みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

四季の匂い

2010-11-13 14:51:46 | Weblog
というのは確かにある。
というよりも季節も時間も匂いで感じるものだと小さい頃から思っていた。
朝には朝の匂いが、夕暮れには夕暮れの匂いがある。
同じように、春はジンチョウゲの香りと一緒にやってくると思っていたし、夏にはクチナシの香りやジャスミンの香りが辺り一面を甘く包む。
初秋にはキンモクセイの甘い香りにむせかえるのだけれども、今頃の季節(初冬というのだろうか)に香る花はバラ以外あまりない。
むしろ、枯葉や実がどんどん木々から落ちてきて、動物たちの冬ごもりの準備の季節になる。
そんな季節にあまり香りなんかないだろうと思っていたら、「これは確かに秋の匂いだ」というものを最近特に強く感じるようになった。
落ち葉の匂いとでもいえばいいのだろうか、枯葉が土の上に堆積して土の香りと渾然一体となってとても心と身体をリラックスさせてくれるような香りだ。
もちろん花々の香りのような強烈な魅力(これは動物や昆虫を引きつける魔性のような香りだ)ではなく、もっと、シットリとした人を落ち着かせる香りだ。

この「秋の匂い」を特に感じるようになったのは、昨年伊豆に引っ越してきてからだ。
東京にずっと住んでいる時も嗅いではいたはずなのだが、それほど意識することはあまりなかった。
しかし、風に乗ってやってくる「その匂い」には本当に人の心を和ませるような力がある。
なんで、そんな気分になるのだろう?
ちょっと考えた。

次の瞬間、「あ、そうか」とわかった。
枯葉の匂いというのは、なんのことはない「ポプリの匂い」じゃないのか。
一切の水分をはぎ取ったドライな植物(葉)が辺り一面を絨毯のように覆い尽くしているこの環境は「自然のポプリ畑」なんだとふと気がついた。
だから気持ちが落ち着くのか...。

都会にいると、そんな当たり前のことに気がつく機会はとても少ない。

もうすぐフルムス定期コンサート

2010-11-04 16:47:33 | Weblog
なんてことを書くつもりはあまりなくて(毎日にようにこのことばかりが頭の中を占めているので)、最近チラチラ感じることをちょっと書いてみる。

それは、コミュニーケーションのこと。
というか、人間というのは、ホントは毎日こればかりで生きているはずなのだが、これを一番おろそかにしている気もしないでもない。
まあ、そんなに人様を批判できるようなエラい人間ではないのだけれども、手紙から電話、パソコン、ネット、そして携帯、などという風に日常的な人と人とのコミュニケーションツールが変わっていく中でやはり基本的に、人間は何をコミュニケーション手段に使おうがその本性というものは根本的に変わらないのだろうナと思う。

何が言いたいか?
要は、人は根本的に明るい人は明るいし、暗い人は暗い、という当たり前の部分から抜け出ることはないのだな、ということ。

これでもまだちっとも具体的じゃない。

もっと直接的に言うと、メールのやり取りのこと。
メールを出す。つまり、こちらからの情報を発信する(何かを伝えたいし、言いたいことがあるからメールするわけだ)。
これは誰でもやる。
でも、それに応える人と応えない人がいる。
これが問題だ。

情報の発信は誰でもやる(ツイッターなんかこれの典型だと思う。皆さん情報を発信しっぱなし)。
でも、それに応えることの方がコミュニケーションとしては数倍大事なことなのに、それを一生懸命やる人が少ない(ツイッターのフォローというのもこの「応え」になってはいない。ほとんど一方的なフォローであまり人の言うことを聞いていない)。
要するに、この「人の話を聞かない」というのがコミュニケーション上は一番の問題なのだ。
ナゼって、コミュニケーションというのは、人の話を「聞く」ところから始まるのだから。

ツイッター上では数分おきに「どこにいる」だの「何をしている」だのの情報を発信するクセに、こちらからのメールには数日たってもまったく応えない人がいる(ハハハ)。
まあ、そういう人なんだろうと思ってこちらも諦めるが、この諦めるということは、この人とはもう交流しない、コミュニケートしないという結論を自分が出したことになる。
ご本人は、いろいろ情報を「発信している」から十分人と世の中とコミュニケートした気になっているのだろうか?
げんに、こうやって今書いている私自身も、この文章を書いたことによって「情報を発信した」とか「何かを伝えた」という錯覚を起こすかもしれない。
それは多分本当じゃない。
これは、十分気をつけなければならないことだと思っている。
こうやって(ブログとかに)何かを書くことによって、誰かが読んで、その人と「コミュニケートした」気になっている人がいたとしたらそれは大いなる錯覚だろうと私は思う。

コミュニケーションの基本はまず相手を聞くこと。
ここから始まる。
でも、これも現代社会ではけっこう危険なものを孕んでいるのかも?と思う。
だって、無数にあふれる情報を読んだり見たりして、「聞いている」気になる人も逆にいるかもしれないからだ。

まあ、要は、音楽が生でしか本当の感動を味わえないのと同じように、人と人とのコミュニケーションもじかに触れ合える状況で「聞いて、伝えて」という行為を繰り返すしかないのかナ?と思う。

だから、私はあまりこういうブログにモノを書きたくなくなるのかナ?