なんて書くと、何やらベストセラー本のタイトルのようだけど、この病気に対する世の中の理解度を知れば知るほど「え?マジ?!」と思うぐらい人々がこの病気をよく理解していないということがよくわかる。
そして、そのことは不思議なことに、現実にこの病気の患者さんを抱える家族の方たちにも言えるのだ(本当は、こういう人たちが一番理解していなければいけないと思うのだが)。
私の知る多くの認知症患者を介護しているご家族の人たちの話を聞くたびにいつもその思いに立ち至る。
先日、大学時代のゼミの友人からメールをもらった。
私たちの恩師(つまり、大学時代のゼミの指導教授)の近況についての細かい報告がその内容だった。
恩師(現在85歳)は、評論家として有名な方だった。
著書も数十冊に及ぶ(ひょっとしたら百冊を越えているのかもしれない)。
いわゆる日本を代表する知識人の一人と言っても良い方だ。
その方が、認知症に罹患したという。
もちろん、認知症はどんな人にも襲いかかる病気だ。
知識人だからならないというわけではない。
問題はそこではなく、師が罹患してからの師に対するご家族やまわりの方たちの対応に対して、これまで認知症という病気に深く関わってきた人間としていささか疑問を持ったのだ。
しばらくはご家族と一緒に暮らしていたという。
そして、数年後、師は介護施設で暮らし始める。
私は、この部分に一切関わってはいないし事情もよくわかってはいないのだが、なぜご家族が師を施設に預ける気持になったのかが一番知りたいところだ。
きっとご家族は(そうすれば)「事態が好転する」と思ったのだろう。
でなければ施設に預けたりはしないだろう(この辺の、患者家族や介護をかかえるご家族の心情はよく理解できるのだけれども、私はこの部分にこそ日本の介護の一番の問題点があると思っている)。
結果、師はその後施設から病院に検査入院してさらに問題を深刻化させて退院したという。
と、ここまでが友人の報告だった。
別に、誰を責めても始まらないのだが、私だったらこういう方法は絶対に取らなかっただろうナと思う。
いろいろ細かいことを言い出せばキリがない。
まずもって世の中の人の大半はこの病気にかかると「どんどん脳が壊れていく」と思っている。
というか、思いこまされている(これは、メディアの責任だ)。
医師もよくそういう説明をする。
大きく分類して4種類ある認知症の中でも(4種類あることすら知らない人が大半だし、もっと細かく分類する学者もいる)、最もよく知られているアルツハイマー型の認知症では脳の大半の部分が萎縮し始め最終的には「死に至る」という説明をされるが、じゃあ、結果的にその方が亡くなったのが老いて老衰で亡くなったのか、(病気が原因で)脳が萎縮して亡くなったのかの証明はそれほど簡単なことではない。
極論すると、亡くなった方の脳を解剖して検査してみない限り真相はわからない。
だから、フランスの有名な作曲家ラヴェルも「ひょっとしたら認知症だったのでは?」という後世の学者の疑いから(ラヴェルが生きていた時代の医学はかなりいい加減なところがあったので)、彼の墓は二度も掘り起こされている(アチャ~!有名人には死んでからもこんな災難が訪れる)。
要するに、医学の分野で行なう検証とか実験とかクスリの開発とかいう分野とメディアが毎日のように繰り返し行なっている「大変だ、大変だ、認知症になったら大変だ。だからならないようにしなければ!」という大ネガティブキャンペーンは、私たちが認知症という病気と向き合う上で「弊害」こそあれけっして「役に立っている」とは思えないのダ。
もしそれ(メディアの情報)が功を奏しているのだったら、現実に患者さんを抱える家族がもっと安心して暮らしていかれるはずなのに、現実にはそうはなっていない。
いろいろな意味で「手に負えなく」なって施設に預けたり病院で治療をしたりすることに頼ろうとするが、その頼る相手が「本当に頼れる」人たちなのか、私はそこをまず疑っている。
それが証拠に、例えば、認知症に罹患したと思われる人(まずここの線引き自体が一番あやしい)を病院なり施設なりに預けて「良くなって帰ってきた」人が一体何人いるだろうか。
私は、おそらく限りなくゼロに近いのではないかと思う。
なぜそうなるのか?
答えは明白だ。
誰もきちんと対処していない。
あるいはその方法を知らないからだ。
確かにアルツハイマー型は進行性でどんどん脳が萎縮していくのかもしれないが、先ほども言ったように、その「萎縮の速度(病気の進行速度)」とその人全体の「老化の速度」はどちらが早いのか誰にもわからない。
もちろん、本人にもわからない。
だとしたら、どうすれば良いのか。
私自身の答えは簡単だ。
認知症を恐れないで生きていこう、ということ。
ボケたり(昔は認知症なんてことばは使っていなかった)、記憶に障害が起こったり(モノ忘れをするのは若い人にだってある)、徘徊したり、妄想から妄言を吐いたりしても「それが何?」と思えばよいだけのこと。
年を取ればボケて当たり前。
記憶障害が起こって当たり前(人間は毎日いろんなことを忘れている)。
徘徊も、「こころが迷子」なんだから実際に迷子になるのも当たり前。
妄想や妄言にしたって、私たち普通のことばの概念からはズレている患者のことばを私たちが単に理解できないだけなので、患者のことばにどんな意味が隠されているのかを探す努力をしなければ「コミュニュケーション」もへったくれもない(コミュニケーションというのはまず相手を理解するところから始まるし、この部分に対してヴァリデーションケアというメソッドも開発されている))。
で、「そもそも」に立ち返る。
認知症って何?
この認識が一番肝心だ。
医師が言うように「脳が壊れていく病気」。
だとすると、「わ~こりゃ大変だ、何とかしなきゃ」になるけれども、人間の脳も細胞も(十代後半のピークを過ぎれば)日々どんどん壊れていくのであって、これも「当たり前」なんじゃないの。
今のメディアや世の中は、認知症や癌告知イコール死刑宣言、みたいに考えさせるように仕向けているけれども、なぜもっと逆の発想をしないのかナと思う。
別に、癌になるのだって、認知症になるのだって、人間なら当たり前(ガンにしたって、私自身、これまで人生小さなガンの一つや二つなっていてそのたびに自然治癒しているのでは?と思っている。だって、今げんに生きているのだから)。
だから、(認知症に)なろうがなるまいが、どうやって(それと共存して)生きていくかの<生き方>そのものをなぜ変えたり教えたりする方向に向わないのだろうかと思う(私は、メディアが情報として提供するべきはココだと思っている)。
だからこその音楽の出番、音楽家の出番!ということに気づいて欲しくてセミナーや講演会を行なっている。
そして、私は、今回の恩師の認知症の話を聞いて私のするべき仕事がもう一つあることに気がついた。
現場で(音楽を通じて)患者さんたちと接する。
講演会/セミナーでそのやり方を説く。
そこにもう一つ私の役割を追加するべきなのではないのか。
あまりにも知らなさ過ぎる(あるいは、知らされていない)人たちの「相談役」としての役割も(ひょっとしたら)あるのではないのか。
師のご家族が数年前に私に相談してくれていたら…と思わずにはいられない。