「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

雑魚という魚はない  Long Good-bye 2023・02・03

2023-02-03 04:54:00 | Weblog



  今日の「 お気に入り 」は 、牧野富太郎 ( 1862 - 1957 ) さんのお言葉 。

  「 雑草という草はない

  「 雑魚という名の魚はありません 」は 、さかなクンのお言葉でしたっけ 。

  ( ついでながらの
    筆者註:「 牧野 富太郎( まきの とみたろう 、1862年5月22日( 文久2年4月24日 ) -
         1957年(昭和32年)1月18日 )は 、日本の植物学者 。高知県高岡郡佐川町出身

        位階は従三位 。
        『 日本の植物学の父 』といわれ 、多数の新種を発見し命名も行った近代植物
        分類学の権威である 。その研究成果は50万点もの標本や観察記録 、そして
        『 牧野日本植物図鑑 』に代表される多数の著作として残っている 。小学校中退
        でありながら理学博士の学位も得て 、生まれた日は『 植物学の日 』に制定され
        た 。
        94歳で亡くなる直前まで 、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製した 。
        個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及び 、命名植物は1,500種類を数える 。
        野生植物だけでなく 、野菜や花卉なども含まれ 、身近にある植物すべてが研究
        対象となっていたことが 、日本植物学の父と言われる所以である 。
        生 涯
         1862年( 文久2年 )、土佐国佐川村( 現:高知県高岡郡佐川町 )で 、近隣から
        『 佐川の岸屋 』と呼ばれた商家( 雑貨業 )と酒造業を営む裕福な家に生まれた 。
         幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる 。
         元は『 成太郎 』という名であったが 、3歳で父を 、5歳で母を 、6歳で祖父を
        亡くした頃 、『 富太郎 』に改名している 。その後は祖母に育てられた


         ≪ お忙しい向きは 、以下 省略 ≫

         10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い 、11歳になると郷校である名教館( めい
        こうかん )に入り 儒学者伊藤蘭林( 1815年 - 1895年 )に学んだ 。当時 同級生
        のほとんどは士族の子弟であり 、その中に後の『 港湾工学の父 』広井勇らがいた 。
        漢学だけではなく 、福沢諭吉の『 世界国尽 』、川本幸民の『 気海観瀾広義 』
        などを通じ 西洋流の地理・天文・物理を学んだ 。

         名教館は学制改革により 、校舎はそのままに佐川小学校となった 。そこへ入学し
        たものの2年で中退し 、好きな植物採集に明け暮れる生活を送るようになる 。小学
        校を中退した理由として 、造り酒屋の跡取りだったので 、小学校などで学業を修め 、
        学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている 。

         酒屋は祖母と番頭に任せ 、気ままな生活を送っていた 。15歳から佐川小学校の
        『 授業生 』、すなわち臨時教員としておよそ2年間教鞭をとった。佐川で勉強する
        だけでは物足りなくなった富太郎は 、植物の採集 、写生 、観察などの研究を続け
        ながら 、17歳になると高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ 、
        当時の著名な学者の知己も得るようになる 。牧野は自叙伝で『 私の植物学の知識は
        永沼先生に負うところ極めて大である 』と記している 。

         そして 、江戸時代の本草学者小野蘭山の手による『 本草綱目啓蒙 』に出会い 、
        本草学とりわけ植物学に傾倒する 。自らを『 植物の精( 精霊 )』だと感じ 、
        日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き 、それは自分にしかできない
        仕事だと確信するようになる
。そして19歳の時 、第2回内国勧業博覧会見物と書
        籍や顕微鏡購入を目的に 、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した 。

         東京では博物局の田中芳男と小野職愨の元を訪ね 、最新の植物学の話を聞いたり
        植物園を見学した 。

         富太郎は本格的な植物学を志し 、明治17年( 1884年 )、22歳の時に再び上京する 。
         そこで帝国大学理科大学( 現・東京大学理学部 )植物学教室の矢田部良吉教授を
        訪ね 、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する 。
        そのとき 、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチ
        に標本と図を送っている 。富太郎は天性の描画力にも恵まれており 、マキシモヴィ
        ッチから図を絶賛する返事が届いた 。やがて25歳で 、同教室の大久保三郎や田中延
        次郎・染谷徳五郎らと共同で『 植物学雑誌 』を創刊 。同雑誌には澤田駒次郎や白井
        光太郎、三好学らも参加している 。

         同年 、育ててくれた祖母が死去 。

         26歳でかねてから構想していた『 日本植物志図篇 』の刊行を自費で始めた 。工場
        に出向いて印刷技術を学び 、絵は自分で描いた 。これは当時の日本には存在しなか
        った 、日本の植物誌であり 、今で言う植物図鑑のはしりである 。かねてより音信
        のあったロシアの植物学者マキシモヴィッチからも高く評価された 。

         この時期 、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが 、研
        究費を湯水の如く使ったこともあり実家の経営も傾いていった 。

         1889年( 明治22年 )、27歳で新種の植物を発見 。『 植物学雑誌 』に発表し 、
        日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけた 。1890年( 明治23年 )、28歳の
        ときに東京の小岩で 、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に 、柳の傍らの
        水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た 。これは世界的に点々と隔離分
        布する ムジナモ の日本での新発見であり 、そのことを自ら正式な学術論文で世界
        に報告したことで 、世界的に名を知られるようになる 。同年 、小澤寿衛子 と結婚
        し 、大学至近の根岸に一家を構えた 。しかし同年 、矢田部教授・松村任三教授ら
        により植物学教室の出入りを禁じられ 、研究の道を断たれてしまった
。『 日本植
        物志図篇 』の刊行も六巻で中断してしまった 。失意の牧野はマキシモヴィッチを
        頼り 、ロシアに渡って研究を続けようと考えるが 、1891年にマキシモヴィッチが
        死去したことにより 、実現はしなかった 。

         一旦 、郷里の高知に帰郷し 、地元の植物の研究をしたり 、西洋音楽会を開いて
        自ら指導し 、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが 、知人らの助力に
        より 、駒場の農科大学( 現・東大農学部 )にて研究を続けることができるように
        なり 、帰京 。

         31歳で 、矢田部退任後の東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻
        される形で助手となった
が 、その時には生家は完全に没落していた 。助手の月給
        で一家を養っていたが 、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていた 。
        それでも 、研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入して
        いたため多額の借金をつくり 、ついには家賃が払えず 、家財道具一切を競売に
        かけられたこともある 。

         その後 、各地で採集しながら植物の研究を続け 、多数の標本や著作を残していく 。
        ただ 、学歴の無いことと 、大学所蔵文献の使用方法( 研究に熱中するあまり 、
        参照用に借り出したままなかなか返却しないなど )による
研究室の人々との軋轢
        あり厚遇はされなかった 。松村とは植物の命名などを巡って対立もしている

        1900年から 、未完に終わった『 日本植物志図篇 』の代わりに新しく『 大日本植
        物志 』を刊行する 。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され 、東京の大手書
        店・出版社であった丸善から刊行された 。だかこれも松村の妨害により 、4巻で中
        断してしまった 。

         1926年( 大正15年 )には 津村順天堂( 現、ツムラ )の協力を得て 、個人で
        『 植物研究雑誌 』を創刊したが 、3号で休刊した 。以降は 、津村の協力により
        編集委員制で現在も刊行されている 。

         1912年( 大正元年 、牧野50歳 )から 1939年( 昭和14年 、77歳 )まで東京帝
        国大学理科大学講師を勤める 。この間 、学歴を持たず 、権威を理解しない牧野に
        対し 、学内から何度も圧力があったが 、結局 牧野は帝大に必要な人材とされ 、
        助手時代から 計47年間 、大学に留任している


         1937年( 昭和12年 )、朝日文化賞を受賞 。

         1940年( 昭和15年 )、東京帝国大学を退官後 、78歳で研究の集大成である『 牧野
        日本植物図鑑
』を刊行 、この本は改訂を重ねながら 現在も販売されている 。

         1949年( 昭和24年 )、大腸カタルで一旦危篤状態となるも 、回復 。

         1950年( 昭和25年 )、日本学士院会員 。

         1951年( 昭和26年 )、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を
        整理すべく 、朝比奈泰彦科学研究所所長が中心となって『 牧野博士標本保存委員会 』
        が組織 。文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われた 。同年
        設立された第1回文化功労者の対象者となる


         1953年( 昭和28年 )、91歳で東京都名誉都民 。

         1954年( 昭和29年 )頃から病気がちになり 、病で寝込むことが多くなった 。

         1956年( 昭和31年 )、『 植物学九十年 』・『 牧野富太郎自叙伝 』を刊行 。
         同年12月 、郷里の高知県佐川町の名誉町民 。また 、高知県に牧野植物園が
        設立されることが決定された 。

         1957年( 昭和32年 )、死去 。享年96 ( 満94歳没 )没後 従三位に叙され 、
        勲二等旭日重光章と文化勲章を追贈された
墓所は 東京都台東区谷中の天王寺
        郷里の佐川町にも分骨されている 。」

        以上 ウィキ情報 。 )





            
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