というキャッチコピーを私は、ここ数年自分のスローガンのように使ってきたが、実際問題このことばに惹かれる人がけっして少なくはないんだということを昨日のコンサートで実感した。
昨日、新宿区の施設で行った「音楽は介護を救う~みつとみ俊郎の語る認知症ケアのヒントと音楽」というタイトルのついたコンサートに集まっていただいたのは60人あまりの方々。
開演直前1時間ほど前から空がにわかにかき曇り雷鳴と共にドシャぶりの雨。
コンサート会場の新宿西口中央公園の中の施設一階の会場にある大きな窓ガラスには滝のような雨が流れ落ちていた。
その光景を見ながら私は、何十年も前にアメリカのオケに在籍していた時体験したあるコンサートのことを思い出していた。
会場は、デトロイトにある3千人は収容できる大ホール。
演奏メンバーは60人あまり。
しかし、その時会場にいたお客さんはたったの5人(!)。
折しもの暴風雨で客足は完全に遮断されていたのだ。
こんな状態で本当に開演するのかなと不安に思う団員たちの心配をよそにコンサートの幕はあがった。
「ゲネだと思えばいいさ」と口々に言い合っていたメンバーも、演奏が始まるとお客がいないことをまったく忘れ演奏に集中した。
いつもよりも出来は良いナと皆満足気な表情だったが、翌日の新聞には私たちの演奏が「演奏は熱演、でも客はゼロ」という見出しで演奏評が掲載されていた。
5人の客のうちの一人が音楽評論家だったのだ。
たしかそんなことが昔あったナ…と思い出していた私に、たまたまその時横にいた音楽ジャーナリストが私の不安にさらに追い打ちをかけた。
「タダの演奏会って、雨降るとお客さん来ないんだよね」(たしかに、自分のチケットを持っていれば是が非でも会場に足を運ぶ人は多いだろうが...)。
お客様が本当に来てくださるんだろうか..という不安の中で始まったコンサートも、実際は上々の入りで、お客様も私のトークや私たちの演奏に熱心に耳を傾けてくださった。
前半と後半の間にトークを挟むような形でプログラムを作ったのが幸いしたのか、私の話に皆さんいちいち頷きながら熱心に聞いてくださった。
実際に介護や認知症の方と関わっていらっしゃる人が多かったようで、アンケートには、そういった感想がたくさん書かれていた。
中には、こんなことを書かれた女性もいた。
「認知症の母と向き合う気力が生まれました」。
このコメントを見た瞬間「わあ、やった」と心の中で叫ばずにはいられなかった。
まさしくこんなことばが聞きたくてやったコンサートなのだから。
映画『レナードの朝』の原作者で脳神経外科医のオリバー・サックス博士は、七十代になった現在もニューヨークで世界中の患者さん(認知症、パーキンソン病、トゥレット症候群などさまざまな病気の患者さん)の治療を施しその中で人間の身体と音楽の関係を研究し続けている。
彼の数十冊ある著書の中から一つの文章をコンサートの中で披露した。
「音楽への反応は認知症がかなり進んでも失われない。
なぜなら、音楽は患者に残っている「自己」に直接働きかけ、認知症の患者をこの世につなぎ止めておくことのできる数少ないものの一つだから。
認知症というのは記憶をなくしたり、行動のパターンを忘れたりすることはあるけれども、人間の本来持っている深い感情を妨げたりはしない。
そこにはまだ呼び掛けを待っている自己がある。
そして、この呼び掛けを行えるのは音楽だけなのだ」。
認知症患者の方が「どこかに行ってしまっている」ような印象を与えることはよくあるけれども、サックス博士は、それでも患者さんの「自己」はそこに絶対に残っていて私たちからの「呼びかけ」を待っているのだと言う。
そして、この「呼び掛け」を行えるのは「音楽だけ」なのだとも強く主張する。
なぜ「呼びかけ」を行えるのが「音楽だけ」なのかは明らかだ。
実際にどんなことばや治療にも反応しない認知症の患者さんも音楽には反応するからだ。
だからこそ、私は、「認知症音楽カフェ」をやろうとしているわけだし、施設で演奏する時もどれだけ私や私たちの音楽が介護される人たちに「呼びかけ」られるか、できるだけ相手の目を見ながら同じ目線で演奏するように心がけている。
アンケートを読んでいてさらに驚いたのは、多くの方が新宿区の広報に載っていたコンサートタイトルの「音楽は介護を救う」ということばに反応してやってこられたということだ。
そうか、皆さん、このことばに素直に反応してくださるんだ。
つまり、「音楽」が介護に役立つんじゃないのかという期待は皆さん何となくふだんから持ってらっしゃるんだ。
でも、じゃあ具体的にそれが「どうやって、どういう風に」ということまではわからないので、その答えを教えてもらえるかもしれないという期待でコンサートに足を運んでくださったのだ。
あんな激しい雨にもかかわらず…。
昨日、新宿区の施設で行った「音楽は介護を救う~みつとみ俊郎の語る認知症ケアのヒントと音楽」というタイトルのついたコンサートに集まっていただいたのは60人あまりの方々。
開演直前1時間ほど前から空がにわかにかき曇り雷鳴と共にドシャぶりの雨。
コンサート会場の新宿西口中央公園の中の施設一階の会場にある大きな窓ガラスには滝のような雨が流れ落ちていた。
その光景を見ながら私は、何十年も前にアメリカのオケに在籍していた時体験したあるコンサートのことを思い出していた。
会場は、デトロイトにある3千人は収容できる大ホール。
演奏メンバーは60人あまり。
しかし、その時会場にいたお客さんはたったの5人(!)。
折しもの暴風雨で客足は完全に遮断されていたのだ。
こんな状態で本当に開演するのかなと不安に思う団員たちの心配をよそにコンサートの幕はあがった。
「ゲネだと思えばいいさ」と口々に言い合っていたメンバーも、演奏が始まるとお客がいないことをまったく忘れ演奏に集中した。
いつもよりも出来は良いナと皆満足気な表情だったが、翌日の新聞には私たちの演奏が「演奏は熱演、でも客はゼロ」という見出しで演奏評が掲載されていた。
5人の客のうちの一人が音楽評論家だったのだ。
たしかそんなことが昔あったナ…と思い出していた私に、たまたまその時横にいた音楽ジャーナリストが私の不安にさらに追い打ちをかけた。
「タダの演奏会って、雨降るとお客さん来ないんだよね」(たしかに、自分のチケットを持っていれば是が非でも会場に足を運ぶ人は多いだろうが...)。
お客様が本当に来てくださるんだろうか..という不安の中で始まったコンサートも、実際は上々の入りで、お客様も私のトークや私たちの演奏に熱心に耳を傾けてくださった。
前半と後半の間にトークを挟むような形でプログラムを作ったのが幸いしたのか、私の話に皆さんいちいち頷きながら熱心に聞いてくださった。
実際に介護や認知症の方と関わっていらっしゃる人が多かったようで、アンケートには、そういった感想がたくさん書かれていた。
中には、こんなことを書かれた女性もいた。
「認知症の母と向き合う気力が生まれました」。
このコメントを見た瞬間「わあ、やった」と心の中で叫ばずにはいられなかった。
まさしくこんなことばが聞きたくてやったコンサートなのだから。
映画『レナードの朝』の原作者で脳神経外科医のオリバー・サックス博士は、七十代になった現在もニューヨークで世界中の患者さん(認知症、パーキンソン病、トゥレット症候群などさまざまな病気の患者さん)の治療を施しその中で人間の身体と音楽の関係を研究し続けている。
彼の数十冊ある著書の中から一つの文章をコンサートの中で披露した。
「音楽への反応は認知症がかなり進んでも失われない。
なぜなら、音楽は患者に残っている「自己」に直接働きかけ、認知症の患者をこの世につなぎ止めておくことのできる数少ないものの一つだから。
認知症というのは記憶をなくしたり、行動のパターンを忘れたりすることはあるけれども、人間の本来持っている深い感情を妨げたりはしない。
そこにはまだ呼び掛けを待っている自己がある。
そして、この呼び掛けを行えるのは音楽だけなのだ」。
認知症患者の方が「どこかに行ってしまっている」ような印象を与えることはよくあるけれども、サックス博士は、それでも患者さんの「自己」はそこに絶対に残っていて私たちからの「呼びかけ」を待っているのだと言う。
そして、この「呼び掛け」を行えるのは「音楽だけ」なのだとも強く主張する。
なぜ「呼びかけ」を行えるのが「音楽だけ」なのかは明らかだ。
実際にどんなことばや治療にも反応しない認知症の患者さんも音楽には反応するからだ。
だからこそ、私は、「認知症音楽カフェ」をやろうとしているわけだし、施設で演奏する時もどれだけ私や私たちの音楽が介護される人たちに「呼びかけ」られるか、できるだけ相手の目を見ながら同じ目線で演奏するように心がけている。
アンケートを読んでいてさらに驚いたのは、多くの方が新宿区の広報に載っていたコンサートタイトルの「音楽は介護を救う」ということばに反応してやってこられたということだ。
そうか、皆さん、このことばに素直に反応してくださるんだ。
つまり、「音楽」が介護に役立つんじゃないのかという期待は皆さん何となくふだんから持ってらっしゃるんだ。
でも、じゃあ具体的にそれが「どうやって、どういう風に」ということまではわからないので、その答えを教えてもらえるかもしれないという期待でコンサートに足を運んでくださったのだ。
あんな激しい雨にもかかわらず…。