ここ数年の世の中の流行りなのだろう、書店には脳に関する書物が本当に多く並んでいる。私もそのような本を何冊も読んだりしているが、こういう本に出て来る独特の表現(つまり、専門用語ということだが)がけっこう面白い。神経細胞がニューロンと言われているのはわりと常識的なことかもしれないが、シナプスというニューロンとニューロンの間の隙間のことはかなり専門的で、あまり一般的ではない。でも、これにしたってまったく使われないことばではない。が、クオリアということばを最近知った時、私の中でのはけっこう目からウロコだった。「クオリアというのは、脳の思考表現の一つだったのか?」
要するに、クオリティ(質)のラテン語表現なのだが、脳の学者さんが使う時は、脳の中で意識する数や数式では合理的に割り切れない感情的な感覚すべてを言う。つまり、好きな人を見る時のアノもやもやした感覚や、オイシイものを食べる時に感じるアノ何ともいえない幸福な感覚など、心の中で沸き起こる割り切れない感覚すべてのことをクオリアというらしい。ただ、人間の脳はそもそもデジタルな器械。なのに、人間が実際に「感じる」感覚がすべてこうしたアナログ的な感覚に支配されているというのもかなりオカシナ感じがする。
ある女性を見た瞬間、自分の思考が脳の中では電気信号のオンオフ信号になってニューロンを伝わり、ホルモンの作用でシナプスを飛び越えてまた違うニューロンに伝わって行くという構造のどこから「カワイイ」などという曖昧でかつ個人的な感情が芽生えるのかが実に不思議なのだが、それだけ世の中ははっきりしないことだらけということなのだろうか?
多分、世の中にクオリアというものがなければ、すべてオンかオフ、あるいは、0か1で割り切れてしまうことになり、それこそ世の中は「ある」のか「ない」のかの二者択一になってしまう。つまり、これを考えて行くと、最終的には自分は「いる」のか「いない」のかといった実存的な問いに行き着いてしまい、思考のドツボにハマることになるので、これ以上は追求しない(というか、所詮、私ごときには追求できる代物ではない)。
それよりも、私が今日のうだるような暑さの中で考えたのは、これとはまったく違うこと。記憶と音楽の結びつきについてちょっと考えた。
音楽で病気を癒していくという、いわゆる音楽療法というものが最近は盛んだが、これは何も今に始まったことではなく人類が大昔からやってきたことだと思う。多分、クラシック音楽という西洋音楽が盛んになった十六世紀とか十七世紀あたりから、この考え方が徐々に薄れていったのではないかと思う。つまり、音楽が「楽しみ=エンタテインメント」の道具として使われ始めたこの頃から、音楽の中から急にヒーリング性が薄れていったのだ。
それはそうだろう。バッハがいつも作っていた対位法の音楽なんかは、それこそ数字のパズルのようなもので、順列組み合わせに長けた数学者なら誰でも作れそうな音楽だ。ソナタ形式なんていうのも、テーマがあってそれが発展して、転換してまた解決するなんていう演繹的な音楽(論理的な音楽)は、まさしく近代の人間が作り出した音楽に違いない。ましてや、リストやパガニーニといった楽器の名手たちが作りだした音楽は、究極の技術によってしか到達できない音楽で、大昔の「呪術」的な匂いはミジンもない。
ただ、もともと音楽には「魔術」とか「呪術」の役割は多かった。古代のメディシンマン、つまり、呪術者は医者でありミュージシャンである場合が多かったのだから、音楽はもともとヒーリングの役目を持っていたことは確かだ。とは言っても、その音楽は地域や時代によってかなり違いがあるわけで、何でもかんでも「音楽は癒しだ」と言い切ってしまうのも語弊がある。現代の音楽療法は、「アルファ波」だとか「1/fのゆらぎ」だとかいった何やらあやしげなものを持ち出してきているが、こんなクオリアは音楽にはもともとないし、音楽が人間にとって最も意味の持つのはその人の記憶とどう結びつくかによって決まるはずだ。よくあるTVドラマの一場面。刑事が犯人を取り調べる。
「お前にも母親がいるのだろう。母親にすまないと思わないのか?そろそろすべてを白状したらどうだ?」と迫り、そのことばを聴いた犯人が急に自白を始める。
こんな陳腐な展開がたとえ陳腐なTVドラマの脚本としても成り立つのは、刑事のことばを聴いた犯人の脳の中で、母親ということばがある特定の記憶を引き出すからに他ならない。犯人の中でどういう風に母親のイメージとどんな具体的な記憶が結びつくのかはよくわからないが、この場面で一番大事なのは、ある一つのことばから犯人の心の扉を開く記憶の鍵が開けられたことだ。
おそらく、音楽療法でも同じようなことが言えるのだと思う。健康な私たちが日常的に音楽を聴いていること自体には何の問題もない。しかし、心を深く閉ざした人、落ち込んだ人たちにとって音楽を聴くという行為が一体どんな意味を持つのか?音楽で心を開くどころか、音楽を聴くこと自体拒否する人もいるかもしれない。そんな人に、どんな音楽をどのように治療に役立てたらいいのか?
その問題を解く鍵は、おそらくその人の「記憶」の中にしかないだろう。TVドラマの犯人の心の扉を開くのが母親ということばだとしたら、心に闇を持った患者さんの心を開くのもある特定の記憶なのだろうと思う。それがどんな記憶で、どんな音楽で開かれていくのかの方程式を探すのは難しい。しかし、音楽はそうした人間の心の扉を開く鍵であることは確かだ。問題は、その鍵が無数にあること。そして、それが誰に合う鍵なのかを探す方法を私たちはまだはっきりとは理解していないことだ。
ただ、これだけは言える。音楽と記憶。この両者は脳の奥底では常に繋がっている。クオリアの中では、匂いが最も記憶と密接につながっている。そして、音楽も。ミュージックセラピーやアロマテラピーが本当の意味で治療として使えるためには、私たちの記憶のメカニズムと音の関係、匂いとの関連がもっともっと研究されていかなければならないのだと思う。
要するに、クオリティ(質)のラテン語表現なのだが、脳の学者さんが使う時は、脳の中で意識する数や数式では合理的に割り切れない感情的な感覚すべてを言う。つまり、好きな人を見る時のアノもやもやした感覚や、オイシイものを食べる時に感じるアノ何ともいえない幸福な感覚など、心の中で沸き起こる割り切れない感覚すべてのことをクオリアというらしい。ただ、人間の脳はそもそもデジタルな器械。なのに、人間が実際に「感じる」感覚がすべてこうしたアナログ的な感覚に支配されているというのもかなりオカシナ感じがする。
ある女性を見た瞬間、自分の思考が脳の中では電気信号のオンオフ信号になってニューロンを伝わり、ホルモンの作用でシナプスを飛び越えてまた違うニューロンに伝わって行くという構造のどこから「カワイイ」などという曖昧でかつ個人的な感情が芽生えるのかが実に不思議なのだが、それだけ世の中ははっきりしないことだらけということなのだろうか?
多分、世の中にクオリアというものがなければ、すべてオンかオフ、あるいは、0か1で割り切れてしまうことになり、それこそ世の中は「ある」のか「ない」のかの二者択一になってしまう。つまり、これを考えて行くと、最終的には自分は「いる」のか「いない」のかといった実存的な問いに行き着いてしまい、思考のドツボにハマることになるので、これ以上は追求しない(というか、所詮、私ごときには追求できる代物ではない)。
それよりも、私が今日のうだるような暑さの中で考えたのは、これとはまったく違うこと。記憶と音楽の結びつきについてちょっと考えた。
音楽で病気を癒していくという、いわゆる音楽療法というものが最近は盛んだが、これは何も今に始まったことではなく人類が大昔からやってきたことだと思う。多分、クラシック音楽という西洋音楽が盛んになった十六世紀とか十七世紀あたりから、この考え方が徐々に薄れていったのではないかと思う。つまり、音楽が「楽しみ=エンタテインメント」の道具として使われ始めたこの頃から、音楽の中から急にヒーリング性が薄れていったのだ。
それはそうだろう。バッハがいつも作っていた対位法の音楽なんかは、それこそ数字のパズルのようなもので、順列組み合わせに長けた数学者なら誰でも作れそうな音楽だ。ソナタ形式なんていうのも、テーマがあってそれが発展して、転換してまた解決するなんていう演繹的な音楽(論理的な音楽)は、まさしく近代の人間が作り出した音楽に違いない。ましてや、リストやパガニーニといった楽器の名手たちが作りだした音楽は、究極の技術によってしか到達できない音楽で、大昔の「呪術」的な匂いはミジンもない。
ただ、もともと音楽には「魔術」とか「呪術」の役割は多かった。古代のメディシンマン、つまり、呪術者は医者でありミュージシャンである場合が多かったのだから、音楽はもともとヒーリングの役目を持っていたことは確かだ。とは言っても、その音楽は地域や時代によってかなり違いがあるわけで、何でもかんでも「音楽は癒しだ」と言い切ってしまうのも語弊がある。現代の音楽療法は、「アルファ波」だとか「1/fのゆらぎ」だとかいった何やらあやしげなものを持ち出してきているが、こんなクオリアは音楽にはもともとないし、音楽が人間にとって最も意味の持つのはその人の記憶とどう結びつくかによって決まるはずだ。よくあるTVドラマの一場面。刑事が犯人を取り調べる。
「お前にも母親がいるのだろう。母親にすまないと思わないのか?そろそろすべてを白状したらどうだ?」と迫り、そのことばを聴いた犯人が急に自白を始める。
こんな陳腐な展開がたとえ陳腐なTVドラマの脚本としても成り立つのは、刑事のことばを聴いた犯人の脳の中で、母親ということばがある特定の記憶を引き出すからに他ならない。犯人の中でどういう風に母親のイメージとどんな具体的な記憶が結びつくのかはよくわからないが、この場面で一番大事なのは、ある一つのことばから犯人の心の扉を開く記憶の鍵が開けられたことだ。
おそらく、音楽療法でも同じようなことが言えるのだと思う。健康な私たちが日常的に音楽を聴いていること自体には何の問題もない。しかし、心を深く閉ざした人、落ち込んだ人たちにとって音楽を聴くという行為が一体どんな意味を持つのか?音楽で心を開くどころか、音楽を聴くこと自体拒否する人もいるかもしれない。そんな人に、どんな音楽をどのように治療に役立てたらいいのか?
その問題を解く鍵は、おそらくその人の「記憶」の中にしかないだろう。TVドラマの犯人の心の扉を開くのが母親ということばだとしたら、心に闇を持った患者さんの心を開くのもある特定の記憶なのだろうと思う。それがどんな記憶で、どんな音楽で開かれていくのかの方程式を探すのは難しい。しかし、音楽はそうした人間の心の扉を開く鍵であることは確かだ。問題は、その鍵が無数にあること。そして、それが誰に合う鍵なのかを探す方法を私たちはまだはっきりとは理解していないことだ。
ただ、これだけは言える。音楽と記憶。この両者は脳の奥底では常に繋がっている。クオリアの中では、匂いが最も記憶と密接につながっている。そして、音楽も。ミュージックセラピーやアロマテラピーが本当の意味で治療として使えるためには、私たちの記憶のメカニズムと音の関係、匂いとの関連がもっともっと研究されていかなければならないのだと思う。