みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

記憶と音楽

2004-06-29 04:13:38 | Weblog
 ここ数年の世の中の流行りなのだろう、書店には脳に関する書物が本当に多く並んでいる。私もそのような本を何冊も読んだりしているが、こういう本に出て来る独特の表現(つまり、専門用語ということだが)がけっこう面白い。神経細胞がニューロンと言われているのはわりと常識的なことかもしれないが、シナプスというニューロンとニューロンの間の隙間のことはかなり専門的で、あまり一般的ではない。でも、これにしたってまったく使われないことばではない。が、クオリアということばを最近知った時、私の中でのはけっこう目からウロコだった。「クオリアというのは、脳の思考表現の一つだったのか?」
 要するに、クオリティ(質)のラテン語表現なのだが、脳の学者さんが使う時は、脳の中で意識する数や数式では合理的に割り切れない感情的な感覚すべてを言う。つまり、好きな人を見る時のアノもやもやした感覚や、オイシイものを食べる時に感じるアノ何ともいえない幸福な感覚など、心の中で沸き起こる割り切れない感覚すべてのことをクオリアというらしい。ただ、人間の脳はそもそもデジタルな器械。なのに、人間が実際に「感じる」感覚がすべてこうしたアナログ的な感覚に支配されているというのもかなりオカシナ感じがする。
 ある女性を見た瞬間、自分の思考が脳の中では電気信号のオンオフ信号になってニューロンを伝わり、ホルモンの作用でシナプスを飛び越えてまた違うニューロンに伝わって行くという構造のどこから「カワイイ」などという曖昧でかつ個人的な感情が芽生えるのかが実に不思議なのだが、それだけ世の中ははっきりしないことだらけということなのだろうか?
 多分、世の中にクオリアというものがなければ、すべてオンかオフ、あるいは、0か1で割り切れてしまうことになり、それこそ世の中は「ある」のか「ない」のかの二者択一になってしまう。つまり、これを考えて行くと、最終的には自分は「いる」のか「いない」のかといった実存的な問いに行き着いてしまい、思考のドツボにハマることになるので、これ以上は追求しない(というか、所詮、私ごときには追求できる代物ではない)。
 それよりも、私が今日のうだるような暑さの中で考えたのは、これとはまったく違うこと。記憶と音楽の結びつきについてちょっと考えた。
 音楽で病気を癒していくという、いわゆる音楽療法というものが最近は盛んだが、これは何も今に始まったことではなく人類が大昔からやってきたことだと思う。多分、クラシック音楽という西洋音楽が盛んになった十六世紀とか十七世紀あたりから、この考え方が徐々に薄れていったのではないかと思う。つまり、音楽が「楽しみ=エンタテインメント」の道具として使われ始めたこの頃から、音楽の中から急にヒーリング性が薄れていったのだ。
 それはそうだろう。バッハがいつも作っていた対位法の音楽なんかは、それこそ数字のパズルのようなもので、順列組み合わせに長けた数学者なら誰でも作れそうな音楽だ。ソナタ形式なんていうのも、テーマがあってそれが発展して、転換してまた解決するなんていう演繹的な音楽(論理的な音楽)は、まさしく近代の人間が作り出した音楽に違いない。ましてや、リストやパガニーニといった楽器の名手たちが作りだした音楽は、究極の技術によってしか到達できない音楽で、大昔の「呪術」的な匂いはミジンもない。
 ただ、もともと音楽には「魔術」とか「呪術」の役割は多かった。古代のメディシンマン、つまり、呪術者は医者でありミュージシャンである場合が多かったのだから、音楽はもともとヒーリングの役目を持っていたことは確かだ。とは言っても、その音楽は地域や時代によってかなり違いがあるわけで、何でもかんでも「音楽は癒しだ」と言い切ってしまうのも語弊がある。現代の音楽療法は、「アルファ波」だとか「1/fのゆらぎ」だとかいった何やらあやしげなものを持ち出してきているが、こんなクオリアは音楽にはもともとないし、音楽が人間にとって最も意味の持つのはその人の記憶とどう結びつくかによって決まるはずだ。よくあるTVドラマの一場面。刑事が犯人を取り調べる。
「お前にも母親がいるのだろう。母親にすまないと思わないのか?そろそろすべてを白状したらどうだ?」と迫り、そのことばを聴いた犯人が急に自白を始める。
こんな陳腐な展開がたとえ陳腐なTVドラマの脚本としても成り立つのは、刑事のことばを聴いた犯人の脳の中で、母親ということばがある特定の記憶を引き出すからに他ならない。犯人の中でどういう風に母親のイメージとどんな具体的な記憶が結びつくのかはよくわからないが、この場面で一番大事なのは、ある一つのことばから犯人の心の扉を開く記憶の鍵が開けられたことだ。
 おそらく、音楽療法でも同じようなことが言えるのだと思う。健康な私たちが日常的に音楽を聴いていること自体には何の問題もない。しかし、心を深く閉ざした人、落ち込んだ人たちにとって音楽を聴くという行為が一体どんな意味を持つのか?音楽で心を開くどころか、音楽を聴くこと自体拒否する人もいるかもしれない。そんな人に、どんな音楽をどのように治療に役立てたらいいのか?
 その問題を解く鍵は、おそらくその人の「記憶」の中にしかないだろう。TVドラマの犯人の心の扉を開くのが母親ということばだとしたら、心に闇を持った患者さんの心を開くのもある特定の記憶なのだろうと思う。それがどんな記憶で、どんな音楽で開かれていくのかの方程式を探すのは難しい。しかし、音楽はそうした人間の心の扉を開く鍵であることは確かだ。問題は、その鍵が無数にあること。そして、それが誰に合う鍵なのかを探す方法を私たちはまだはっきりとは理解していないことだ。
 ただ、これだけは言える。音楽と記憶。この両者は脳の奥底では常に繋がっている。クオリアの中では、匂いが最も記憶と密接につながっている。そして、音楽も。ミュージックセラピーやアロマテラピーが本当の意味で治療として使えるためには、私たちの記憶のメカニズムと音の関係、匂いとの関連がもっともっと研究されていかなければならないのだと思う。

音楽のルーツ

2004-06-19 01:44:59 | Weblog
 音楽のルーツって何だろう?といつも考える。
人類の祖先がたった一人の「イヴ」から生まれたという本がちょっと前に話題になったことがあった。人類の祖先がアフリカ大陸にいたということは、学問の世界では今や常識的になっているようだが(私にはそれを確かめる方法もないので)、それでは、そのアフリカにいた人間がどんな音楽を作っていたのだろうかと同時に考える。
 現在のアフリカの音楽やそこから派生した音楽から考えても、打楽器の音楽がルーツなんじゃないかというのはおおかたの人たちの考えるところ。多分、人類最古の楽器も骨や木、石などでできた打楽器というのがもっとも考えやすい結論なので、私もそれにあえて異論は差し挟まないが、それでも、音楽のルーツはやっぱり声なんじゃないのかナ?と思わずにはいられない。
 人間が楽器を発明する前から人間は声を出すことはできたはずなので、人間には大昔から必ず「うた」というものが存在していたような気がする。しかも、その「うた」も、宗教や儀式、労働のための「うた」なんかではなく、親が子供に唄った「子守唄」が最初なのではと思う。人が存在すれば、親がいて子供が生まれるのは当然のこと。だとすれば、子供が泣く時に親が子供をあやし寝かせつけるために歌う「うた」は、それが「うた」として完成されていなくても、どんなに単純なものであっても「子守唄」であることには代わりはない。だとすれば、音楽のルーツは子守唄?
 そう言うと、ある人が反論した。「いや、子守唄ではなく、求愛のうただろう。鳥でも、動物でも求愛のために鳴くのだから」。
 うん、それも確かに一利あるとは思う。そうなってくると、にわとりが先が卵が先かみたいな議論になって、恋愛が先か、子供が先かで議論をしなければならなくなってくるのだが、それでも私は子守唄が先だという考えに固執したい。というのも、確かに鳥の泣き声が求愛を現していたり、動物が繁殖期に異性を求めて鳴いたりするのは事実だろうが、果たしてそれが人間にも当てはまるのだろうかとも思ってしまう。
 「人間はまず愛していると叫んだ」というタイトルの生命科学の本を読んだことがある。この本の主旨は、人間がことばを発明したのは相手のことを考え支配するためであって、相手を最初に支配するためのことばとして「愛している」という表現が必要だったと言っているのだが、同時にこんな面白い説も登場する。「人間がことばを発明したと同時に正常位も生まれた」。つまり、こういうことだろう。人間がことばを発明したことによって、脳が発達を始める。それまでは、単純に動物的なセックスしかしていなかった人間がことばの発明のおかげで脳を進化させ、社会を作り、セックスに理性を持ち込む。ただ、私は、学者がどう結論づけようが、愛はなくても子供は生まれるし、ことばがなくても感情が存在するのではと思っている。ことばは体系であり論理だから、正常位が論理から生まれたというのも何となく納得はできるのだが、それと「愛している」とはあまり関係ないのではと思ってしまう。
 裸の人間がいろんなモノを身体にまとい始めたのも、別に「恥ずかしい」からではなく、ただ単にまとわないと「寒い」からだったのだろうし、異性と営むのも異性に愛情を感じたからではなく、ただ単に本能的に子供を作る必要を感じたからそうしただけだったのではないのか?
 人間は、進化の過程で脳を発達させ理性を生み出し、秩序を生み、そして、タブーを作っていった。そして、その大前提にあったものが、母と子の関係だったのでは?
 あえて、親と子とか父と子とは言わないのは、今も昔も、そういう関係はあまり存在しないと思うから。父という存在は、きっと社会的にしか意味のない存在で、子孫を残すための種としての意味しか父や男性は持っていないのだから、種さえもらえば、後は母だけ、女性だけで子供は産れる。だからこそ、そこに「子守唄」の意味と価値が生まれて来る。
 人間は子守唄と共に生まれ、そして、子守唄を求めて死んでいく。そんな気がしてならない。

音大って本当に必要?

2004-06-15 09:25:00 | Weblog
 今週は梅雨というのがウソのように、さわやかな毎日が続いている。このお天気もしばらくは持つらしい。真夏のようにカンカン照りでもなく、ジトっとした暑さでもないので、こんな天気は、ある意味、理想かもしれない。
 そんな気持ちのいい日の夕暮れ時、西日に照らされながらサントリーホールに向かう。千住真理子さんのヴァイオリン演奏会を聴くためだ。このコンサート自体、彼女の2枚目のCD発売記念のコンサートなのだが、私がこのCDの曲目解説を書いているので、挨拶がてらという感じでもあった。それにしても、たいしたものだと思う。サントリーの大ホールを昼、夜2回のコンサートで両方満員にできるようなソリストはそうザラにはいない。おまけに、コンサート終了時のCDのサイン会にはファンの長蛇の列。関係者の話しでは昼の部は400人いたという。夜も、300人以上はいたと思う。誰かが「アイドルみたい」と言っていたが、あの光景はまさしくアイドル人気。ただ、ご本人はいたって真面目で誠実な人。ひたすら一生懸命にヴァイオリンと向き合い、音楽を楽しんでいる姿はまさしくプロの演奏家の姿そのもの。それに、彼女の好感の持てるところは、単なる「音楽バカ」ではないところだ。もともと、その知的なところが買われてNHKのニュース番組のキャスターをつとめていたこともあった彼女、音楽大学にはいかずに慶応大学の哲学科を卒業している。これって、ある意味、音楽家にとっては理想的なキャリアの作り方。大体において、音楽大学というものの存在を、私は、常日頃から疑っている。
 音大って、一体何のために存在するのだろう?
 音楽を教えるため?演奏家を育てるため?
 もし、こういった目的が音大にあるのだったら、その両方の目的を音大は満たしていないと思う。音大は、極端な話し、音楽も教えてはいないし、演奏家も育ててはいない。今も過去も音大に籍を置いて勉強してきた人たちの一体何パーセントが本当に音楽の意味をわかって音楽を心から楽しんでいるのだろうかと真面目に思う。皮肉でも何でもなく、音大というのは音楽をキライにするところ?とさえ思ってしまう。あるいは、先生たちの生活を確保するために必要な場所...?
 音楽を技術から理解することはなかなかできない。でも、技術の裏づけは絶対必要だ。だとしたら、その技術を音大で教える必要性もないのではないかと思う。もし、大学というアカデミズムが必要だとしたら、それは人間を育てる知識や経験という意味でしかないだろう。若い時期には経験も知識もあまりない。だかたこそ、「先生」という名の先輩の知識と経験が役にたつはずなのだが、それが、自分の体験と知識の押し付けだったらまったく意味がない。先生がもし生徒に教えられることがあるとするなら、それは、「音楽とはこんなに素晴らしいもの」ということを教えてあげること。けっして、「ショパンはこう弾かなければならない」というものではない。ショパンだって、この世の中に存在した人間の一人。その一人の人間が作り出した音楽の私たちに対する意味と価値、なぜ彼のような音楽家が歴史上必要だったのかを説明してあげるのが先生の役目なのだと思う。ひいては、それが「人間とは、人生とは、こんない素晴らしいもの」ということを教えることにつながるはずなのだが、そういったことを、一体、何人の先生が教えてくれているのだろか?
 世界ではじめてチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で女性で優勝した上原彩子さんも、音大には行っていない。行っていないどころか、彼女は高校すら出ていない。じゃあ、ひたすらピアノ・バカかというとそんなことはない。音楽の表現というのは、単なる技術ではない。その人そのものが表現されるもの。自分のヴォキャブラリーにないことばは使えないのと同様、自分の心の中にないモノは出しようがない。表現とは説得力。ことばだろうと、音だろうと、その表現でいかに相手を納得させられるかだ。かつての小澤征爾がそうであったように(彼は音大は出たけれど)、世界をギャフンと言わせた中学しか出ていない日本の女性ピアニストの心の中には技術以上の中身が詰まっているはずだ。
 音大って本当に必要なのかナといつも思う。

ネコは来るのかナ?

2004-06-10 00:18:13 | Weblog
 たまには、とりとめもないツレヅレ。
 7月に上演される芝居の音楽を作っている。勤王の志士(?)と新選組の浪士たちの話し。中岡慎太郎と坂本竜馬のニセモノとその回りの人たちのドタバタと人情話しとでも言えばいいのだろうか。笑いやタチマワリやシリアスな芝居ありのなかなか面白い芝居だ。時代劇っぽい音楽を作るなという演出家の意向なので、大河ドラマっぽい音楽(笑)にしてみようかとも思っている。といっても、もうほとんど書いてしまったのだが....。
 新しい子猫がウチに来る来ないで、ここ数日すったもんだしている。ホントにかわいい子猫をもらってくれないかという友人から写真をもらって、かなり気持ちが動いているのだが、一つだけ気持ちを躊躇させているのがオスだということ。以前飼っていたネコはメス。別に、だからメスじゃなきゃダメということはないのだが、今の自分の生活でオスを飼っていく自信はない。というのも、オスはイエネコとして飼うわけにはいかないからだ。オスネコは外に出るもの。それを家に閉じ込めていてはストレスがたまるだろうし、お互いによくない。オヤネコの飼い主は、「オスでも、大人しくてほとんどオカマのようなネコですよ」と言うが、オカマでもオスはオスだろうという気がする。まあ、しばらく悩む日が続く....。
 映画『キルビル』のDVDを借りて観る。いまいち劇場に行く気になれなかった映画だが、案の定、劇場に行くまでもない映画だなと思った。多分、タランティーノのこれまでの傑作映画たちと比べると、アニメ・オタクの彼の本性がむき出しになり過ぎていて、これだったら「役者なんかいらないじゃん」と思ってしまう。つまり、あまり演技の必要性のない映画だし、ストーリーも意外性がほとんどない。まあ、要するに、全体にホントにマンガ。これまでのタランティーノのヴァイオレンスにはカッコよさがあったのだが、この『キルビル』のヴァイオレンスにはあまりカッコよさは感じない。これなら、日本のヤクザ映画のヴァイオレンスの方がはるかにカッコいい。
 今回の小学生の女の子の事件でいちばん思ったことは、やはり「コミュニケーション」の問題。煎じ詰めれば、自分と他人しかいない世の中で、私たちがいつもしなければならないことは、他者とのコミュニケーション。これがイヤでひきこもったりオタクになる人はたくさんいる。でも、そうした人間でも、メールやチャットであれば、他人とコミュニケーションしている気になれる。でも、これって絶対に誤解だ。コミュニケーションっていうのは「ことば」だけでするものではないし、ましてや、「ことば」だけでコミュニケーションしていかなければならないメールやチャットでは、本当にことばを慎重に選んで行かなければならないはずなのに実際にやってることはそれとはまったく逆。次から次に意味のないことばを並べて対話をしている気になっている人たちがほとんど。これを錯覚だと思わずにやっているから、今回の事件だけでなく、世の中では至るところに悲劇が起きてしまう。どんな悲劇かと言えば、せっかく人間に与えられた「ことば」や「動作」や「音楽」や「アート」といった自分と他者がコミュニケートするためのさまざまな道具の意味を理解せずに、自分と他者を自分勝手に切り離してしまう悲劇とでも言えばいいだろうか。
 よく言われること。「相手の立場になろう」。コミュニケーションの基本って、これしかないはず。相手にどういうことばを使えば相手の心を理解し、自分の心を理解してもらえるか。みんな毎日これに苦労しながら生きているのに、何で、携帯メールのようなモノを重大に考え、それに頼る人が多いのだろう?会って、抱き合えばことばなんかいらないのに....。

他者の許容

2004-06-02 12:44:20 | Weblog
 渋谷のミニ・シアターの老舗ユーロスペースに『熊笹の遺言』という映画を観に行く。映画学校の学生たちが卒業制作に撮ったハンセン病患者たちのドキュメンタリーだ。1時間ちょっとの短い映画だが、淡々とした語り口と、肩に力が入るでもなくお涙ちょうだいでもなく、変な先入観を与えない実によくできた記録映画だと思う。卒業制作の自主映画とはいえ、これまでにいろんな映画祭で賞を受賞してきただけのことはある映画だ。
 国が元ハンセン病患者に対して、その政策を謝罪して患者たちに補償をするというニュースはまだ記憶に新しい。この映画に登場してくる元患者たちにしてみれば、「それでは遅い」という気持ちはありながらも、そのことばはけっして口にしない。映画に登場する現在80歳、90歳以上の元患者の人たちの若い時の映像と現在の映像を比較すれば国がこの人たちにしてきたことは明らかだ。特効薬が発見されながら、その薬の投与を意図的に遅らせられたために、彼ら、彼女らの病気がどんどん進行していった。その無念さは映画から十分に伝わってくる。
 社会が「異形」に対する偏見と差別を持つのは、どんな国でもどんな部族でも、どんな動物でもあることだ。でも、国の役目は私たち個人とは違う。今回のイラクの自己責任騒動でもわかるのだが、「自己責任」はどんな人間でも当たり前のこと。でも、だから国は何も責任をとらなくていいということではない。国の責任と個人の責任はまったく違う。そんな.論理の摺り替えで誤魔化そうとする政治家が現在の日本のトップだというのはとても情けない。偏見、差別があれば、それを排除していくのが国の役目のはずなのだが、ハンセン病の場合には、逆に国がその差別を助長していたところが救い難い(薬害エイズでも似たようなものだが)。だから、今さらという気もするが、それでも国が彼らの存在をきちんと理解し始めたことは大きい。
 私は、この映画を観て、私たちの中にある異形との共存ということを改めて考えてみた。
 ハンセン病にしても、ダウン症にしても、彼ら彼女らが差別されるのは、見た目にわかる「普通ではない」形があるからだと思う。ハンセン病が極端に弱い伝染性しかないにもかかわらず、これだけの差別とこれだけの偏見を産んできたのは、この病気が最終的に人間の身体の外見を普通ではなくしてしまうからだ。そういった意味では、小人やシャム双生児などのいわゆるフリークスと同じ。「普通ではない」ということが、彼ら、彼女らを社会からアウトサイドに追い出してしまう。でも、考えてみれば、人間っていうのは、なぜにこれほどまでに「普通でない」ことに恐怖を持つのだろうかとも思う。「個性が大事だ」と言いながら、その一方でみんなと違うことをしたりみんなと違う外見をしていると非難されたり白い目で見られる。一人一人が違うことが個性のはずなのに、人と違ったことをすると「ダメ」と社会からつまはじきにあう。社会自体がとっても矛盾したことを私たちに要求している。つまりは、「ほどほどに同じで、ほどほどに違っていればいい」ということなのだろうか?
 これは、外見だけでなく、考え方の問題でも同じだろう。相手の意見はオカシイ。相手の信じている宗教はオカシイ。肌の色が黒いのはオカシイ。太っているのはオカシイ。こうした考え方そのものが差別や偏見を産む。というか、人間はそもそも偏見や差別を持つ生物なのだろうとも思う。だから、有史以来戦争や争いごとがこの地球から絶えないのかもしれない。ただ、たとえそうであっても、できれば自分はこうした考え方はしたくない。キレイゴトではなく、自分の中にある差別意識や偏見はできるだけ取り除きたいと思っている。自分は地球上の他の何億という人たちとは違う、唯一無二の存在だと思っているからこそ(だからこそ、私が私なのだが)、他の何億という唯一無二の人たちの存在を認めなければならないとも思う。社会には自分と違う人間だらけで、まずその人たちの存在を認めることから出発しなければ、到底この社会で生きて行くことはできないのだから。基本的には、自分が.、自分と異なる「異形」に対してどこまでの許容範囲を持てるかどうかだ。にもかかわらず、最初から自分とは違う存在を認めない人たちもこの世の中にはたくさん存在する。ナチスドイツの場合もそうだし、現在世界中で起こっている戦争も、元を正せばそれが原因だろう。「一体どうして?」と思うのだが、それも人間、あれも人間なのかもしれない.....。