百菜健美☆こんぶ家族ラボ

おいしい
と感じることは生きる喜びに
そして笑顔になります。
舌で味わい、
目は閉じていても
耳は心で。

(みをつくし語りつくし)辻芳樹さん:1

2015-12-19 | Weblog

■辻調理師専門学校・校長(51歳)

■考える料理人 育てる

 大阪・阿倍野の地で生まれた辻調理師専門学校は今年、創立56年を迎えました。東京校、フランス校もあわせると、卒業生は13万5千人を数えます。「辻調」出身者は、日本全国、世界各国のあらゆるジャンルの店の調理場に、きょうも立っています。

 最近、感動したことがあるんです。フランス校で卒業試験に立ち会ったとき、料理に使うハト30羽に一度で完璧に火通しをした学生がいました。相当、高度な料理技術で、学生になかなかできるものではありませんが、「すべて計算ずくです」とその学生は言うんです。感性ですね。料理人の中には、こういう才能をもった人たちがいます。

 でも、その子は自分の料理技術を他人に伝えられない。今のままだと、単に腕のいい料理人が一人いたというだけで、店を持っても、一代もつかどうか。

 料理人の世界には、かつて「料理道」とでも呼ぶような、徒弟制度が美談のように語られた時代がある。師匠の背中をみて技術を盗めと。私は、それを完全には否定しません。

 しかし、もしその学生が、自らの料理技術を他人に言葉で伝えることができ、マネジメントを学び、コミュニケーション能力を発揮して、人を育てることができたら、とんでもない料理人になる。新たな料理人の技が加わり、料理は世代を超え、国境を越え、発展し、伝承されていくのです。

 職業学校としての教育の意義が、そこにあります。学生に、考えて考えて考え抜かせる。教育とは、レシピの数を増やすことではないんです。

 建学の精神は「教えることによって学ぶ」。教える側も、持っているすべてを学生に注ぎ込む。空になるまで。教師として本物を問い続ける必要がある。

 「辻調」は、私の父、辻静雄が1960年に創立しました。当時、フランス料理が西洋料理という大ざっぱなくくりでしかなかった時代に、その研究に没頭し、フランスはもちろん、欧米各国に通い、食べ、飲み、そして一流の料理人と交流した。膨大な著書を残し、その研究にフランス人が驚き、フランス人が認めた最初の日本人といっていい。

 その父に命じられ、私は11歳から一人で英国に放り出されました。中高全寮制の生活でラグビーに熱中し、多くの教師、友人と出会った。その後も米国、英国を往復し、15年間海外で暮らした。

 幼いころから、父と会話をした記憶はほとんどありませんが、私が後継ぎになるのは宿命でした。

 晩年、父は私にこう言いました。「お前は料理技術を学ぶ必要はない。辻調の先生たちと競争してどうするんだ」と。

 その代わり、私は8歳から父と料亭「吉兆」に通い、海外で過ごした10代、20代は、ヨーロッパでミシュランの星のついた店はもちろん、さまざまな国で、とにかく食べ歩いた。それは本物とは何かを知る、味覚教育だったと思います。

 父が急逝し、私は29歳で校長となりました。まず取り組んだのは、教職員の意識改革。父の遺産の上でなあなあにならず、まだまだやることがあるだろうと。教職員の人事評価制度も導入した。

 近年、日本料理が世界に広がり、一昨年、ユネスコ無形文化遺産にも登録され、私はその誘致活動をお手伝いした。海外で異文化の中の日本料理をみてきた私にとって、世界の受け止め方の変化は驚きですが、そう単純に喜べない。それではこれから私の半生をお話しします。まずは先代の父のことから始めましょう。

     ◇

 つじ・よしき 1964年10月、大阪市阿倍野区生まれ。中高を英国の私立学校で過ごし、米国ロングアイランド大卒、米国で投資信託ドレイファスコーポレーションに勤務し、91年、27歳で帰国後、旧大和銀総合研究所勤務を経て、29歳の93年、辻調理師専門学校校長に就任。著書に「すごい! 日本の食の底力」「和食の知られざる世界」などがある。

ログイン前の続き■父は唯一無二の存在

 辻調の創設者は、父、辻静雄です。父は東京生まれ、東京育ちで、早稲田の仏文科をでて、大阪読売の社会部記者になりました。そして、母の辻勝子と知り合った。

 母の実家は阿倍野で花嫁修業の料理学校をやっていました。父は母と結婚し、新聞記者を3年でやめた。そして祖母からその学校の土地を譲り受け、自分で借金してつくったのが、辻調の前身「辻調理師学校」です。1960年のことです。父は養子ではなく、東京の辻と大阪の辻が結婚したんです。

 父の偉大さは、物事に対するすさまじい探求心です。さらに、料理人の技術者集団をつくり教育に落とし込むという、その発想。美食が雑学程度に思われていた時代、単においしいものをつくるというのではなく、料理の歴史、民俗学などの周辺知識まで取り込んで総合的に研究し、学生にも伝えました。

 探求心の最初の矛先は仏料理でしたが、当時の日本の仏料理はまだ本物と呼べる段階ではありませんでした。仏料理の技術を体系づけて語れるシェフも文献もなく、外国の文献に頼って独学で調べるしかなかった。その境遇が父の探求心に火をつけました。

 とにかく語学が好きで、すべて独学で身につけた。英語、仏語、独語、伊語の4カ国の辞書が大小各2冊ずつ、計4セット、家の中のどの部屋にも置かれ、トイレにもあった。海外に行っては古文献を買い集め、書斎にこもり仏料理の料理技術、サービス、盛りつけを単なる紹介でなく、その歴史、文化の流れに位置づけ体系化する作業でした。探求心は生涯絶えることはありませんでした。

 国内外の一流料理人と親交を深め、料理番組を通じて本物の美食を伝え、料理書120冊をもとに「フランス料理研究」を執筆しました。

 辻静雄は、私にとって唯一無二の存在です。

■「フランスで学校やる」

 父親としての先代は、あめとムチでしたね。例えていうなら、殴っては抱きつき、抱きついては殴る。でも、ちゃぶ台をひっくり返すような頑固オヤジのイメージとは違うんです。

 西洋文明へのあこがれなのか、知らない人から見ると、かっこつけているようにしか見えない。何でも一流でなければ気が済まない人でした。

 私には、父と会話をした記憶がほとんどないんです。ただずっと父の会話を聞いていた。父と調理師学校の番頭格の先生との会話、父と母の会話、父と私の二つ年上の姉との会話。話題も、料理や学校経営のこと、文化や音楽まで、父の周囲には、文化的な空気が充満していました。

 キャッチボールなんて一度もなかった。仮面ライダーも、テレビも、漫画も一切ダメ。父は1年の半分は海外を飛び回っていましたが、ときどき週末に心斎橋の喫茶店に連れて行ってくれた。難しい顔をして横向いてずーっと考えごとをしている。私は隣でだまって座っているんです。

 でも、突然、私に向かって「今度な、土曜日の夕方、料理番組やるんだ、すごいと思うだろ?」とか「フランスの城で学校始めるんだよ、この意味、お前にわかるか?」って。いまの辻調グループフランス校になる城のことだったんですが、私は当時小学生。分かるわけないですよ。

 父は、数多くの著書を残しました。一番感慨深そうだったのは、集大成となる「フランス料理研究」が出たときです。小学生の私を書斎に呼び、私に見せて、説明するんです。途中、私が「ちょっとトイレ」なんていうと、悲しそうな顔をするんですよ。

 父が最初にやらなければならなかったのは、仏料理の体系化と本物の仏料理をつくることができる教育者の育成でした。1人の料理人と出会ってからは、日本料理にものめり込みました。

 

■料理人と父 真剣談議

 湯木貞一さんを、ご存じでしょうか。

 大阪の料亭、「吉兆」の創業者で、一代で吉兆の名を全国に知らしめた方です。料理界で初めて文化功労賞を受賞され、1997年に95歳で亡くなられました。

 父静雄は、月2、3回、多いときは週1回、湯木さんが料理人として円熟味を増した高麗橋吉兆に通っていた。私は8歳の誕生日に連れて行ってもらってから、ときどき父に同行し、高校、大学で海外留学中も帰国するとお供をした。湯木さんと父の会話にじっと耳を傾けていました。

 もともと吉兆は、祖母が通っていた店でしたから、当時の父は日本料理の見識はそんなになかったはずです。それが、湯木さんと出会って、日本料理の研究にものめり込んだんです。

 父は、根掘り葉掘り、湯木さんに質問するんです。途中、仏料理ではどうだこうだとコメントするものですから、湯木さんもこいつは食べさせがいのあるやつだと思ったんでしょう。辻静雄が来るというと、器を変え、献立を変え、迎えていただいた。同じ料理は出せないですから。

 湯木さんは、とてもきれいな話し方をされる人でした。料理の解説ではうんちくを一切語らない。この料理はこうでないとあきまへんねんみたいな、さらっとした大阪弁です。聞いていて、とろーっとするという表現がぴったりな話し方をなさるんです。

 湯木さんと父の会話は、料理の作り手と、料理を理解しようとする客とのまさに真剣勝負だったと思います。うわっ面のつきあいではない。実に見事なものです。父はメモ一つとらなかった。

 料理の伝承というのは、技術だけでなく、料理人の哲学や人格、その料理人というフィルターを通してなされるものだと思います。湯木さんは、まさにそれを体現されていた方でしたね。(文・村上英樹、写真・堀内義晃、伊藤菜々子、滝沢美穂子)


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