みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

誕生日プレゼント

2015-01-15 18:45:54 | Weblog
昨日の夜、恵子が突然「あっちな行かなくっちゃ」と言いながらベッドから起き上がった。
トイレにでも行くのか、それとも夢でも見ていたのか。
彼女は最近よく夢を見るようで、起きた瞬間夢と現実の区別がつかないのか意味不明のことをしゃべりだす時がある。
トイレ?と聞くと違うと言う。
自分の部屋に行かなきゃ、行かなきゃと繰り返すばかり。
こんな夜中に何しに行くのと聞いてもただ行かなきゃとしか言わない。
自分で行けるかと聞くと車椅子を持ってきてと言う。
車椅子使ってまでわざわざ行かなければならない用事があるとは到底思えなかったが、とりあえず車椅子に彼女を乗せる。
すると、ここで待っていてと言う。
つまり自分の部屋までついてくるなというのだ(いつもは心配でついていくのだが)。
夜中に目覚め意味不明の行動をする恵子にかなり不安な感情を持ちながらも言われた通りに彼女の帰りを待つ。
しばらくして車椅子をこぎながら帰ってきた恵子はパジャマのボケットからむき出しの千円札を私に3枚渡し「これで明日の誕生日、プレゼント買って」と言った。
そうか。恵子はこれを取りに行っていたんだ。
寝ぼけていた訳でもけっして意味不明の行動をしていた訳でもなかったんだ。
恵子は,四年前に病気になってから仕事はしていない。
したがって基本的には無収入だ。
彼女自身がお金を使うことはないのでそれでもまったく問題はなかったのだが…。
「ああ,そうか」。
私はあることを思い出した。
つい先日、恵子のもとに思いがけず現金が届いたのだった。
彼女が作ったクラフト作品を委託販売してもらっていたお店が彼女の作品を全て送り返してきた。
それを機にこれまでの精算金を恵子宛に送ってきたのだった。
彼女にとっては久しぶりの現金収入だ。
と同時に,久しぶりに自分で稼いだお金だ。
そんなに多い額ではないがきっと嬉しかっただろう。
彼女は、これまで私の誕生日にはいつも何かしらのプレゼントをくれていた。
逆に私も彼女の誕生日には欠かさずプレゼントは贈ってきた。
「自分で買ってはこれないけどこれで何か自分の好きなもの買ってきて」そう言って渡された三千円。
彼女の手から渡された瞬間、目頭が熱くなった。
もったいなくて、私にはとても使えそうにない。


こころのバリアフリー

2015-01-06 09:20:02 | Weblog
私はこのことばが大嫌い。
というよりも、こういうことばが存在すること自体、日本はまだまだ「バリアフリー後進国」だなと思ってしまう。
なにかバリアフリーには二種類あって、一つは段差のない「物理的なバリアフリー」、そしてもう一つは健常者も障害者も分け隔てなくつきあっていく「心のバリアフリー」みたいな詭弁(私には詭弁にしか思えない)を使ってバリアフリーの本質を誤摩化そうとしているとしか私には思えないからだ。
冗談じゃないと思う。
バリアフリーっていうのは、単に「段差がない」っていうことでもないし、「差別をなくそう」っていうことでもない訳で,とにもかくにも「目線」の問題なのだと私は思っている。
要は単純なこと。
子供の目線と大人の目線の違いを考えれば簡単にわかること。
大人が子供を理解しようと思ったらまず「子供の目線」に立ってモノを理解していかなければならない。
そうしなければ、大人は子供をとても危険な目にあわせてしまう。
大人の目線ではOKなものでも子供の目線に立つと危険なモノは世の中にゴマンとあるからだ。
それと同じように、車椅子で生活する人たちを理解しようと思ったらまず「車椅子の目線」を理解するところから始めなければならない。
それができれば、車椅子の快適な生活とは単に「段差がなくなればいい」訳ではないことがすぐに理解される。
しかし,大人が子供の目線に立つのは「苦しい」。
大人がかがんで子供の目線に立つのはけっこう辛い(肉体的に)し,もはや大人になってしまった人間が子供の気持ちを理解するのもシンドイことだ。
同じように健常者が車椅子の人たちと同じ目線に立とうと思ったら、同じようにけっこう辛い場面もたくさん出てくる。
なんで俺たち(健常者)の方が苦労しなきゃいけないんダと思った時点で、もう同じ「目線」に立つことはできない。
つまり、バリアフリーを理解することはできないということだ。

最近スーパーに夫婦一緒に買い物に来る高齢者夫婦をよく見かける。
昔は,男性(特にこの世代の人たち)がスーパーまで一緒に買い物に来ることは稀だった。
たいがいは(お店の)外で待っているか家で待っているかどちらかだったと思う。
それから比べると格段の進歩,だと思うのだが,まだ彼らの様子はどこかギコチない。
奥さんと一緒に買い物カゴを押していてもどこか所在なげで、時に他の買い物客の「邪魔」にさえなってしまう。
つまり,彼らの気持ちの中にどこか「なんで(男の)俺が買い物に一緒に来なきゃ行けないんだ」的な意識や「俺が料理作る訳じゃないのに何買っていいかわからないよ」といった意識が残っているから所在なげに見えるのだと思う。
つまり、彼らの一番の問題は、まだ「主婦目線」になりきれていないこと。
中には一人でテキパキと買い物を続けている初老の男性もいる。
きっと一人暮らしなのか、主夫業を楽しんでやっている人なのだろう。
彼らの買い物には何の迷いもない。
今日、あるSNSで「全国で書店が減り続けている」というニュースを見かけた。
これ自体以前から指摘されていることで何の驚きもないが、そのニュースに対するツイートの中に「今どきAmazonで何でも買えるんだからそっちを利用すればいいじゃん」みたい書き込みがあるのを見ていて、やはりこれもまったく「目線」の問題を理解していない人が多いんだなと思ってしまう。
私自身もふだん書店がそばにある環境には暮らしていないので(本屋はあるけれどもお目当ての本はないので)通販で本はよく買う。
でもそれは、私がそれをできるからに過ぎない。
そういう買い方をできない人が世の中には一体どれだけいることだろう。
もしかしたら、そんな買い方が存在することすら知らない人がものすごくたくさんいるのではないだろうか。
若い世代にとっての「当たり前」と高齢者世代にとっての「当たり前」にはものすごく乖離があるわけで、この乖離を理解して相手の目線に立つというスタンスがない限りバリアフリー社会など夢のまた夢。
首相が女性の活躍できる社会(輝く社会か?)を、と叫んでみても日本の社会は一向にそちらの方向には進まない。
いくら日本のトップが「さあ踊れ」と言っても「何で俺たちが踊らなきゃならないの。なんで女性というだけで優遇しなきゃいけないの」といった男性が多いうちはこのかけ声は単なるかけ声倒れに終わってしまうだろう。
「笛吹けど踊らず」だ。
そんな「危うさ」を感じているからこそ,世の中は「こころのバリアフリーも大事」みたいなことを言いだして(まったくバリアフリーの本質を見ようとしない)自分たちの「危うさ」さえも隠そうとしているのではないのか。
バリアフリーに「こころのバリアフリー」もヘッタクレもないと私は思う。
世の中の人すべてが、相手の目線,他人の目線にたって生活するようになれば自然に世の中すべてがバリアフリーになるのにナ…と思うのは私だけではないだろう。