宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「ノーシス:治癒を求める祈り」

2009年01月26日 | Weblog

(画像はクリックされましたら拡大します。)

ノーシス関連の本からです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

【死は肉体を持つ生から持たない生への移行】

死とは、肉体を持っている状態から別の状態への移行に
すぎないとわかれば、人生の意味は非常に理解し易くなるし、
極限状態になれば、アルトラル体(霊体)が離れるのだから、
不必要に恐れる事はないわけである。


人生の嵐に巻き込まれた時にも、修行して魂を進化させる
為にこの世に来ているのだと思えば、どんなマイナスの状況
からも何かを学ぶ事ができる。

そしてまた、死んだ時に持っていけるものは、財産でも
なければ、社会的な地位でもなく、容貌の美しさや頭がいい事でも
ない事がわかるだろう。

どれだけの人に愛を注げたか、思いやりを持って人の役に
立ったか、自分の魂がどれだけ真の喜びに満たされて成長して
いったか――、死という移行を通して持っていけるものとは、
そういうものである。


昨年(1985年)来日したE・キューブラー・ロスは、ユングの研究で
知られる河合隼雄氏のインタビューに答えて、こう言っていた。

「いずれ、生まれたのは悲しいけれど死ぬのは嬉しい、という事に
なるのかもしれません。」


真に喜びを持って死ねるように、私達も日々努力したいものである。


最後に「レ・ミゼラブル」を書いたフランスの作家、ヴィクトル・ユーゴーの
言葉を紹介しよう。

「私は魂であり、墓場に連れて行かれるのは私自身ではない事が
よくわかる。
私は他の場所へ行くのである。」

「墓場へ行く時、私は他の人々と同じように"私は一日の仕事を終えた"
と言う事はできる。
しかし"私は人生を終えた"と言う事はできない。
私の日々の仕事は次の朝には再び始まるのである。
墓は袋小路ではなく、通り抜けるための道なのである。
墓は改新の場所であり、魂がその豊かさを取り戻す場所である。
つまり魂は、肉体や貧しさや苦しみや災いから自由になるのである。」

「私は、本当にあなた達の許(もと)から去ってしまうのではなく、姿を
変え、もろいマント、つまり私の肉体から自由になるだけなのだ。」

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ノーシスにおいては色々な高次存在に援助を願いますが、中には
日本ではあまり馴染みのない、中南米の神々なども含まれています。
そして病気の治癒を願う時、南米のインディオの高次元の霊的な
治癒の魔術師である「セフェリノ・マラヴィータ」に唱える祈りというものも
あります。

以下、翻訳させて頂きました。

………

【セフェリノ・マラヴィータ】

サンタマルタのシエラネバダより出たる驚くべき治癒の魔術師の一人に、
インディオのセフェリノ・マラヴィータがいた。

病に苦しむ病める者は、魔術で"ママ"セフェリノ・マラヴィータを毎晩呼び求める
べき事になっており、彼は、彼らの病を癒す事ができた。
次の短い祈りが行われるべきである。


★「カルスアンガのみ名によりて、いにしえの光の神、太陽からの七つの
光線と七紅海のおん子、ママ・セフェリノ・マラヴィータよ、我が御身を
呼び奉りたれば、御身は我の病より、我の癒しをなすを得ん。」

………

コメント