今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんのエッセイ
「 夕暮れの時間に 」から 、「 一老人の頭の中は分らない 」
と題した達文 。
一つ一つの文は比較的長く 、リズムがいいわけでもないが 、読みおわる
と 、すとんと腑に落ちる 。
備忘のため 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 六十歳を越えるころには 、よくも悪くも それぞれの生き方の流儀は
仕上りかけているだろう 。事情が変ったから 新情報 、新知識をとり
入れて 、一から人生を生き直そうというわけにはなかなかいかない
のではないかと思う 。もう 存在の大半は 過去のかたまり なのだから 、
リセットしたら なにもなくなってしまうというか 、リセットなんか
出来ないし 、それぞれの長い人生が培った 積極性 、消極性 、感受
性 、情の濃さ薄さ 、好き嫌いをなるべく大切に生きればいいと思う 。
といって反省がないわけではない 。
NHKのドキュメンタリイに『 老人漂流社会 』という作があり 、
その中に 、一人暮しの男性の話があった 。寝たきりになり 、収入
もなく 知人も縁戚もないので 福祉の制度で病院に運ばれる 。しかし 、
いつまでもいられるわけではない 。別の施設に移される 。そのうち
食べる機能も衰え 、胃瘻 ( いろう ) という管による栄養の注入だけ
で生きることになり 、それも期限が来て 、別の施設に移される 。
耳も遠く 、ほとんど口もきかない 。狭い部屋の隅のベッドに運ば
れて 、施設の人が ここでも 胃瘻を続けるか と聞くのである 。やめれ
ば死ぬのだから ひどい質問のようだが 、少しも そんな気持ちになら
なかった 。むしろ 器械でこの先も生かされたら 、その方が心ない
仕打ちだ という気がした 。
ところが 、『 生きたい 』と老人はこたえるのである 。録画して
いたわけではないので正確ではないが 、胃瘻を続けてくれという
のである 。情けないが 、私は 意表をつかれた 。
( ´_ゝ`)。
考えればNHKの制作で 、この質問をして『 死なせてくれ 』と
いう答えを得て 、その結果 お亡くなりになりました 、というので
は 、このようなケースの老人は死ねというのか 、という抗議があ
るだろうから 、はじめから『 生きたい 』という答えを得たから
こそ 放送できたのかもしれない 。それにしても『 生きたい 』と
NHKがいわせたわけではない 。その老人が胃瘻を続けてくれ 、
といったのである 。
え ? この人にこの先 生きていて何があるのだろう 、寝たきりで
食べる喜びもなく 、人との交流もなく 、多くの人に厄介になり
続けなければならない 。これは もう 実は 本人も死にたいのでは
ないか 、器械で生かし続けるのは むしろ残酷なのではないか 、
という思いが『 胃瘻を続けますか 』という質問には 切実にこめ
られていたからこそ 、私も ひどい質問と思わなかったのだと思う 。
でも 、『 生きたい 』といったのである 。人間には生きる権利
があり 、生きられるのに殺されてたまるか 、という原理主義が
あったのかもしれない 。意識の混濁があって 質問の意味が分ら
なかったのかもしれない 。ただもう本能の叫びだったのかもし
れない 。
ともあれ 、その答えに意表をつかれた私は 、人の厄介になる
ばかりで 、なんの役にも立たない存在になったら 死んだ方がい
いという価値観が 深く巣くってしまっている自分 に気づいたの
だった 。それ以外の生きる意味を見失っていたのだった 。
。( ´_ゝ`)
それから卒然と 、かつて読んだ永井荷風の言葉が甦り 、いま
書棚へ立ち 、いくつかの文章に再会した 。
『 生きている中 ( うち ) 、わたくしの身に懐 ( なつか ) しか
ったものはさびしさであった 。さびしさの在ったばかりにわた
くしの生涯には薄いながらにも色彩があった 』( 『 雪の日 』 )
『 衰残 、憔悴 、零落 、失敗 。これほど味い深く 、自分の心
を打つものはない 』( 『 曇天 』 )
『 そもそもわたくしは索居独棲 ( さくきょどくせい ) の言いがた
き詩味を那辺より学び来 ( きた ) ったのであろう 』( 『 西瓜 』 )
『 わたくしは すでに中年のころから 子供のない事を一生涯の幸福
と信じていたが 、老後に及んでますますこの感を深くしつつある 』
( 『 西瓜 』 )
『 社交を厭 ( いと ) うものは妻帯をしないに越したことはない 』
( 『 西瓜 』 )
こういう人もいるのである 。一老人の頭の中は分らない 。傍
目には孤絶無残に見えても 心は分らない 。死んだ方が幸せなど
と軽々に他人も自分も断じてはいけないと思う 。老いは実にさ
まざまに深い 。
( 『 中央公論 』2013年10月号 ) 」
引用おわり 。
生きるためには 、なんでもあり 、と思う 。
山田太一さんのエッセイには 、こんな文章もある 。
「 生きるためには 、どうしてもいくらかの幸福感が必要で 、そ
れは個別の境遇 、年齢 、体力 、性格やらなにやらに添ってあ
る程度自然に湧いてくるものだと思う 。死のうとしていてもい
きなりナイフをつき出されればよけるようなもので 、人間は
おおむね生きようとするように出来ているのだから 、それに必要
な幸福感は 、はた目にはいかに情けないものであっても湧いてく
るのだと思う 。少なくとも私は 、そのくらいに思って 、幸福を
大げさに考えず 、論じすぎないで 、その都度湧いてくる幸福感
を頼りに 、なんとか生きて行きたいものだと願っている 。」
( ついでながらの
筆者註:「 山田 太一( やまだ たいち 、1934年6月6日 - )は 、
日本の脚本家 、小説家 。本名:石坂 太一( いしざか
たいち )。 東京市浅草区( 現:東京都台東区 )浅草
出身 。
松竹で木下惠介の助監督をした後 、フリーとなり 、テレビ
ドラマの脚本に進出 。以後 『 早春スケッチブック 』『 ふぞろ
いの林檎たち 』 など話題作を次々と生み出し 、多くの賞を
受けた 。その後 小説家としても地位を確立 。映画や舞台
も手掛ける 。
来 歴
生い立ち
父親は 愛知県 、母親は 栃木県真岡市出身 。両親は
浅草六区で大衆食堂を経営していた 。小学校3年のとき 、
強制疎開で神奈川県足柄下郡湯河原町に家族で転居
する 。
神奈川県立小田原高等学校を経て 、1958年に早稲田
大学教育学部国語国文学科を卒業 。早稲田大学の同
窓に劇作家の寺山修司がいた 。在学中 、寺山とは深い
親交を結び 、寺山がネフローゼで休学・入院すると山田は
頻繁に見舞って話し合った 。寺山の母から見舞いを控える
よう叱責された後は手紙をやり取りした 。後に寺山脚本の
映画 『 夕陽に赤い俺の顔 』 『 わが恋の旅路 』 で山田は
助監督を務めている 。寺山の死去から32年が経過した20
15年に 、両者が学生時代に交わした書簡や寺山の日記
を収めた 『 寺山修司からの手紙 』 が 、山田の編著により
岩波書店より刊行されている 。
教師になって休みの間に小説を書きたいと思っていたが 、
就職難で教師の口がなかった 。大学の就職課で 松竹大
船が助監督を募集していると聞かされ 、松竹を受験する 。
( 後 略 ) 」
以上ウィキ情報 。)