みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

新しいPTさんは

2015-06-25 20:15:46 | Weblog
とっても優しい男性(ちょっと優し過ぎるかナ)。
恵子は、どちらかというと女性よりも男性療法士さんの方が相性が良いので、今度の新しいPT(理学療法士)さんともわりといい感じでリハビリをやっている。
ただ、今日は、同じ病院の口腔歯科でクリーニングの治療を受け長時間歯科の椅子に座らされていたために、本人曰く「疲れて今日はもう歩くのは無理」。
それでも、私が「ちょっとだけでも頑張ってみたら」とハッパをかけると「じゃあ、少し頑張ってみる」とPTさんと二人で平行棒の前に行く。
二台並ぶ歩行訓練用の隣の平行棒を(80~90代ぐらいとおぼしき)おばあちゃんが一人でゆっくりと歩行訓練をしている。
恵子がそのすぐ横に座り装具をつけるために靴下を履き替え始める。
片手で靴下を履かなければならないので、PTさんが手を出して手伝おうとするが、私がすかさず「大丈夫です。一人でやります」と言うと彼も手を止める。
横では、先ほどのおばあちゃんが「すごいネ、そんな早くに履けるんだ。私なんか両手でもそんなに早くは履けないよ」と、恵子が片手だけで靴下を履く手ぎわにしきりと感心する。
私は、これまで彼女の着替え、トイレを手伝ったことがない。
急性期病院のOT(作業療法士)さんから「片手での着替えの方法」や「トイレの方法」などを習った時からその手順通りしっかりと一人で行っている。
もちろん、見ていると「思わず手伝ってやりたくなる」ぐらいそのスピードは鈍い。
それでも、私は手伝わない。
助けることが結果的に「助けることにはならない」からだ。
これは、おそらく世の中のリハビリや介護の現場で皆が本当に間違えていることの一つだ。
そして、これこそが日本の福祉に最も欠けていることなのかもしれない。
本人が「やれること」をやらせようとしない。
福祉や介護、リハビリの目的は、人が人として「自立して生きる」ための手助けをすること。
この目的を理解していない人や行政があまりにも多過ぎると思う。
ただ、人に「手をさしのべればよい」というものではない。
手を出さないことが助けになる場合だっていくらでもある。
私は恵子が一日でも早く復活して欲しいと思っている。
そのために一番大事なことは、本人が「心からそうしたい」と望む気持を持つこと。
だからこそ介護で一番大事なのは、物理的に身体をかかえることよりも(それが大事になる場合もあるが)、本人が「かかえられたくない。一人でしっかりと生きていたい」という気持になることだろうと思っている。
ここを間違えると、「あ、もうこの人は自力じゃ食べられないから胃ろうにしちゃいましょう」になってしまう。
環境や意識を変えれば十分に自力で食べられる人にまで(胃に)穴を開けてしまうのが今の日本の介護の現状だ(本当は、意識や環境を変えてあげる努力をすべきなのに)。
おそらく、日本の介護や福祉からすぐにでもなくさなければいけないワードの一つが「助ける」ということばではないのか。
「助ける」というのは、その主語が自治体であっても人であっても、絶対に「上から目線」になってしまう。
だって「助けてあげる」んだから。
でも、本当はそうではないはず。
身体の不自由なAさんと健康なBさんが一緒に生活していく場合大事なのは、BさんがAさんを助けることではなく、AさんがAさんとして自立していけるようにBさんが何をすれば良いかを考えること。そして、それを実行すること。
これが、介護だし、福祉だと私は思っている。
私が恵子のすべてを助けてしまったら恵子は一体どうなってしまうのか。
恵子を絶望させないためにも、恵子が恵子らしく暮らせるように頑張るのが私の役目。
だから、彼女ができることに私は絶対に手を出さない。


高齢者三原則

2015-06-09 20:34:01 | Weblog
四六時中どこかで戦争をやっているアメリカという(トンデモナイ)国に私が留学したのは七十年代後半。
あの泥沼のベトナム戦争が終わった直後だった。
大学のキャンパスのあちこちには至るところにまだ(学生たちの)反戦運動の名残りがあった。
と同時に、実際に戦場で戦い負傷しながら帰還したベテラン兵士(退役軍人を英語でveteranという)たちの姿も大勢キャンパスで見かけた。
私にとっては、日本で大学を卒業した後の学士編入だ。
否応無しに日本のキャンパスの風景とアメリカのそれを比較してしまう。
それがベトナム戦争直後だったからなのか、それともアメリカの大学ではそれが普通の光景なのか、私が最初に目にしたキャンパスはあまりにも「奇異」だった。
奇異ということばが適切なのかどうかはわからないけれど、私の素直な感情からすればそのことばが一番ピッタリきたような気がする。
それはそうだろう。
片方の手を切断してしまった人たち。あるいは両足を失ってしまった人たち。
いや、それどころではない。両手両足を持たない人たちだってキャンパスの中を(介助の人の助けも借りずに)自由に闊歩していたのだ。
それを「普通の光景」として受け入れられるほど、私はまだ「アメリカ」に慣れてはいなかった。
しかも、さらに私がもっと奇異に思ったのは、彼ら(その頃はまださすがにキャンパスの中で「ベテラン女性」の姿を見ることはなかったが)の異様なほどの明るさだった。
キャンパスを車椅子で移動する時の彼らの「ドヤ顔」も、教室に入ってくるなりいきなり机や椅子を電動車椅子でけちらして自分の場所をしっかりと作る(いささか乱暴な)「縦横無尽さ」もしっかりと未だに目に焼きついている。
もちろん今日本の街中で車椅子で移動する人たちを見ることはそれほど珍しい光景でもなくなった。
しかし、その時見たアメリカ人の表情と私が今日本で目にする車椅子の人たちの表情はどこかが決定的に違う。
どこが違うのか。
なぜかすまなそうに車椅子の上にいる人たちの多い日本の状況を見るにつけ、「別に悪いことをしているわけではないのになんでそんなに肩身の狭そうな表情をするのだろう」とつい思ってしまう。
それは、どこか健常者と対等な関係ではない今の日本の身障者の立場がそうさせているのでは…。
私は、そう思わずにはいられないのだ。
それは、老人介護の現場でも同じこと。
けっして老いることが罪悪なわけではないし(誰しもそうなるのだから)心や身体に障害があることだってけっして自分たちがそうなりたくてなったわけではないにもかかわらず世の中全体がどうもそんな(不平等な)関係を作りだしてしまっているように思えてならない。
障害者も老人も時に社会のお荷物的に扱われてしまうことだってある。
どうしてなんだろう、と思う。
日本の社会ってもっとお互い労りあって優しい社会だったはずなのでは。
やはりお金のせいなのだろうか。
老人や身障者が労働の対価を生み出しにくい存在だからなのか。
生産性の低い存在だからなのか。
ここ数十年の間に金融資本主義経済が日本人のいたわりあう心まで破壊してしまったのか…。
ここで私が思い出すのが、福祉の先進国家である北欧デンマークにある「高齢者三原則」だ。
これは、「自己決定の尊重」「自己資源の活用」「継続性の維持」という三つの原則のこと。
つまり、「高齢者自らが決定した暮らし方を尊重して,高齢者の残っている自己資源(残存能力)を活用して,高齢者の生活をできるだけ変化させずに支援する」という考え方だ。
だから、デンマークには、基本的に「介護」という思想がない(ことばぐらいはあると思うが)。
あるのは、高齢者が自立して生きられる社会を作る、という思想だけ(この高齢者ということばを身障者に置き換えても同じ意味になる)。
そんなこと当たり前じゃん、と私は思う。
「介護」ということばがあるからこそ、人と人との間に「介護してやる」「介護してもらう」という対等ではない関係が生まれてしまうのだ。
私がこれまでずっと介護施設で行ってきている「音楽サービス」は全て有料だ。
この「三原則」からすればこれも至極当たり前のこと。
この三つの原則を守るには介護する人と介護を受ける人が同じ目線に立たなければならない。
これ(同じ目線に立つこと)こそが本当の大原則。
どんな人間関係においても上下や優劣の関係があってはならない。
私はそう思っている。
そのための「有料」の音楽なのだ。
有料である限り、サービスをする側には「結果」を出すという「責任」が生じる。
だから、「介護してやってる、サービスしてやってる」という態度は絶対に取れないのだ(ここを勘違いしている介護士、看護士が時に施設内で問題を起こしたりする)。
有料だからこそ生まれる「対等な」関係なのだ。
無償のボランティアでは必ずどこかに「やってあげている」「やってもらっている」という目線のズレが生じる(このことに気がつかない人も案外多い)。
これで初めて相手の「個」を尊重し、その人の「資源(つまり人生や人となり、能力)」を考えながらサービスを持続的に行っていくという「三原則」が実現可能になってくるのだ。
日本の介護は、そこをまったく勘違いしている。
タダで「施す」のが介護であり福祉だというとんでもない勘違いを社会全体がしている。
こんな失礼な話(国)もないだろう。
こんな相手をバカにした話もないではないか。
こんな無礼を思いやりだと勘違いしている限り、日本人の「おもてなし」も一方的な押し付け、押し売りにしかならない。
そろそろバリアフリーなんていう和製英語を使うのはやめて、きちんとユニバーサルデザインの一つとして「おもてなし」の意味やノウハウを考えていかないといつまでたっても日本は「幸せな国」にはなれないのではないのか。
少なくともオリンピック、パラリンピック開催までにはこの意識だけでも持てるようにして欲しいと切に願っているのだが。