うさぎくん

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よみがえる力は、どこに

2019年03月25日 | 本と雑誌

城山三郎 新潮文庫 平成29年3月(ハードカバー初版は平成24年)

前半は講演会の記録、次に没後発見された容子夫人に関する文章、最後が同年の作家吉村昭氏との対談と、全く異なる文章を1冊にまとめたもの。

没後にまとめられたせいか、より城山氏が等身大に近く感じられる文章となっている。特に容子氏とのエピソード(『君のいない一日が、また始まる』)は城山氏の学生時代の思い出や、若い頃子を持つことをためらった城山氏が、容子夫人に中絶を決断するように示唆した(ほとんど溺愛しているかのように夫人を描いている氏にしては恐ろしく冷酷な態度だ)など、相当に赤裸々な事実もつづられている。とかくきれいごとに終始する城山氏だが、それこそ「彼も人の子」という感じだ。

財界人を取り上げることの多かった城山氏だが、いわゆるエコノミストという訳ではなく(経済学の教師ではあったが)、株式投資なども自らは手を出さなかったらしい。ニュースもあまり見たがらなかったようだ。人や動物には興味を持ったようだが、利殖という行為にどこか後ろめたい気持ちを持っていたのかもしれない。もっとも、城山氏の時代の人はそれがふつうの感覚だったのかも。

城山氏にとって軍隊-腐敗した組織に対する嫌悪感は相当なものであり、それが彼の作家としての原動力となっているようだ。「組織はこりごり」という観念は本書の中でも形を変えて何度も出てくる。考えてみると、城山氏の小説の中で組織の中の人物に焦点をあてたものはたくさんあるが、組織そのものに言及した文章はほとんど見られない(ホンダのことは少し書いているが)。

この、組織嫌いという感覚に僕は深く共鳴するところがあるのだけど、同時にその感覚が身の回りの、友人知人の間で普遍的なものではない、ということも、今はよく自覚している。というか、自分のいる外資のある業界の人たちは、みんな組織の束縛みたいなことを嫌う感覚の持ち主だ、と思っていた。のだが、ここ10年、必ずしもみんなそうという訳ではないらしいことがわかってきた。その人たちに、城山三郎氏の小説は伝わらないのかもしれないな。。それでも今でも城山氏の本を書店でよく見かけるのは、「組織嫌い」感のある人が一定数いることの証拠化も、と想像を巡らしたりする。。

対談では吉村氏の発言が面白い。(太平洋戦争は)軍部が国民をだましたなんて言うのは嘘で、文化人とマスコミの責任転嫁だ。庶民が一生懸命やったんだ。とか、下町育ちの吉村氏が「通ぶった板前」を批判して、落語だか何だかの影響で江戸っ子が変な風に間違えられている。本当の下町っこは慇懃丁寧なものだ、など。

吉村氏は自然体で気の向かないことはしないタイプ、城山氏はもうすこし理屈っぽいけど、結局嫌いなことはしないタイプで、どちらもある種ひとと違う流儀があるところが似ている。それが通せる環境に生きていたということが、羨ましい。


写真は実家。ここは昨秋自分で植えたもの。窓脇に咲く花の写真も撮ったが、住所等が見えるのでボツ。実家はいま人がいないので、花が咲いても観てくれる人がいなくて、切なく思える。

コメント
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