うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

追記

2019年08月30日 | 昔のラジオ、テレビ
しょうじき、昨日の記事(夏を閉じる日 - うさぎくん)を、書いたものかどうか、さいしょ少し迷った。僕は公共の電波に乗って放送された手記の朗読を読み、強い印象を受けたことは確かだが、直接鈴木由里さんにお会いしたわけでも、一慶さんを含む、由里さんとつながりのあった方々と直接お話したわけでもない。

ご遺族のお気持ちを考えると・、そういえばさいきん京アニの犠牲者の方の名前を報道したものか、議論もあったようだが、あまり軽々しく扱うことは慎まなければ、という気持ちも働く。
また、一慶さんも朗読紹介の前に、(毎年朗読を放送することが)形式的なイベントになってしまうこと、繰り返すことにより心が動かされなくなることを恐れている、と語っている。

他方、昨日リンクを張らせていただいたなんでもかんでもさん(でいいのかしら?トラ刈りオヤジのノラないハナシ)の言われるように、往時は大きな反響を呼んだものの、時が移り人が移りするうち、次第に忘れ去られていくことが惜しまれる、という見方もある。僕も同感で「ともしび」は「愛と死をみつめて」のように出版という形はとらなかったものの、今でも多くの人に感動と勇気を与えてくれるとおもう。

以下は雑多な感想になってしまうけど、この時代の深夜放送というのは、今僕らがSNSなどで色々交流しているのと同じような役割を果たしていたんだな、ということに改めて気がつく。リスナーが限定されやすい深夜の放送は、より濃いつながりになりやすかったのだろう。

改めて言わずもがなのことを書いてしまうが、健康であれば様々な可能性が開けるはずの、何にでも感じやすい年代に、これらを制限され失わしめる、という人の運命というものを、どう捉えたらよいものだろうか。
人の想いは、どこに消えていくのだろうかという、昔よく考えたことをまた思い出してしまう。想いの強さは、人をモティベートすることに大いに役立つが、それが矯められると人を苦しめるし、ときには刃を自らに向け、傷つける力にもなりうる。

また「ともしび」からの引用をさせてください。残った足の切断を告げられ、悩んだ末これに向きあう決意をした4月の終わりごろ書かれた詩。

平凡な奥さんになりたい。

朝、5時に目を覚ましてお味噌汁を作ります。

中身はお豆腐とわかめが彼好みです。

自分で漬けた漬物をかわいい鉢によそおいます。

厚焼き卵を上手に焼いて、焼のりも出しましょう。

朝の準備ができたら、彼と子供を起こします。

子供は小学校の2年生、成績は悪いほうです。

でも私は怒りません。だってその子はとても心が優しいから。

彼と子供を門まで送って、お掃除、お洗濯をします。

午後になると子供が帰ってきて、
前の公園に勉強もせずに遊びに行きます。

私は夜ご飯のお買い物に駅前のマーケットまで、自転車で行きます。

そして、彼のためにお酒のさかなをまず初めに買いましょう。

それから急いでうちに帰って夕ご飯を作ります。

彼は6時に戻ります。

3人で夕食を済ませ、子供といっしょに漫画を見ます。

子供が寝たら、二人でお酒を飲みながら昔のことを話します。

そんな平凡な奥さんになりたい。 
(昭和47年4月30日)

輪廻転生ということがあったとして、鈴木由里さんの魂がその体を離れ、また生まれてくる誰かの体に宿ったのだとすると、もしかしたらその新しい体は、鈴木由里さんがかつて夢に描いたような生活を、今頃本当に送っているのかもしれない。
もしそうなら、鈴木由里さんであったころは多少辛い思いをしたものの、早くその体を離れて行ったことは、むしろ幸せだったのかもしれない。
多少辛いどころではなかったとは思うが、その想いは今でも生きているし、決して無駄な人生ではなかったはず、ですよね。

コメント
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