みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

その手があったか

2015-05-19 19:38:19 | Weblog
私は、SNSでよく見かける「… なう」という文章が苦手だ(こう書く人、世の中にゴマンといるけれど)。
というより、私はこの「...なう」という文字を見るたびに「この人、一体何考えてるんだろう」とさえ思ってしまう。
なんでわざわざ自分の居場所(や、自分の行動)を、赤の他人(しかも不特定多数)に知らせる必要があるのかなと思うからだ(あまりに無防備じゃない?)。
どのみち現代に生きる私たちの行動はスマホや携帯など何らかの端末を持っている限り世界中どこにいても探知される(可能性)があることは周知の事実。
居場所をわざわざ(しかも自ずから)宣言する必要などどこにあるのか。
それでもなおかつ「私ここにいて何々してます」と(世間に対して)つぶやきたいのはなぜなのかナといつも思う。
きっと誰かとつながっていたい、ということなのか(SNSの目的は元来そこにあるのに何を今さら寝ぼけたことを言っているんだと突っ込まれるかもしれないが)。
翻って、私たちが認知症患者さんたちをケアする時の一番の難しさもまさしくここにあるのではという気がいつもしている。
通常の会話や社交であれば、普通、人と人は「ことば」でつながることができる。
しかし、ことばでつながることができない時、基本的に(人と人との関係で、国と国との関係で)問題が発生する。
私たちと認知症患者の人たちとのトラブルの原点もここにある。
患者さんとは普通に(ことばで)つながることができない(あるいは、困難だ)。
それが家族間だろうが、他人同士だろうが関係ない。
昨日まで、あるいはさっきまで普通につながっていた関係が突然何のコミュニケーションも取れなくなってしまう。
ことばによるコミュニケーションだけでなく、ごく近しい人たちの間で普通に行われていたスキンシップまでもが拒否されてしまうのが認知症ケアの深刻な問題の一つなのだ。
単に優しく身体に触れようとすることが(患者さんからは)「攻撃」と受け取られたりするし、患者の側も必要以上に攻撃的に反応する。
身体はそこにあるのに心はおよそどこにあるのか「行方不明」な状態、それが認知症ケアで日常的に私たちが直面する最も大きな問題の一つだ。
しかし、そんな一見つながりを拒否しているように見える認知症の人たちの心にも音楽ならわりと簡単に到達することができる。
頑丈な鎧でプロテクトされ閉ざされてしまっている(認知症患者の)心の扉を開くことのできる「魔法の鍵」が「音楽」なんだということに人は案外気づかない。
というのも、この心の扉を開ける鍵は一人一人違うからだ。
マスターキーでどんな扉でもガチャというようなイージーなものではない。
しかし、いったんその人にピッタリのカギ(音楽)が見つかればこんなに簡単に心の扉を開けられる道具も他にはない(今のところ、抗認知症薬で音楽以上の効果を持つものは一つもないはずだ)。
その人の心の扉を開く「魔法の音楽」とは、その人の記憶にダイレクトに届く音楽。
「記憶」というのは、その人の「人生」そのもの。
音楽が、その人の記憶(=人生)を蘇らせてくれるのだ。
カチャ。
「その音楽」が鳴った瞬間、一瞬にしてその扉は開く。
ここには(医学的な)エビデンスも(経済的な)費用対効果も必要ない(はずだ)。
しかし、私はこれまでにこの2つを明確に示せと何度要求されてきたことだろう。
つまり、「そんなに音楽に効果があるんだったらその証拠をちゃんと出せ」と言われてきたのだ(今でも言われる)。
エビデンスは単なる医学的な数字、費用対効果も単に経済的な数字に過ぎない。
そんなものが何の証拠にもならないことは、医者やエコノミストが一番よく知っている。
人の心がそんな数字で測れるんだったら苦労はない。
iPodという小さな「魔法の箱」の中におさまった音楽が認知症やさまざまな病気に悩む人たちの(閉ざされた)心を救っていくさまを追ったアメリカのドキュメンタリー映画『パーソナルソング』の上映会が昨日国会の参議院議員会館で議員さんや介護関係の方など200人近くの人たちを集めて行われた。
私が、「音楽を介護の現場で実践しているミュージックホーププロジェクトの代表者」という形で上映後の短い解説を担当した。
この映画の自主上映会を行う運動は今後も続けていくつもりだ。
なぜなら、この映画ほど音楽と認知症の関係を世の中に適確に説明してくれる道具も他にないからだ。
すると、上映後ある方からこう声をかけられた。
「今度はみつとみさんがこんなドキュメンタリー映画を作る番ですね」。
そうか。その手があったか。

介護と息抜き

2015-05-08 14:10:34 | Weblog
最近、コンサートでよくするトーク。
「自分が介護する立場になって、自分がフルートを演奏する人間で本当に良かったナと実感しているんですよ」。
こんなことをよく話すようになった。
フルートを吹くことが介護とどう関係するのか。
私自身、最初からこのことに気づいていたわけではなかった。
しかし、結果として自分の職業が音楽家、しかもフルーティストであることがこれほど介護に役立つことになるとは夢にも思わなかったのだ。
どんな形の介護であれ、介護はストレスが多い。
地域で介護をする人たちが集まる「介護家族の会」の会合に出ると、時々あまりにも悲惨な話を聞かされことばを失う時がある。
みんなギリギリのところで(介護に)踏ん張っているんダ。
そんなことをいつも思い知らされる。
人の心の中をおし計ることはできないが、おそらくみんな自分たちのストレスをどこかでうまく逃がしているのだろうと思う(なかには逃がしきれずに修羅場になってしまう人もいるのかもしれないが)。
介護という「状況」で、毎日楽しく明るく笑って暮らしていける人は少ない。
理想的にはそうあるべきなのだろうが、現実は過酷だ。
私の場合も4年前に恵子が病気になり彼女の介護を24時間しなければならなくなり、しかも家事全ても一手に引き受けなければならない生活になり、自分ではそれほどたまっていないと思っていたストレスも時々「爆発しそうになる」ぐらいたまってしまうことがある。
そんな時、本気で「どうしたらこの状況から逃れられるのか?」と真剣に悩む。
ふだん伊豆の山奥に住んでいるせいか、そう簡単に友人と会ってお茶をしたりアルコールを飲んだりはできない。
そんな私がどうやってストレスを逃しているのか。
ある時気がつくと、「あ、そうか。これか」と思い当った。
それは、「楽器」の練習。
楽器の演奏が仕事の私にとって「なぜ楽器の練習が息抜きになるのか」。
私自身にもよくわからなかった。
しかし、不思議と楽器を持つとストレスは消えていく。
音楽が好きだから?
楽器をずっと長年やってきたから?
こんな私の疑問を、解剖学者の三木茂夫という方がその著書の中で明快に説明してくれていた。
三木先生の「論」はとてもユニークだ。
ユニークだけれども、とてもわかりやすい。
「ストレスがたまる」と言った時の「たまる」ということに関しての先生はこう説明する。
「植物はモノをためない。水や栄養を取り入れそれがそのまま成長につながっていく。だから、植物は自然そのもの。宇宙そのものと言える」。
しかし「動物は、飢えにそなえて身体の内部(内臓)に食べ物を栄養や血液、脂肪、筋肉に代え蓄え身体を動かしていく。だから、その内臓の働きに不都合が生じるとどんどん不必要なものがたまっていく。それが結局ガン化してしまうことになる。要は、ためないこと」。
先生に言わせると「ストレス」も「心にたまった不必要なモノがガンになってしまったモノ」ということになる。
だから、先生は「動物も、植物のように宇宙と一体化した生活をしなければならない」と説く。
解剖学者というのは、最初から「死んでいる人」を相手にしているせいか、人間の「生と死」をとても客観的に冷静に見つめる人が多い。
この三木先生もそうだし、『バカの壁』の作者の養老孟子先生もそうだし、自ら脳卒中に罹患して自分自身の右脳と左脳の機能を冷静に分析したアメリカの解剖学者のジル・テイラー女史など、解剖学の先生たちの「論」はいずれも明快だ。
普通、私たちは死んだ後のことがわからないから「生」の側から(さまざまな角度で)「死」の意味を考えようとする。
しかし、解剖学者という人たちは、最初から「死」と向き合っているのだ。
つまり、「結果(死)」から「原因(生)」を探りそこから人間(だけではなく、ありとあらゆる生物)が「生きている」ことの意味を追求する学問だからそのロジックが明快なのかもしれない。
三木先生が、人間(動物)に必然的に起きる諸悪の根源である「たまり」を解消するために一番大事だとしているのが「丹田呼吸」だ。
丹田(つまり、腹筋のこと)を外側からのマッサージで刺激することも内臓のたまりを解消するのに役に立つし(つまり便通がよくなる)、「肺にたまった汚い空気」を押し出してやることも肺の浄化に役に立つ。
せっかくなので、その辺の記述を三木先生の『生命とリズム』という本から抜粋してみる。
「植物というものは宇宙と一体をなしている。つまり、自分のからだの延長が宇宙そのものであります。ところが、動物というものは、宇宙を自分のからだの中に取り込んでいる。いわゆる小宇宙というものを抱え込んでいるため、その宇宙からある程度隔離されている。いってみれば、自然に対して自閉的になっているのです。だから、植物は宇宙と一心同体であるため、ため込む必要がない。ところが動物は自然から独立したために、やはり冬がくれば食物がなくなるから、どうしてもからだの中にため込まねばならない。そのようにため込むことを行うようになったのが人間の<業>です。
(中略)
だいたい、たまればたまるほど汚くなります。例えば、肝臓の流れが悪くなると最後には肝硬変になります。肝臓でためても、それはつねに小川のせせらぎのように流れていないといけません。
まして、夜寝る前に餓鬼のように食べる。腹いっぱい食べて寝る。胃袋の中で一晩中たまって腐っていく。こんな時はたいてい慢性胃炎になっています。この胃の粘膜の延長が舌です。舌が真っ白で、これは粘膜の新陳代謝が滞っている証拠です。
(中略)。
このたまった部分をマッサージしますと腹壁を介して腸管がハッと気づき蠕動(ぜんどう)を始めます。ですから、上腹部の丹田呼吸の運動というものは、内臓の<たまり>を解消していく理想的な方法であると思います。
(中略)。
肺といっても食道の一部が盲腸のようにふくらんだものですから、ここにもたまります。肺の中も糞づまりのようになりますから、どうしてもきれいに出さないといけない。呼気が大切なゆえんです。つまり、肺もまた空気のたまり場であります」。
 
そうか、自分が管楽器をやってきたことがこんな形で「身体や精神の浄化」に役に立っていたとは..。
とはいっても、丹田呼吸は別に管楽器だけに限らない。
「歌を歌う」ことでも丹田呼吸はできるし、単にゆっくりと「深呼吸」するだけでも同じ効果がある。
要は、横隔膜を使って「たまったモノ」を押し流してあげれば良いのだ。
私も、恵子に毎日のように言っている。
「良い姿勢になって肩の力を抜いて…」
「深くゆっくりと呼吸して」
「息を吐く時は思いっきりゆっくりと…」
すると、彼女のこわばり固く突っ張っていた足の指が少し開いていくのがよくわかる。

右脳と左脳、そして音楽と認知症

2015-05-03 09:36:53 | Weblog
二十代の初めの学生の頃から音楽の仕事をしていた。
だから、別に大学と仕事はあまり関係がないのでは…と思っていた。
それでも、二十代の半ばで突然アカデミックな音楽の勉強をやり直してみたくなった。
別にコンプレックスがあった訳ではない。
音楽の勉強なんか大学に行かなくったって十分できると思っていたし、げんにレコーディングスタジオでクライアントやプロデューサーに要求される通りの演奏がいつでも出きる自信はあった。
今さらアカデミックに音楽を勉強し直すことにどれほどの価値があるのだろうという気はしていたけれども、それでも「留学」という形でもう一度音楽を勉強し直してみるのも悪くないかナと思った。
まだ二十代半ば。
人生いくらでもやり直しがきくと思っていた頃だ。
アメリカで勉強していくうちに面白いことに気がついた。
音楽理論の授業だった。
品の良い中年女性が担当のクラスだった。
毎週やる小テストの答案を返される時(アメリカの大学では毎週必ずテストがありその点数の積み重ねで成績が決まるので学生は絶対に授業を休めない)、一人の学生が教師に食ってかかり始めた。
「答えはあっているのに何で点数を引かれているのか」と彼は教師に抗議していたのだ。
先生はやんわりと学生をこう諭した。
「確かに答えはあっていますが、あなたの解答の文章の英語に間違いがあります。だから点数を引いたのです」。
そう先生が言った瞬間、私は自分の答案用紙をあわてて見直した。
ネイティブの学生の英語がチェックされるんだったら外国人の私の英語はどうなのだろう?
しかし、幸い私の答案から英語のマイナス点は引かれていないようだった。
答えはあっているのに英語がおかしいと言って点数をひく先生。
それに気色ばって抗議する学生。
私がその光景を見て気がついたのは、この国(アメリカ)では例え「音楽理論」というロジックの中で行われる講義の中でも教師のロジックの方が優先されるということだった。
日本のように社会の中に存在する「暗黙のルール(見えないロジック)」にほとんどの人が従って暮らしている社会とは違い、個人のロジックがまず優先され、それがぶつかりあう社会がアメリカなんだと初めて気づかされた瞬間でもあった。
でも、これってアメリカだけじゃないのでは。
ほとんどの西欧社会はこのロジックで動いているんじゃないかナ。
だから個性的と言われ、まず個人が尊重される。
うん?でも、待てよ。
それって果たして良いことか?
何億人という地球の住人全てが個人のロジックを主張したら世界はどうなってしまうんだ?
誰がどう世界をまとめるんだ?
きっと誰もまとめられはしないのだろう。
私はアナタとは違う。だから私がいる。だから私の理屈がある。
まさに、エゴを主張する左脳の働きがそうさせるのか。
だから、地球上では戦争が絶えないのか。
常に形、論理など、境界線を作ろうとする左脳の働きがロジックを作ると言われている。
だから、ここ(左脳)から言語や記号、理屈が作られるという説明はよくわかる。
一方の右脳では全ての境界がなく、自分の肉体もアナタの肉体も地球も宇宙も全ての境がなくなり流動体のようになっているという説明を、自らも脳卒中に罹患したハーバード大学の脳科学者ジル・テイラー女史(博士)が著書の『奇跡の脳』の中でしていた。
まったく科学者らしからぬどこか神秘体験のような説明(しかも、彼女は「ニルヴァーナ(涅槃)」ということばでその状況を説明していた)は、私にはけっこうしっくりきた。
だから、音楽は全て右脳の作業で、音楽に正しいも間違ったもなく(善悪の判断は左脳の仕事で、だからここでロジックが作られる)、音楽そのものが宇宙であり人間そのものだという言い方も「きっとそうなんだろうな」と妙に納得できた。
『水戸黄門』のような勧善懲悪ドラマは、「最後に善は悪に勝つ」、だから「善こそが人を幸福に導く」というロジックで作られることが多いが、これこそが私はかなりクセものだと思っている。
この理屈があるからこそ、人類は「私たちが正しい。だから、正しくない悪者をやっつけろ」と闘いをずっとし続けて来たからだ。
多分(私にも確信はないが)、人間の「幸福感」にはこの右脳と左脳の機能の違いが関わっているような気がしてならない。
以前私が書いた『音楽はなぜ人を幸せにするのか(新潮選書)』という著者でこの部分(右脳左脳の違い)をもうちょっと突き詰められれば良かったのだが、残念ながらそこまで突き詰められてはいなかった。
多分、今ならこういう表現を付け加えるだろう。
「幸福」と「不幸」という二つのことばを、対立することば(つまり、反対語)として理解してはいけないのではないのか。

不幸という感覚はおそらく全て左脳でとらえられている。
そんな気がしてならない。
なぜなら、人が不幸という感覚を認識する時そこには必ず自分と他者を区別する「境界線」があるからだ。
あの人は私よりキレい。あの人は私よりお金を持っている。あの人は私よりスタイルが良い。あの人は私より地位が上。あの人は私より楽器が上手… だから(ひるがえって)、私は不幸。
人間が自分を不幸と感じる時、必ずそこに自分と対象物との比較が存在する(嫉妬や妬みということばで表現されることもあるが)。
だから不幸、なのだ。
自分がもし世界にただ一人の存在で何も比較するものがなく宇宙そのものだと感じることができたら…(これこそ、なにやら神秘体験のような話になってくるが)…これこそが「幸福」ということなのでは、という気がしてならない。
ある音楽を聞いて幸福を感じる。
ある食べ物を食べた瞬間「幸福」を感じる。
これ自体はどんな人間にも起こることなので否定はされないだろう。
ただ、この「幸福」を感じる理由がどこにあるかで人々の意見は分かれる。
テイラー博士は、この幸福感を自分が脳卒中で倒れた時に感じたという(この辺が脳卒中を体験したことのない私にはわからないが、実際脳卒中を罹患した恵子も似たようなことを言ったことがあるので、きっと右脳と左脳には「何か」あるのではと思っているのだが…)。
テイラー博士は、その時(彼女の右脳で)感じた「幸福感」を「ニルヴァーナ」という単語で表現している。
もちろんこれは仏教用語で、一般的には「涅槃」を訳されることば。
で、それを女史は、「右脳で感じる自分とその他一切の対象物との境のない自分が流動体になってしまったかのような恍惚とした状態」と説明する。
これがもし「幸福」の正体だとしたら、私たちが音楽を聞いた時に感じる「幸福感」も食べ物を食べた時に感じる「幸福感」もなんとなく納得がいくような気が(私には)する。
つまり、時間も空間も、ある意味生きていることさえ超越してしまうような次元に一瞬にしてワープしてしまう状態(こんな稚拙な表現でいいのかナ?)が人の感じる「幸福感」の正体なのではと時々感じることがあるからだ。
これまで二百回以上訪問した介護施設でお年寄りたちが見せる「涙」や「笑顔」の正体が単に「音楽を聞いて、歌って、その音楽に関連する過去の記憶を思い出すから」という説明だけではどうも納得がいかないのだが、こうした右脳が感じる「次元を超越した普遍性」みたいなものにもし理由があるのだとすれば(私自身は)けっこう納得がいく。
とはいっても、こういうことを研究されている人は世界中探してもほとんどいない(音楽と脳に関する世界中の著作はかなり読んできたつもりだが、例えば私たちがいつも施設で感じているお年寄りたちの音楽に対する幸福感を説明している著作が現れてきてもそろそろ良い頃だと思うのだが、そんな本に巡り会ったことは一度もない)。
この数ヶ月、音楽で認知症を改善させたアメリカのドキュメンタリー映画『パーソナルソング』の自主上映会を各地でやろうと尽力してきた。
結果、今月半ばには(議員さんたちに見せるために)国会内でも上映できることになったし、その他、既に5、6カ所で実現の可能性も出てきている。
音楽こそが認知症の対策に有効!と主張する時、いつも言われるのが、科学的なエビデンスは?費用対効果は?といった問いだ。
もちろん、そういう突っ込みが来るのはよくわかるのだが、そもそも音楽がそういう「境界線のない右脳での作業」だとすれば、証明そのものが不可能なのではという気がしてならない。
だって、ロジックであれば「正しいか正しくない」かの論争があっても良いが、そもそもロジックを否定したところにある音楽がそんな「エビデンス」や「費用対効果」といった経済のロジックで議論されてよいものだろうかと思ってしまうからだ。
音楽はロジックではないからこそ、これまでの人類史で普遍的な価値を持ってきたのではなかったのか。
私たちが、本当に美味しいものを食べて幸福を感じている時に「なんで幸福なんですか。説明してご覧なさい」と言われて説明できる人がいるだろうか。
同じように、認知症(でなくても)のお年寄りが音楽を聞いたり歌ったりして幸せな顔で家族と話をされている姿を見て「なんで幸せなんですか。何を思いだしたんですか」と問いつめる必要がどこにあるのか。
右脳と左脳。
そして、音楽と認知症。
こんな視点で「老い」を見つめることが世の中の常識になる日が来るのかナ…。
毎日そんなことをラチもなく考えている。