うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

1Q84

2015年12月13日 | 本と雑誌

村上春樹 ハードカバー版は2009年、2010年。

オリジナル版が出たのは2009年4月のことだ。書店に行くと発売前に、レジなどに告知が張られていた。

その1日前、偶々丸善の前を通ったら、入り口にワゴンが置かれて、店員二人が声をかけながら販売していた。ハードカバーで重そうだったが、その場で購入した。

book3はそのちょうど1年後に発売になった。このときも発売前の前宣伝が盛んだった記憶がある。

はっきり覚えているのは当日のNHK朝のニュースで、神保町の三省堂で生中継がされていたことだ。

その日のお昼、その三省堂で買った。発売日に世間的な話題になる、というのは、この後の「多崎つくる」でも、先日の随筆でも繰り返されている。

 

実は、1Q84については一度ここに感想文を書こうとしたことがある。その時は途中で中途半端に終わってしまった。

個人的見解ととしては、この本は村上度合いが高くて、なかなか評価が難しいのだ。

くりかえし読むとまた感想が違ってくるかな、とも思ったが、ハードカバーで買ったので持ち歩くのが面倒くさい。その後文庫版が出たが、6分冊になっていて全部買うと結構な値段になる。ので、しばらく読まずにいたが、今年半ばに意を決して?文庫本を買いそろえて読んでみた。

もっと気の利いたことを書ける人はたくさんいると思うが、ごく個人的な感想を言うと、やはり村上作品の中では難解な部類に属し、最高に好きな作品とは言えないな、と改めて思った。

 

僕はどうしても、青豆と天吾に感情移入できないのだ。特に青豆の感情の動きがどうもわかりにくい。book3まで進むとさらに顕著になる。

一応ネタバレに近い状態になることをあらかじめお断りしておくが、それまで客観的で冷静な判断ができていた青豆が、「受胎」した頃からだんだんとおかしくなっていく。

というか、本人は至って真面目なのだが、同士であり、青豆のよき理解者であるところのタマルの理解を超えた発言を繰り返すようになる。

タマルは物語の最後まで、クールさを保ち続ける。青豆に対する態度も、一貫して好意的だ。タマルはこの物語の中で、僕の一番気に入った登場人物の一人だ。彼は同性愛者だが、行動原理はあくまでも男性的だ(という言い方をしていいのかな)。

青豆に対し、僕が不可解さを感じるのは、もしかしたら僕が男性だからかもしれない。そう考えると、青豆の性格描写はむしろ、かなり成功しているのかな。

天吾はもともと、僕とは対極にあるというか、ちょっと違う世界にいる人だ。

幼い頃に苦労するが、セルフディシプリンが非常にしっかりしていて、数学や柔道、音楽に優れた才能を示す。女性に自然に愛される。男性女性を問わず、その才能を認める少数の人には強く支持される。大柄で、細かいところに気が利かず、マイペースだが、社会にそれなりの定位置を持つことができている。天吾ほどではないにせよ、こういう傾向の人はいるのだと思うけど、もし近くにこういう人がいたら、あまり親しくはなれないかもしれない・。なぜか、といわれてもよくわからない。

 

ふかえりはもともと不思議ちゃんみたいなキャラクターであり、性格を掘り下げるような描写はされていないから、これはこれでいいのだろう。小松氏、戎野先生、あゆみなども、それなりにわかりやすい書かれ方だと思う。 あゆみは切ない。

もう一人、大事な登場人物として牛河がいるが、この苗字は「ねじまき鳥」に出てくる私設秘書と同じである。

ので、最初は手塚治虫のアセチレン・ランプみたいな、作品をまたがって登場する(スター・システム)「俳優」なのかと思ったが、そうでもないようだ。

"1Q84"の牛河は、生まれもそれほど悪くなく、弁護士になれるほどの頭脳を持ち、社会的には決して底辺にいたわけではなかった。

ただ、心と容貌に深い闇を背負っていることは間違いない。

「ねじまき鳥」の牛河は、けっこう強いキャラクターを持っていたので、それが頭の中で邪魔をして、"1Q84"の牛河のキャラクターを理解するのに時間がかかってしまった。今回改めて読んで、その評価が一番変わったのは牛河だ。もっと活躍する姿を見たかった気がする。率直に言って、「牛河」と名付けるのはよいアイデアだったのかな、という気がする。

 

前回読んだときは、まだ「アンダーグラウンド」を読んでいなかった。今年初めに読んだが、それから本書を読むと、ここでの主要なテーマになっている宗教団体の描写に対する感想がまた変わってくるように思う。

もっとも、天後の父親の描写を含め、これを書くことで、村上氏自身が「癒されて」いるんだろうな、という観念がどうしても浮かんできてしまう。その意味でちょっと、消化が足りないというか、わりとナマっぽい書かれ方だな、という感じがしないでもない。青豆と天吾の小学校時代も、村上氏なりの学校観みたいなものの表れなのかもしれない。

そういえば、天吾の父親も、今回強い印象を受けた。主にbook3に登場し、活躍の場面は多くはないが、僕にとってはとても重い登場人物に感じられた。

宗教団体、学校、父親、これらのテーマのうち、描写に一番成功していないのは宗教団体だと思う。book1,2だけだと、そちらの比重が非常に重かったのだが、book3で父親や牛河が活躍するようになる。このbook3によって、この作品は深みを増し、ある意味バランスが取れてきたように思う(ただし、天吾の父に取って、NHKと、集金人という仕事は、一種の信仰対象だったのかもしれない。青豆や天吾にとって、小学校は心を許すことのできない、一種の宗教的権威と映っていたのかもしれない。その意味ではこれらは独立したテーマではないかもしれない)。

この一月ほど、非常に忙しいというわけではなかったが、どうもしっくりこない日々が続き、めんたる疲れがとれなかった。

今日はこの時期にしてはやや暖かく、しっとりとした雨。先日のような嵐ではない。久しぶりに家でゆっくりと過ごした。

あちこちが散らかしっぱなしで、自分のここしばらくの状況が見えるようだ。

先日買ってきた、シベリウスのCDをゆっくりと聞いた。

机の上に置きっぱなしになっていた、書きかけの絵を仕上げてみる。

浴槽に使って手足を延ばすように、心がすうっとほどけてくるのがわかる。

部屋も片付けたいが、一日も終わりかけて、ちょっと間に合いそうにないな。

そして週末は終わる。

また肩をすぼめて歩きはじめることになるのだろう・・。

 

コメント
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