんなものこなせないよ」といつも笑いとばす。
でも、彼よりは私の方がはるかに希望があると思っている。
だって、恵子はいつか家事に復活する。
そう私は信じているのだから。

「鏡取って」と

2013-01-27 18:57:23 | Weblog
アズキ豆(小豆)をワリバシで挟む訓練をやっている最中に恵子が頼んできた。
何で?と聞くと、見て確認しながらやれば絶対にできないことはないから、と言う。
手を挙げるにしても足を曲げるにしてもその動作を見ながらやるのと見ないでやるのではリハビリの効果が全然違うと療法士さんたちも言う。
「じゃあ、鏡の前で歩けば普通に歩けるはずじゃん」と私が彼女に言うと、ウンそうだよ、歩けるはずと彼女はすかさず応える。
もちろん、まだちゃんと歩けているわけではないのだけれども、こういうイメージトレーニング、つまり、どんな動作でも目で確認しながら練習をすれば絶対にできるようになるという「確信(というよりはイメージなのかな)」のようなものを彼女は持っているのかもしれない。
それがたとえ思い込みであっても、人間の脳なんていうのは、常に意識に「ダマされている」のだから、リハビリというのも脳をいかにダマしていくかの作業に他ならない。
まったく一単語も発音できない失語症の人も、歌を歌えばどんなことばでもしゃべれるようになる。
これも脳がダマされた結果なのか。
そんなバカなと思う人は、映画『英国王のスピーチ』のジョージ六世の例や、アメリカの上院議員で頭に銃弾に受けことばを失ったガビー・ギフォード女史が「歌う」音楽療法でことばを取り戻した例を見れば容易に理解できることだ(こんなことは常にいろんな所で言われたきたことだ)。
この事実に対して精神科医や音楽療法士は、「ことばは左脳の機能だが、音楽は脳の全ての場所を使って行う作業なので、音楽が言語の機能回復に多大な影響を及ぼす」といった説明をするが、多分これだけでは音楽が言語を回復させるメカニズムの完全な説明にはなっていないと思う。
おそらく、まだ誰もこの「歌がことばの回復を助けるメカニズム」を完璧に説明できてはいない。
であっても、私の素人考えで言えるのは、脳というのはスーパーコンピューターよりもはるかに優れた作業を行える場所であるのと同時に、簡単にダマされてしまい易いものでもあるということだ。
普通、我々は電気製品や車、その他の工業製品の寿命を長持ちさせるために「ダマしだまし」使う。
道具をどうやったらうまくダマして長持ちさせるかにも私たちは工夫する。
きっと、人間の脳にもそんなところがあるのかなと思ってみたりする。
動かない手を、動かない足を無理矢理ひっぱたいてみても絶対に動きはしない。
しかし、どうやったらこの動かない手を動かせるか、どうやったらダマせるのか(「俺は動くんだ、動くんだ」と手に思い込ませること)を、ある程度機能的に、合理的に考えるのがリハビリだとすれば、恵子が言う「見ていれば動かせる気がする」というのも、(視覚が脳をダマすという意味では)ある意味、正しいリハビリの方法なのかもしれない。

人の気持ちの浮き沈みというのは

2013-01-22 18:45:08 | Weblog
自分自身でもどうにもコントロールできない部分があるから、人は躁になったり鬱になったりとアップダウンを繰り返すのだと思うけれども、身体に障害をかかえている人と一緒に暮らしているとその度合いは一層増してくるのかもしれない。
自分のこれまでの人生を振り返っても、自分自身のメンタルな状況はハイになることはあってもあまり鬱という状態を経験してこなかったように思う。
がしかし、連れ合いが倒れて退院後、家で二人でリハビリを続けているとかなりシビアな場面にも遭遇し、患者ではない私が落ち込むこともしばしばだ。
「普通ではない」ということを頭ではわかっていても、やはり自分自身の身体ではないので、彼女の痛みや苦しみが自分のことのように理解できているかと言われればいささか心もとない。
私は、これまでに骨折すらしたことがないので、自分の半身が麻痺している状態、身体の一部が動かないという状況をなかなか想像できない。
常に一緒にいる彼女の身体の中がどういう状態なのかを自分の痛みとして感じようとは努めていても、実際問題、自分のこととしてそれを理解するのは不可能だ。
「いつも右半分は痺れている」という何気ない彼女のことばに時々「ハっ」と気づかされる。
ああ、そうか、やはり身体はいつも痺れているのだ。
そんなことに改めて気づかされるたびにその痺れや痛みを取り去ってあげることもできない自分の無力さにも気づかされる。
「時間が解決する」のかどうなのかすらわからないが、常にリハビリの努力は続けていくしかない。
そんな私は昨年夏かなり落ち込んだ。
ちょうどその時、私を救ってくれたのは小学校時代の一人の同級生だった。
彼も同じ脳卒中の患者。
彼が罹患してから既にかなりの時間がたっていたので、どうしているのかなと気にはなっていた。
そんなYくんからの手紙が届いたのは、昨年の夏の終わりだった。
おそらく友人経由で私の事情を知ったのだろう。
彼から聞いた彼の発症の経緯は、私にはとても悲惨に思えた。
彼の実家は代々寿司屋を営んでおり、彼もまたその店をいつしか切り盛りするようになっていた。
そんなある日、店終いをして全ての従業員を帰らせた後、一人誰にも気づかれず店内で倒れたのだった。
彼が発見されたのは翌日従業員が店に再び戻ってきた時だった。
そんなY君は、当然、麻痺や後遺症に苦しんだ。
それでも彼は必死に頑張り、今では毎日自分で築地に買い出しに行き店を以前の通り切り盛りするまでに回復している。
彼は、私を元気づけようといろいろなメッセージを手紙に書いて送ってきてくれたのだった。
私は、すぐに彼に電話を入れ、数日後に会うことを約束した。
会わずにはいられないと思ったからだ。
新宿駅のそばで彼と待ち合わせた。
手に杖を持ってはいるものの、その足取りは健常者のそれと何も変わらなかった。
それを見ただけで私の心は幸せな気持ちに満たされるようだった。
何十年と会っていなかったY君をその場で思い切り抱きしめたい衝動にも駆られた。
私たちは、近くの喫茶店に入り少しずつ話を始めた。
彼は、自分のカバンから紙を取り出すと何やら書き始めた。
彼は、脳卒中の患者には二通りの患者の種類があるということを私に説明しようとしていたのだった。
一つ目のタイプは、常にリハビリを怠らずひたすら良くなることを信じて前に進む人。
そして、もう一方は、途中で回復を諦め「もうこれぐらいで良い」と思ってリハビリも止めてしまう人。
彼は、こうも説いてくれた。
「この病気は、諦めちゃ絶対にダメ。諦めた瞬間、その人の身体は現状維持どころか悪化の一途を辿っていくよ。でも、諦めずに努力していけば必ず良い方に向っていくの。それが、たとえ発症前と同じ状態でなくても、発症前以上の状態にだって行くことは可能なの。だから、リハビリ、苦しくても頑張って」。
そう言って彼は、いきなり小学校時代の私のアダナを口にした。
小学校を卒業して以来、ほとんど耳にすることのなかった懐かしい小学校時代の自分のあだ名。
それを、Y君の口から聞き、私はとってもハッピーな気分になっていた。
私は、思わず彼に握手を求めた。
麻痺していたという彼の右手を力いっぱい握りしめると彼も、私の気持ちを理解したのか、渾身の力で私の右手を握り返してくれた。
その力強さに私の落ち込んでいた気持ちは思い切りどこかに飛んでいってしまうようだった。
私は、この時の彼の存在にどれほど勇気づけられたことだろう。

30キロオーバー

2013-01-11 22:14:37 | Weblog
妻の恵子の体重が今日初めて30キロの大台に達した。
減ったのではなく、やっとここまで体重が回復したのだ。
昨年の夏に、彼女の体重は28キロまで落ちていた。脳卒中を発症した時の体重が40キロ前後だったので、そこから10キロ以上落ちたことになる。
世の中の人は体重を落とすことに血道をあげるが、こうして病気とかを体験すると体重を増やすことがいかに困難な作業なのかがよくわかる。
特に、彼女は半身麻痺の身体をリハビリで元通りに動かせるように訓練を続けている。
体力がなくてはリハビリそのものを維持していくことが難しいのだから体重を増やすことは治療の一環でもある。
体重の減少は、長い入院生活と麻痺した身体が筋肉そのものをそぎ落としてしまった結果だ。
人間の体重は、もちろん脂肪が担っている部分も大きいが一番比重をしめるのは筋肉だ。
なので、ボディービルダーは、体重を減らすことなどハナから考えない。ひたすら筋肉を増強して体重も増加させる。けっして彼ら彼女らは痩せてはいないのだ。
彼女は、もちろんボディビルなどとは無縁の身体だ。
むしろ、ボディビルダーのように、あんな筋肉があればなと羨ましくさえ思う。
昨年の夏に落ちた体重は、さらに別の悲劇も生んでしまった。
担当医師は、「飲む点滴」のような栄養剤も処方してくれたが、同時に食欲増進のために別の薬も処方してくれた。しかし、これが大変な事態を招いてしまう。
この薬を服用してまもなく、彼女の身体が以前よりも身体がこわばり、震えだし、麻痺のない方の足までまったく動かなくなってしまったのだ。
その様子は、まさしく「パーキンソン病患者」の症状と同じ。
あわてて、医師に電話すると、「その薬は稀にパーキンソン病のような副作用を起こすことがあるのですぐに服用を中止するように」。
そんなの早く言ってくれよ。症状が出てからじゃ遅いだろ。
私は医師にそう叫びたくなったが、私は、恨みごとは言わなかった。
件の医師も本来適量とされる量の薬を処方しただけだ。
恵子があまりにもやせ過ぎていたために医師の考えた薬の適量が適量でなくなっていたのだから、誰を恨むわけにもいかない。
幸い、この副作用騒ぎは薬の服用を中止したことですぐに収まったが、このトラウマは今もなお私と恵子の頭に重くのしかかっている。
クスリは怖い。まあ、そんなことは当たり前のことなのだろう。全てのクスリは毒だ、という認識をまず持たなければならない。
毒になるものだからこそクスリになる。そういう言い方もまんざら間違いではない。
ワクチンにしろ何にしろ、クスリというのは、ある意味「毒をもって毒を制している」だけの話だ。
なるべくクスリは飲まない方が良い。これも当たり前の話なのだ。
私は、彼女の入院から今日までずっと「完璧な栄養士」をやってきたつもりだった。
入院中から彼女に出された食事はすべて中身も味もチェックしてきた。
だから、自宅介護でも栄養士としてはパーフェクトに食事を作ってきたつもりなのだが、にもかかわらず彼女の体重は減少した。
さまざまな要因が彼女の食事を邪魔するからだ。
栄養剤を毎日飲み、一回でそれほどの量の食べられない彼女に三度ではなく一日五食で分けて食事をさせながらも、なかなか体重は増えず、週一回の体重測定でも0.1キロとか0.2キロずつぐらいしか体重は増えていかない。
しかし、その彼女の体重がとりあえずの目標である30キロオーバーに今日達した。
もちろん嬉しいことだが、それでも「また減ってしまうのでは」という不安も心のどこかにある。
まあ、そんな弱気ではしょうがないので、今は次の目標の35キロオーバーを目指して頑張るしかない。
彼女が病気に倒れた時にかかげた5つの目標(一人でトイレに行く、車椅子からサヨナラする、杖なしで歩く、右手で食べる、右手で絵を描く)があったが、その5つのうちクリアできたのはまだ最初の2つだけだ。
目標を5段階に設定したが、目標の2を達成した後の3までの距離が限りなく遠い。
きっと、目標を設定した時にはまだそれぞれの目標の難易度そのものがあまり良く理解できていなかったからなのだろう。
しかし、いくら遠くても到達できない目標はない。
到達できないと思った瞬間、目標はまたさらに遠くなっていく。
人の進歩なんてこんなものなのじゃないのかな。
亀のように鈍い歩みでも前に進み続ければいつかはゴールに到達する。
そう信じなくては。