1969年アメリカ 日本公開は1970年
前回の記事では80年代の日本のビジネス社会で活躍された城山三郎氏を取り上げ、懐かしい世界、と書いた。裏を返せば昔、日本の経済が隆盛を誇っていた(半面、他国に比べ共通の問題を抱えていないことに戸惑いを感じていたような)時代と、今日の日本のビジネス社会は、形の上では昔を引き継いでいるが、実質的には人の資質、考え方ともにかなり変貌しているということなのだと思う。まあ昔の人たちが、随分と贅沢な悩み方をしているようで羨ましい、といいたくなるが、そんなことを言ったら城山先生から雷を落とされるかもしれない。
今日ここで取り上げる映画、イージー・ライダーも、今日のアメリカ社会とはまた違う、アメリカ社会の物語だ。解説でデニス・ホッパーが語っているが、これを撮影した1968年ごろのアメリカというのは大変な揺籃期にあった。ホッパーいわく、そのころは誰もが平気で法律違反をしていたんだ、ということだが、そのころの社会状況というのは、ちょっと想像がつかない。
いわゆるアメリカン・ニューシネマというのは、僕等よりも上の世代の人たちが影響を受け、ラジオなどでよく語っていた。僕らはだいたいスターウォーズぐらいから映画を見始めたので、世代のギャップを感じるのは確かだ(あくまでも個人的な視点ではあるが)。なので、それほど多くの映画は見ていないけど、「卒業」なんかはわかりやすかったし、「俺たちに明日はない」なんて、かなりインパクトあったな。。
それらに比べるとこの映画はすこしわかりにくい・。主人公たちが「自由」な存在なことは理解できるとしても、それを地方の住民が憎悪して闇討ちにしたり、銃を放ったりするというのは、感覚的につかめないものがある。
この映画のカギは、若手弁護士のハンセンがビリーに向かって語った「自由を語ることと自由であることは別なことだ。」という言葉なのではないかと思う。ワイアットやビリーは自由の側にいるが、彼らが出会う人々の多くはそうではない側、自由を束縛され、互いを監視しあいながら日々の生活を送っている人たちだ。そこには対立構図があるように思える。が、今日の我々が、どの程度そうした視点にシンクロできるかというと、どうだろう。多くの人たちは、自由と束縛を対立させずに、適当なところで折り合いをつけてしまっているのではないか。自由と束縛との間に、適当な距離感を保っていく姿勢となると、だんだん村上春樹じみてくる。話は飛ぶが、この映画を見るきっかけは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「私」が、『自己を変革するための訓練として』、『イージー・ライダー』を3度も観た、と語っていたから。
よくネットで出てくるブラック企業というのは、僕にはどうも理解できないことが多いのだが、時折語られる理不尽に人を束縛する管理者たちは、映画に出てくる田舎の保安官や農民たちと似た感覚なのかもしれない。。そういう意味では、今も自由と束縛の間との対立はあるのかもしれないな。。
ネットといえば、この方に係る事件がきっかけで、出演した映画や音楽作品の回収や出荷停止等が行われたことに対し、(少なくとも僕の見る範囲では)批判が相次いでいる。曰く過剰反応だ、音楽作品に罪はない、など。
ここで単純に対置させるのは適切ではないかもしれないが、「イージー・ライダー」って、主人公がコカインの密輸をしたという話だし、ピーター・フォンダもデニス・ホッパーも、ジャック・ニコルソンも映画製作中に服用していたようなことを映像ドキュメンタリーで語っている(ああいうのはいっていいのかしらん)。ホッパーいわく、あの頃はみんな法律違反を平気でしていたんだ、ということなら、まあやはり今とは時代が違うということなのだろう。
ごじらはこれからも大切に見ていきたい。。