徳川夢声 中公文庫2015
昭和16年12月8日は月曜日、暖かい日だったらしい(そう、そしてハワイは7日の日曜日で、兵士たちがくつろいているところに魚雷を抱えた爆撃機がやってきたのでしたね・)。徳川夢声氏は神戸のホテルに滞在し、花月劇場で講演をしていたようだ。
徳川夢声氏のことは昔のラジオ番組に出てきた人、という程度しか知らなかった。サイレント映画の弁士から始まって、文筆業や演劇など、いまでいうマルチタレント的な活躍をした人らしい。この本には、日米戦の開戦日から昭和20年の3月末までの日記が収められている。最初は終戦までの記録かと思っていたら、途中で終わってしまってあれれ、と思ったが、4月から敗戦までは別の「敗戦の記」に収録されているらしい。
今なら日々の出来事をブログに書く人も多いが、同じようなことを昔の人は日記につけていた。。まあ、多くの人は他人が読むことは考えていなかっただろうけど、徳川氏は読者を意識しながら日記を付けていたらしい。それゆえか、この本はなんだか徳川氏がブログを書いたものをまとめたもの、みたいな気がしてくる。それだけ、生々しい、ということだ。
読んでいるうちにわかってきたのだけどこの人、住まいも割と近いところにあったらしく、新宿、神田、内幸町、銀座など、僕もよく出かける場所が頻繁に出てくるなど、時空を超えて非常に身近なことが書かれているように感じてくる。
徳川氏は当時としてはかなり現代的で自由な立場の人だったのだろう。頻繁に全国、時には海外を訪ね歩き、あるときは自動車に乗ったり、映画の撮影をしたり、放送局で朗読をしたりと、基本的には今の芸能人とあまり変わらないことをしている。戦争中だが、映画もかなり遅くまで作られていたようだ。
というか、いろいろ制限はもちろんあっただろうが、東京の日常生活は、終戦直前までそれなりに行われていたんだな、という妙な感想を持った。考えてみれば当たり前の話なのだが、なんとなく戦時中と聞くと、焼け跡を人々が逃げまどっている風景しか浮かんでこなかった。
しかし、実際には被災するまでは、また被災しなかったところはその後も、商店は何かを販売し、人々は何かしらを食べ、電車や市電で移動し、何かの仕事をしていたのだ。
報道管制も厳しかったのだろうけど、それでも徳川氏は新聞数紙を購読して、書かれていることの裏側を探ろうとしている。僕だって今も、マスコミが真実のみを報道しているなんて思っていないし、そういう目で記事の裏側を探ろうと見ているのだから同じようなものだ。そして徳川氏は、正確なことはわからないながらも、事態がかなり抜き差しならないものになっているらしいと、しっかりと把握している。
ネットやテレビはないが、ラジオはあったので、B29が東京湾沖から飛来してどこで方向を変え、どの町を目標としているらしいかなど、自宅でリアルタイムに把握していたようだ。徳川氏の住まいのあった、東京西部は戦闘機の工場などがあったので、近いところで空襲もかなり経験したらしい。
空襲の時の、徳川氏の反応が面白い。怖いとか、憎いとかではなく、喜んでいるみたいなのだ。この気持ちはわかる。とうとう来るものが来やがった、ざまあみやがれ!という気分なのだろう。
開戦の時の徳川氏の文章も面白い。興奮して舞い上がったような気分なのだろう。この時代に生きられたことを誇りに感じ、自分は何ができるかを考える、などと書かれている。この気持ちもよくわかるような気がする。それは、4年と少し前、大地震が東日本を襲った時に自分たちが体感した気分と、どこかで通じているような気がする。
彼は表には出さなかっただろうけど、結構軍部や政府も批判している。シンガポールに慰問に行き、現地の軍部があまり女性にだらしないのを見て、相当嫌気がさしている様子が生々しく記述されている。こういうのを見ると、いろんな尾ひれの着いた話もあるのだろうけど、日本の軍隊がアジアの国々で何かやってきたことは、まあ否定できないんだろうな・・。