この週末は(僕にしては珍しく)興味ぶかそうなテレビ番組がいくつかあり、録画予約をした。そのうちアラーキーをとりあげた番組はまだ見ていないけど、そう、ダーウィンが来たでエナガさんを取り上げてましたね。エナガダンゴをみて、卒倒しそうになりました。。
日本沈没を取り上げた文学深読み(NHK BS)も興味深かったです。国民に厳しい事実を告げる役目を負わされた首相(映画では山本首相と言っていたと思ったのですが、小説では緒方首相という名前だったのでしょうか?)について、「存在感がない」と評されています。基本的に(日本の)首相というのは調整役であり、だれがやっても同じ。ただその首相が、こうした未曽有の危機に瀕して、矢面に立ってしまう。
彼は独白する。「こんな決断というのは、人間には重荷すぎるのだ。とても正気の人間にやれることではない」と。そういえば、「シン・ゴジラ」の大河内首相も同じような立場に立たされていましたね。「今、ここで決めるのか。聞いてないぞ・」と。
「シンゴジラ」でも、首相は総辞職ビームに斃れ、農水大臣が臨時代理に担ぎ上げられますが、ここでも「誰がやっても同じ」と言われています。日本人にとって、首相というのはそういう存在なのでしょうか。
考えるまでもなく、日本の首相は昔から次々と代替わりして、席の温まる暇もありません。戦前は大臣の任命や罷免もおぼつかない憲法のもと、文字通りお飾りそのものでしたし、戦後は憲法こそ改められたものの、しだいにその運用が首相の権利を縛る形になっていきます。日本人はたぶん、自分たちのなかに強いリーダーを持つことが本質的に苦手なんじゃないかと思います。。中国もロシアも、国民(のうち一定の数の人たち)がそれを支持するからこそ、長期政権が成立しうる。より民主主義的な国でいえば、ドイツ(苦しそうだけど)やカナダだってそうです。
それがいいか悪いかというと、国を方向付けるような大きな仕事がしにくいのは確かでしょうね。どうしても小手先になりがち。下の人たちはしっかりしているし長く勤めてるから、現状維持でこまかな改善はできる。
アメリカはというか、今のトランプ政権はこの逆で、優秀な人たちを使い捨てどころか使いもしないうちに捨ててる。ただ、ああいうやり方は、昔いた職場を思い出させるのですよね、個人的に。まるで戦場のような職場でしたが、慣れるとそんなものか、と達観はできます。ばかばかしいと思いながらも、不思議とそれで回っていくものです。むしろ、日本的に長く一緒に和んでいると、なにかを変えるというインセンティブが働かなくなる。創造的かどうかはともかく、壊してしまうことにも意味はある。。
上を変えるか、下を変えるか。。どちらも巻き込まれる方にとっては迷惑ですが、まあ世の中色々です(そういう結論かよ!)。