みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

高齢者三原則

2015-06-09 20:34:01 | Weblog
四六時中どこかで戦争をやっているアメリカという(トンデモナイ)国に私が留学したのは七十年代後半。
あの泥沼のベトナム戦争が終わった直後だった。
大学のキャンパスのあちこちには至るところにまだ(学生たちの)反戦運動の名残りがあった。
と同時に、実際に戦場で戦い負傷しながら帰還したベテラン兵士(退役軍人を英語でveteranという)たちの姿も大勢キャンパスで見かけた。
私にとっては、日本で大学を卒業した後の学士編入だ。
否応無しに日本のキャンパスの風景とアメリカのそれを比較してしまう。
それがベトナム戦争直後だったからなのか、それともアメリカの大学ではそれが普通の光景なのか、私が最初に目にしたキャンパスはあまりにも「奇異」だった。
奇異ということばが適切なのかどうかはわからないけれど、私の素直な感情からすればそのことばが一番ピッタリきたような気がする。
それはそうだろう。
片方の手を切断してしまった人たち。あるいは両足を失ってしまった人たち。
いや、それどころではない。両手両足を持たない人たちだってキャンパスの中を(介助の人の助けも借りずに)自由に闊歩していたのだ。
それを「普通の光景」として受け入れられるほど、私はまだ「アメリカ」に慣れてはいなかった。
しかも、さらに私がもっと奇異に思ったのは、彼ら(その頃はまださすがにキャンパスの中で「ベテラン女性」の姿を見ることはなかったが)の異様なほどの明るさだった。
キャンパスを車椅子で移動する時の彼らの「ドヤ顔」も、教室に入ってくるなりいきなり机や椅子を電動車椅子でけちらして自分の場所をしっかりと作る(いささか乱暴な)「縦横無尽さ」もしっかりと未だに目に焼きついている。
もちろん今日本の街中で車椅子で移動する人たちを見ることはそれほど珍しい光景でもなくなった。
しかし、その時見たアメリカ人の表情と私が今日本で目にする車椅子の人たちの表情はどこかが決定的に違う。
どこが違うのか。
なぜかすまなそうに車椅子の上にいる人たちの多い日本の状況を見るにつけ、「別に悪いことをしているわけではないのになんでそんなに肩身の狭そうな表情をするのだろう」とつい思ってしまう。
それは、どこか健常者と対等な関係ではない今の日本の身障者の立場がそうさせているのでは…。
私は、そう思わずにはいられないのだ。
それは、老人介護の現場でも同じこと。
けっして老いることが罪悪なわけではないし(誰しもそうなるのだから)心や身体に障害があることだってけっして自分たちがそうなりたくてなったわけではないにもかかわらず世の中全体がどうもそんな(不平等な)関係を作りだしてしまっているように思えてならない。
障害者も老人も時に社会のお荷物的に扱われてしまうことだってある。
どうしてなんだろう、と思う。
日本の社会ってもっとお互い労りあって優しい社会だったはずなのでは。
やはりお金のせいなのだろうか。
老人や身障者が労働の対価を生み出しにくい存在だからなのか。
生産性の低い存在だからなのか。
ここ数十年の間に金融資本主義経済が日本人のいたわりあう心まで破壊してしまったのか…。
ここで私が思い出すのが、福祉の先進国家である北欧デンマークにある「高齢者三原則」だ。
これは、「自己決定の尊重」「自己資源の活用」「継続性の維持」という三つの原則のこと。
つまり、「高齢者自らが決定した暮らし方を尊重して,高齢者の残っている自己資源(残存能力)を活用して,高齢者の生活をできるだけ変化させずに支援する」という考え方だ。
だから、デンマークには、基本的に「介護」という思想がない(ことばぐらいはあると思うが)。
あるのは、高齢者が自立して生きられる社会を作る、という思想だけ(この高齢者ということばを身障者に置き換えても同じ意味になる)。
そんなこと当たり前じゃん、と私は思う。
「介護」ということばがあるからこそ、人と人との間に「介護してやる」「介護してもらう」という対等ではない関係が生まれてしまうのだ。
私がこれまでずっと介護施設で行ってきている「音楽サービス」は全て有料だ。
この「三原則」からすればこれも至極当たり前のこと。
この三つの原則を守るには介護する人と介護を受ける人が同じ目線に立たなければならない。
これ(同じ目線に立つこと)こそが本当の大原則。
どんな人間関係においても上下や優劣の関係があってはならない。
私はそう思っている。
そのための「有料」の音楽なのだ。
有料である限り、サービスをする側には「結果」を出すという「責任」が生じる。
だから、「介護してやってる、サービスしてやってる」という態度は絶対に取れないのだ(ここを勘違いしている介護士、看護士が時に施設内で問題を起こしたりする)。
有料だからこそ生まれる「対等な」関係なのだ。
無償のボランティアでは必ずどこかに「やってあげている」「やってもらっている」という目線のズレが生じる(このことに気がつかない人も案外多い)。
これで初めて相手の「個」を尊重し、その人の「資源(つまり人生や人となり、能力)」を考えながらサービスを持続的に行っていくという「三原則」が実現可能になってくるのだ。
日本の介護は、そこをまったく勘違いしている。
タダで「施す」のが介護であり福祉だというとんでもない勘違いを社会全体がしている。
こんな失礼な話(国)もないだろう。
こんな相手をバカにした話もないではないか。
こんな無礼を思いやりだと勘違いしている限り、日本人の「おもてなし」も一方的な押し付け、押し売りにしかならない。
そろそろバリアフリーなんていう和製英語を使うのはやめて、きちんとユニバーサルデザインの一つとして「おもてなし」の意味やノウハウを考えていかないといつまでたっても日本は「幸せな国」にはなれないのではないのか。
少なくともオリンピック、パラリンピック開催までにはこの意識だけでも持てるようにして欲しいと切に願っているのだが。







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2 コメント

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対等な関係に (藤原あや子)
2015-06-09 22:53:46
本当にそうですねー。私も常にそう思っています。それにしても、デンマークは実に素晴らしいですよね~。できることなら引っ越したいくらいです。アメリカも、戦争という背景はあるにしても、ちゃんと市民権があるし、みんな対等です。それにひきかえ『日本は?』と言うと……。お粗末ですねー。おっしゃる通り、『してあげる』『かわいそうだから…』というのが根底にあるから、『対等』ではない。施してあげるのが福祉で、障害者も高齢者もこの福祉の対象なのです。だから、絶対に対等にはなり得ない。その上、少し過激な発想かもしれませんが、『無能者』のような扱いさえ受けているような気がしてなりません。人権が無視されている。明日障害者になるかもしれませんし、みんな歳とるのは間違いないことなのに、想像力が全くないのかと思ってしまいます。オリンピックが起爆剤になってくれれば…と思うのですが、果たしてどうでしょうか? 『どんな人も気軽に観戦できるオリンピック』。良いですね~。『おもてなし』で招致したような感がありますが、本当のおもてなしとは何なのか、よ~く考えて欲しいです。ひとの意識を変えることほど難しいことはないですから、自然に任せていたら絶対に変わらないでしょう。国の政策の根本的な考え方が変わらない限り……。 個人的な話になりますが、外に出かけるとひとの目線が気になります。それは、ジロジロ見られるということではなく、『見ないように目をそらされる』ということ。『見てはいけないもの』としてとらえられているんです。これは実に不自然なんですよねー。ところが、子どもは珍しそうにジロジロ見るんです。『なんで大人なのに車に乗ってるの?』って感じで……。これの方が自然です。普通でいいのにー。因に、『すみません』という言葉ではなく、できるだけ『ありがとう』という言葉を口にすることにしています。そして顔もできるだけ上を向いて、胸を張るように心がけています。そうじゃないと、自分から社会から遠ざかってしまう気がするので……。 そんな気を使わなくてもいい国になってくれれば最高なんですけどね。
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Unknown (みつとみ俊郎)
2015-06-10 09:33:43
人の「視線」のことで私も本の中で書いたのですが、多分(これは確証はないのですが)ベケットの有名な戯曲の『ゴドーを待ちながら』の中のセリフに「向こうから身障者が歩いて来る時その人を見るのは目に入ってしまうのだから「自然」な行為だが、その人が通り過ぎてから後ろを振り向いて「二度見」する時には間違いなくその人の心の中に「差別」の意識がある」というものがあるのですが(出典が定かではないですが)、私は、若い時からこのことばがずっと気になって仕方がないのです。「その通り」だなと思います。向こうから身体の不自由な人が歩いてくる。それが自分の視界に入るのは仕方のないこと。でも、それを改めて振り返り確認する行為は「可哀想に」とかいった明らかに「自然」ではない意識が人の心の中に芽生えているのですよね。それが「憐れみ」であれ何であれ「差別」していることに変わりはないのではと思います。この目線があるから、身障者は外に行きたがらないのだと思います。うちの恵子も、よく「ごはん食べに行こうか?」と誘ってもなかなか素直に「うん」と言ってくれません。彼女の気持を思うとそれ以上無理強いはできないので諦めますが、彼女がもっと積極的「どっか行こうよ」と言ってくれる日をひたすら待っている毎日です。
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