がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

当サイトの掲載写真・イラスト等の無断転載/無断使用を禁じます

ドラマ「尚円王」を見て

2020年03月01日 | ・琉球史散策/第一尚氏


↑クリックで公式サイトにジャンプ

 

ドラマ「尚円王」、
皆さまご覧になりましたでしょうか?


「尚巴志」につづく
RBC琉球歴史ドラマ第二弾。


TVerなどネットでも配信され
本土の方でも見れるようになったのは
すごかったですね!


それほどニーズがあった
ということでしょう。
(同意!)
 
ワタシの周りでも
見た人が多く、
「最初はあんまり興味なかったけど、
なんだかんだで見ちゃったよね」
という人も少なくなかったです(笑)
 
ドラマとして「見せる力」があった証拠なのでしょう。
 

 


さて、
クレジットで気づいた方もいるかもしれませんが、
実はワタシ、物語展開を事前に知ってしまっておりまして、
(でも製作関係者ではない)

それで既にワタシの中で人物描写や演出など
(勝手に)イメージができあがってしまっていたので、
(贔屓の人物は特に)
実際の放送を見たときに、
どうしてもそれとの差異を感じてしまい、

「…oh…しまった……」
となってしまいました…

 

なので今回は
主要人物や物語展開などについて、
いつものようにここで書くのは
控えることにします


 
そんな中、
放送を見て「おっ!」って思ったのは
 
● 程茂の悪役っぷり
● 国笠が盲目設定だったこと
● 護佐丸の「ナーが、くぬ琉球、守れぇ」の重み
 
です。
 

アラフィフ&オーバー50の役者さんたちが
印象的でした。

個人的には、金丸も
アラフィフの役者さんにやってもらいたかった…かも。
(今回の役者さんが悪かったというわけではないけれど)

金丸もあの時代、50代でもあるし。

程茂役の人が金丸をやっていたら…
とか思っちゃった。

程茂の演技力は圧倒的でしたね。
 
 

国笠が盲目という伝承は聞いたことがないのだけれど(ある?)、
それがかえって常人とは違う、
神秘的な感じを出していたと思います。
 
そんな国笠に惹かれた尚徳のことを考えると
また色々「読め」てきますね。
 


護佐丸はさすがの年の功!
短いセリフの、字面だけではわからない
深みと重みのある一言で
非常に印象的でした。
 
 

 
作品全体を通しての印象は
第一弾の「尚巴志」に比べると
「色」がだいぶ変った!
ということ。
 
コミカルな描写も多く、
テーマソングもポップな感じに。
ストーリーも創作要素満載。
 
なので、
ドラマを見た人からいろいろ聞かれて、

「あっ…、それはフィクションです…」
「あっ…、それもドラマ上の設定です…」
「あっ…、それは歴史的には謎です…」

と答えることも何度か(^^;)
 


謎が多い古琉球の人物模様。

フィクション上等!

エンタメ化万歳!


 
で、
ドラマではああだったけど、
じゃあ、歴史的にはどうだったの?
って調べてみて!
 
気に入った人物名をキーワードに
歴史ではどう書かれているのか
どう捉えられているのか
調べてみて!
 
両方知ると、楽しさ倍増だから!
(歴史フィクションについての私の考えは→


あの説をこう入れてきたのね!とか
あの部分をこう解釈したのね!とか
あの謎はこう繋げたのね!とか
色々分かるから。
 
 
そして(いろんな意味で)驚愕するがいい……フフフ…。
 


 
では、せっかくなので、
数ある過去記事の中から
登場人物の関連する記事を
少しだけピップアップしてみます。

関連史跡なども含むので
「巡礼」にもどうぞ。
 
ドラマのイメージを1㎜も崩したくない人は閲覧注意かも!?(笑)



ドラマがそうであったように
このブログで書いていることが
「100%正しい」というわけではありません。
歴史ではこう書いてあるんだ、
時代背景やあの時代の前後はこうなっているんだ、

こんな解釈や、こんな伝承、こんな小説もあるんだ、
という感じでお読み下さいね。

 

金丸→      

宣威→  

オギヤカ→     

真五郎(マグラー)→   

大城賢雄→      

尚徳→    

安里大親→  

守忠→ 

国笠→  ★

 

<おまけ>
歴史人物の二面性について→    

琉球史ふりかえり一覧表
(三山時代~第二尚氏初期までの年表、相関図、国王系図など)

 

紹介したのはごく一部なので、
もっと気になるっていう人は
ブログ内の検索ボックスから
人物名などを入れて検索してみてくださいね★

 

なお、程茂は完全フィクションキャラなので
調べても出てきません♡

 

 

最後にちょっとだけ。

今回ちょっと気になったのは、
前作に比べて画面に広がりと、量感(厚み)をあまり感じなかったこと。


引きの映像のなさや、
ロケ地自体の狭さ(カメラを引けないことと繋がる)・バリエーションの少なさ、
エキストラが(前作に比べて)いないことが原因かな?

(特にクーデターシーンは、
大人数の迫力が欲しかった…というのが本音。
オーサーレも…。)


もちろん色々と制約があったであろうことはお察ししますが、
もう少し工夫できたら
きっともっと良くなるだろうな~と思いました。

 

でも、いろいろと制約がある中で
ドラマという「形」にしてくれたことは
とても意義があることであり、
ご苦労された出演者、スタッフの皆さんには
感謝と敬意を表したいです
 

ありがとうございました

 



 
ドラマ内で登場し、物議をかもした首里城CGについては
長くなったので別記事で…。


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15世紀後半の首里城正殿、描いてみた(作画根拠メモ)

2020年02月29日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

昨日、2/28(金)の沖縄タイムスの見開き特集
「首里城 時代の地図②」は
第一尚氏王統について、でした。

15世紀後半、
志魯・布里の乱で首里城が消失した後に再建され、
なおかつ、尚泰久王・尚徳王・尚円王時代の
首里城正殿のイメージ図を、
様々な資料を元に描きました。

 

このイラスト、もともとは
10/2に行った桜坂劇場×ボーダーインクでの特別講座用に
描き下ろしたものです。

今回の特集に際してお声かけいただき、
一部加筆修正を加え、掲載と相成りました。

(講座参加者さんは
どこが変わったのか「間違い探し」してみてくださいね(笑))

 

ビジュアル化に伴って参考にした資料は
主に「朝鮮王朝実録」にある来琉した朝鮮人による目撃証言記録と、
実際の発掘調査報告書。

 

 

イラストと一緒に提供した
パーツごとの作画根拠メモ。

これらのメモは記者さんが整理して
掲載してくれましたが、

せっかくなので
スペースの都合上カットとなった部分や
解説の補足をしてみたいと思います。

 

 

まずは大きさ比較。

平成復元の首里城正殿(→以下「今の正殿」と表現させていただきます)と
同アングルで重ねてみたの図。

 

15世紀後半の正殿は、
発掘調査で建物の礎石や基壇の遺構が出土していて
それによると、
今の正殿のひとまわり小さいくらいです。

なお、正殿の位置は、今の正殿と同じで西向き。

ですが、6メートルほど奥に引っ込んでいたようです。
(※上の重ね写真は大きさ比較のためだけのものなので
奥には引っ込めてはいません)

参/『首里城跡―正殿地区発掘調査報告書―』
(沖縄県埋蔵文化センター/2016)

 

基壇の遺構については
出土した通りの雑石積なのか、
それとも出土したのは裏込め石で、
実際はきれいな布積みだったのか、
判断が分かれるところです。
(布積みだったとすると、じゃあ階段との接合部分はどうなるのか
…という問題も出てくるようですが…)

参/『首里城正殿基壇の変遷(首里城研究NO.2)』
(安里進/1996)

 

掲載イラストでは安里先生の見解を採って布積みにしましたが、
実は出土した状態のままの
雑石積バージョンも描いていたのでお披露目。

 

 

こんな感じ。
だいぶ雰囲気が変わりますね。

 

発掘された基壇は70~80度の勾配もあったようなので
雑石積バージョンではそのようにもしていましたが、

きれいな布積みに変更するに際しては、
傾斜も敢えて垂直に直しています。

 

なお、出土した階段部分はきれいな布積みの状態で残っていたため、
石の大きさや積み方はこの階段に合わせて描きました。
(…が、もうちょっと大きな石にしてもよかったかもしれないな)

布積みと一言で言っても色々ありますからね。

今の正殿の石積みとも、またたちょっと変えてあります。

 

+

 

次に、屋根について。

 

首里城の屋根はずーっと赤瓦なのではなく、
その前は灰色瓦、さらにその前は板葺き、
…という変遷があることは、
だいぶ色んな所で語られるようになったので
知っている、という人も多いはず。

今回の筆頭参考文献の李朝実録の目撃証言では、
屋根について、こう書いてあります。

参/『朝鮮王朝実録 琉球史料集成 訳注編』
(池谷望子・内田晶子・高瀬恭子編・訳/2005)

 

証言1 梁成ら(1456年漂着、1461年送還)
「その閣は覆うに板を以てし、板上は鑞を以てこれを沃す。」

 

屋根は板葺きで、
「板上」は鑞(金属塗料。錫か)がかかっていた。


この表現から、
板葺きの屋根全体が金属塗料でおおわれていた
とも読めます。

実際、そう解説している本もあります。


でも、私は
屋根全体をシルバー(金属塗料)には描きませんでした。


 
なぜか。

 

証言2を見てみましょう。

 


証言2 肖得誠(1460年漂着、1461年送還)
「その閣は皆、丹雘を着け、覆うに板を以てこれを沃す。
毎鷲頭に鑞を以てこれを沃す。」

 

板葺き、というのは同じですね。

しかし、「鑞」については、
「(毎)鷲頭に」としています。

 

鷲頭とは、

 

殿閣・門楼など大建築の大棟の両端の飾りのこと

『朝鮮王朝実録 琉球史料集成 訳注編』


いわゆる、日本でいうと鬼瓦のこと。

 

それを知ると、
証言1の「板上」というのも、
板葺きの屋根そのものの上(表面)、ということではなく、
板葺き屋根の、上の部分、つまり「大棟」を指している
とも読めます。

 

実際、板葺き建築の様式を見ても、
大棟(及び鬼瓦)は灰色瓦であり、
この灰色瓦の光沢を、朝鮮人らが「鑞」だと
勘違いした可能性は大いに考えられます。

参/『沖縄の名城を歩く』(上里隆史・山本正昭編/2019)

 

少なくとも、

板葺き建築上、他に事例がない、
「屋根全体を金属を塗った板葺き建物」
というものよりは現実的です。

というわけで、
「板上に鑞」は
大棟を指していて灰色の棟瓦、
という解釈で描きました。

 

+

 

さて、先ほどから「板葺き」と言ってますが、

板葺きについて。

 

板葺きには

「檜皮葺(ひわだぶき)」

「杮葺(こけらぶき)」

があります。

 

素材も違いますが、
檜皮葺のほうが目が細かくて密度があって
「高価」な屋根になります。

 

詳しくはこちら!
全国社寺等屋根工事技術保存会

 

じゃあ、首里城の板葺きはどっちだ?!

 

ヒントとなったのが「玉陵」です。

玉陵は創建(1501年)当時の
首里城を模したのではと言われています。

(なので大棟の造形も玉陵のものを参考にさせてもらいました)

 

 

 

玉陵、墓室の屋根です。

 

う~ん、見上げる感じだとよくわかりませんね。

 

では、空から見てましょう。

 


↑クリックで再生ページにジャンプ

 

この形状は明らかに檜皮葺ではなく杮葺!

 

杮葺き決定!

 

ところで、

 

杮葺の首里城……

 

実は、写真に残ってるんです。

 

 

いや、マジで。

 

 

 

それがこちら!

 

 


(「首里城復元期成会会報第10号」より)

 

そうです。

実は、平成の復元の時、
正殿屋根は杮葺で作られていたんです!

 

 

今回の復元工事では屋根荷重の軽減や
耐久性を高める目的で、
下地は椹板を竹釘で留める杮葺とし、
その上に土を使わずに瓦を葺く
空葺工法を取り入れた

参/『首里城の復元―正殿復元の考え方・根拠を中心に―』
首里城公園友の会編/海洋博覧会記念公園管理財団(平成15)

 

 

杮葺の首里城が現代によみがえっていた!

 

というわけで、
色的にも、きっとこんな風に木肌の色だったはずです。

もちろん経年変化で茶にはなっていっただろうけど。

 

 

 


この時期、唐破風はまだありませんが、
中央部が張り出した「向拝」形式だったのでは、
との見解もあります。

向拝とは、例えばこういうの

 

ですが、朝鮮人の「勤政殿の如し」に従って
ここではひとまず、向拝なしを採用しました。

 

 

 

 

正殿周辺の建物について。

 

どうやら、周辺に建物はあったらしいことが
うかがえます。

証言2では


「廊廡は、周回連接し」

 

とあります。

 

廊廡とは、

 

正殿に付属した細長い建物
『朝鮮王朝実録 琉球史料集成 訳注編』

 

ということで、
イラストにも描いています。

 

 

また、南殿の発掘調査でも
この時代に相当する遺構がでています。

参/『首里城跡―南殿・北殿跡の遺構調査報告―』
(沖縄県教育員会/2015)

 

「南殿」は薩摩侵攻後に造られたとされていましたが、
それ以前の15世紀から、
何らかの建物があったことが分かっています。

ただ、残念ながら建物の姿かたちは不明。

 

なお、南の建物は正殿に対して
90度に建てられていたようです。

ということでは
御庭も今みたいに歪んではいなかった、
ということも分かりますね。

 

北殿に関しては、
発掘調査でも
遺構の損傷が激しくて
よくわからなかったようです。

一応、北殿の創建は
尚真代の1506~1521年頃とされているようですが
(『首里城の復元―正殿復元の考え方・根拠を中心に―』)
はっきりしたことは分かってないようです。

 

 

尚真王代の最盛期、16世紀に入ると
首里城にどんどんリフォームが加えられていきます。

正殿も、欄干や龍柱の付き、
城壁も拡張(→外郭)されます。

 

 

1534年の冊封使・陳侃による記述も加えていくと
この首里城イメージ図もまた少し変わっていきます。


実はそれバージョンも少しあるのですが、
落書きメモ程度なのでここでのお披露目は控えます(^^;)
 
そのうちに…、とは思っているので
どうぞお楽しみに。
(と言ってもいつになるかは不明(^^;))
 

 

 

 

 

今回15世紀後半の首里城正殿イメージ図として
ビジュアル化してみたものの、
もちろんこれが「絶対の正解」ではありません。

文献や発掘も含めた資料の解釈も色々あるし、
今後新たな発見や見解も出てくることでしょう。

絵として至らない点も多々あるかと思います。

なので、あくまでもこれは
現時点での「暫定イメージ図」であることは
ご了承下さい。

資料解釈に誤りや不十分な点があれば
ご教示いただければ幸いです。

 

作画するにあたって
たくさんの方々の研究を参考にさせていただきました。

文献の編訳、
発掘、資料整理、編集はもちろん、
それら文献や報告書を
分析・研究し発表された先生方などなど、
首里城研究に携わってきた全ての方々に敬意を表します。


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琉球歴史ドラマ『尚巴志』TVerで公開中

2020年02月02日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

RBC琉球歴史ドラマ『尚円王』の放送を前にして、
2017年に放送された第一弾『尚巴志』が
沖縄で再々放送されていますね。

今日が最終話の放送日になります。

 

え!知らんかった!!!

 

どうせ本土じゃ観れんし…

 

という方。

 

大丈夫です。

 

今回はTVerでも公開中!

 

つまり、ネットを介して、
全国各地、世界各地から見ることができますよ
ってことです。

 

しかも、公開は2月12日まで。

まだまだ時間はあります。

 

見逃した方、本土の方、

是非この機会にご覧ください。

 

 

TVer 琉球歴史ドラマ「尚巴志」
https://tver.jp/feature/f0045552

 

 

『尚巴志』の時は琉球歴女・宣伝部員として
ロケ見学をさせてもらっていたので、
放送前からいろいろ記事を書いてました。

オフショット、裏話なども載せているので
合わせてお楽しみ下さい↓

 

 

歴史ドラマ「尚巴志」特別ロケレポ

歴史ドラマ「尚巴志」特別ロケレポ2

歴史ドラマ「尚巴志」特別ロケレポ3

歴史ドラマ「尚巴志」特別ロケレポ4

歴史ドラマ「尚巴志」特別ロケレポ5

 

でも放送日が年度末の繁忙期だったから
各話ごとのレビューは全く書けてないのよね…。

かろうじてツイッターで
ちょこっと触れた程度。

 

そのツイッターでは
関連史跡や歴史上のあれこれについても

紹介していました。
モーメント(まとめ版)がこちら。

 

RBC琉球歴史ドラマ「尚巴志」①

RBC琉球歴史ドラマ「尚巴志」②

RBC琉球歴史ドラマ「尚巴志」③


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赤木名グスクと、琉球の王弟

2019年12月18日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

前回の浦上グスクに続いて、
奄美大島のグスクを、もう一つ。

奄美空港がある、
北東部エリア【笠利(かさり)】にある、
赤木名グスク(赤木名城)。

奄美大島を代表するグスクでもあります。

 

※赤木名「グスク」にするか「城」にするか、
迷いましたがここでは赤木名「グスク」で書かせていただきます。

 

 

赤木名中学校の、すぐ裏手にあります。

 

 

入口の鳥居には「秋葉神社」とありました。

 

 

鳥居を抜けてしばらく登ると、
広場になっています。

 

右の石碑は、かつてこの地にあった(1675~1819)
赤木名観音堂開山時の住職の墓碑。

 

真ん中は「赤木名城跡」の碑。

 

 

説明版。

赤木名グスクは
国の史跡に指定されています。

 

ところで、
『朝鮮王朝実録』にこんな記述があります。

 

“奄美大島は琉球に帰順して15年になるが、
喜界島は毎年交戦するするもいまだ服従していない”

 

奄美大島は大きな島ですが、
その大部分がやんばるのような森林のため、
人々が多く住む島の中心地…
少なくとも、琉球の奄美大島統治の拠点は、
ここ「笠利」だったようです。

地形を見ても納得です。

 

そして、琉球が奄美大島を制し、
次に喜界島を…とした時、

この笠利にいったん軍を置き、
そこから喜界島に向かったということも
十分考えられます。

つまり、笠利が
琉球の喜界島討伐軍の前線基地でもあった、
ということです。

 

 

実際、
「喜界島は毎年交戦するも…」と書かれた時代、1450年頃には
笠利に琉球人がおり、役人(笠利大屋子)もいたようです。

 

赤木名グスクは笠利の西側にありますが、
この喜界島をめぐる抗争においても
なんらかの軍事的要衝であったのでは…
とも考えられています。

 

 

そんな赤木名グスク。

石積み、郭、幾重もの堀切などがあるらしい。

事前にコピーしてきた縄張り図を片手に、
いざ、張りきって


登★城!!

 

 

 

登っていきます!

木々の間から集落が見えます。

 

 

…ん?

 

 

…んんっ!?

 

 

Oh…マジか…

 

……大して進まないうちに、
順路を完全にふさがれてしまいました…

 

こんなに荒れ放題だと
さすがにこれは無理だと判断……

 

というわけで、登城は泣く泣く断念しました…

 

 

中にも案内板とかあるみたいなんですけどね…
(例えばこちらのサイトをどうぞ)

 

草刈されてる時期もあるのかもしれないけど……
この草木の荒れ具合から判断するに
けっこう放置されていた感じ……

 

国の史跡でもあることだし、
いつ行っても大丈夫なように
こまめな整備を願うばかりです…(´;ω;`)

 

 

赤木名グスク遠景。

この連なっている嶺の中に
いくつもの堀切があるようです。

 

 

 

 

ところで、
話を「朝鮮王朝実録」に戻しますが、

笠利を前線基地として喜界島討伐軍を率いていたのは、
琉球の「王弟」とあります。

1450年頃は、尚金福の時代です。

尚金福の弟といえば…

 

王位を継いだ尚泰久か、

それとも
尚金福の死後、王位をめぐって甥の志魯と戦った布里か!?
(※志魯・布里の乱→  

 

王軍を率いるとなると、
威勢のいい布里のイメージだし、
その見方が強いですね。

 

でも、もし尚泰久だったとしたら…
「武人・尚泰久」というこれまでとは
ガラリと違ったイメージの尚泰久像が見えてきます。

 

布里か、
それとも尚泰久か
どちらか、

 

そして時を経て
喜界島を討った(→ 尚徳も、

 

もしかしたら
この赤木名グスクを訪れていたかもしれません。

 

 


『赤木名城跡をめぐる歴史的概観』(奄美市教育委員会/2015)
『辺留グスク発掘調査報告書概要』(笠利町教育委員会/2006)


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【描いてみた】琉球史人物、を、35【キラ男子】

2019年10月12日 | ・琉球史散策/第一尚氏

先週、
桜坂劇場×ボーダーインク特別講座
第1回目を担当させていただきました。

一方的なワタシのおしゃべりだけではなく、
参加者さんにも何か実際に体験してほしいなということで
一部、ワークショップを入れました。

 

歴史上の人物って
遠い昔の存在と言うこともあって
漠然とした、
雲の上の存在になりがち。

そんな漠然とした歴史上の人物を
雲の上から降ろして
自分と同じ「人間」として、
その人となりを考え(イメージし)
ゆくゆくはお友達になっちゃおう♪

というもの。

 

 

ワークショップの題材に選んだ人は…

 

尚忠。

 

ええ、

尚巴志の後をついで琉球王国の王様になった

あの尚忠です。

 

おそらく尚忠って
歴代の王様の中でもマイナーな存在です。

 

知ってても、

尚巴志の次の王様で、
任期5年で死んだんだよね?

くらい。

 

よーく知ってても

尚巴志が北山看守に命じて、
今帰仁王子と呼ばれた

くらいかと。

 

合計3行程度の経歴は知ってても
尚忠という人物の「人となり」を
とことん考えたことのある人は……

なかなかいないと思います。

 

 

そこで、今回は
イメージを深めていくための色んな手立てや
ヒントとなる周辺情報を提供しつつ、
尚忠という人物をみんなでとことん!
突き詰めて考えてみました。

もちろん正解はひとつではないので
参加者さんそれぞれのイメージや人物像で良いのですが、

シェアしてくださった人物像も参考にしつつ、
ワタシなりに考えた尚忠像を元に
講座の事後報告・まとめとして、イラスト化してみました!

 

 

キラキラバージョンで。

 

ビジュアル的な事で言うと、
やはり、尚巴志の息子と言うことで
眉とか髪型とか寄せています。

天下人の息子というおぼっちゃん感を出すために
前髪は外巻きで。

ビジュアルに特徴を出しすぎたくなかったので、
瞳は小さく、あっさりめの顔つき。

アヒル口がチャームポイント♡

 

寒がりなので虎の毛皮のポンチョを装着。

好物はタマン。

 

そして、

護佐丸とマブダチ。

 

↑クラスにいる仲のいい男子二人
をイメージして描いてみた☆

 

護佐丸は尚巴志には心酔してるけど、
尚忠とは上下関係なくフランクな友達
という感じ。
(尚忠が王様に即位してからは
公的には主従関係だけど、私的にはマブダチ続行)

 

なお、護佐丸の方がモテる。
尚忠はそれを羨ましがったり
「なーんでお前ばっかり~」とブーブー文句は言うものの
根に持ったりはしないという
気持ちのいい関係。

 

そして共に戦った武人として
切磋琢磨しあえる良きライバルでもある。

 

 

 

…というイメージを持つに至った
根拠というか、モトネタはもちろんあります。

が、
それは講座に参加いただいた方だけが分かる…
と言うことにしておきます。

今回は有料講座だったので、
敢えてポイントは伏せさせていただきます。


(でも、今回載せた情報だけで
ピンとくる人もいるかもしれませんね)


なお、ワークショップ内で
ボーダーインク新城さんが披露してくれた
「アノ設定」(!)があるのかどうかについては…

ご想像にお任せします(笑)


あ、謎ポイントに関しては「A」設定にしています。

 

 

*オマケ*

上のイラストの直後は…

こーなる。

(猫毛アレルギーの護佐丸くんなのであった)


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クーデターと七日浜

2019年08月24日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

沖縄本島の東側、
国道329号線を北上して、
金武町に入ってすぐの所にある
案内板とモニュメント。

『ようこそ 海外雄飛の里 金武町へ』

というのは、
移民の父、當山久三にちなんだもの。

 

このモニュメントの、

裏手に、

 

 

こんな石碑がひっそりと建っています。

 

その名も

『七日浜の碑』

 

 

當山久三からずーっとずーーーっと時代をさかのぼって、

時は1469年。

第二尚氏のクーデターにまつわる碑です。

 

逆光で読めませんね

 

というわけで、
画像加工、えいやっ!

 

 

七日浜の碑

尚徳王が革命によって 尚円王の時代になったので
その一族が国頭に逃げる途中 人目を避けるため
昼は山の中にひそみ 夜な夜な歩き 歩行困難の場所で七日かかったので
七日浜の由来と言われている。
風光明媚であり 長い砂浜の美しい海岸である

昭和五十八年十月二十五日 竣工

 

他の口伝では、尚徳自身が久高島で革命を知り、
隠れ逃げつつ7日目にここに着いた、
…というのも見かけたりもします。

で、そのまま「北」へ…。

というね。

 

 

第二尚氏のクーデターも、
尚徳の死の直後に起こったのか、
それとも、
生きていて久高島にいる間に起こったのか。

尚徳は
病死か、毒殺か、自殺か、逃亡先で息絶えたのか。

色々あって謎に包まれています。

 

 

その七日浜。

尚徳の一族、または尚徳自身が
息も絶え絶え踏みしめた浜…かもしれない。

 

小雨がぱらついたりとが天気が良くなく、
景色がくすんでいますが
七日浜から南(石川、勝連半島)方面の見た風景。


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リテイク・護佐丸(若)

2019年06月02日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

久々の更新となりました。

先週は、530。

そう、護佐丸の日でしたね。

もちろん忘れていたわけでなく、
ツイッターの方では話題をふったり
関連過去記事を紹介したりしておりました。

530に合わせてイラストも描き始めていたのですが、
その週は偏頭痛やら、予想外の仕事宿題やらが重なり
完成させることができないまま、
結局今日になってしました

 

ということで、
琉球戦国列伝リテイク版の護佐丸(若)です!

 

そして、実は今年は
中城村が「ごさまるの日」を制定して10周年ということで、
中城村のゆるきキャラ「ごさまる君」とも
共演させてみました♪


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尚徳王の系図

2019年04月10日 | ・琉球史散策/第一尚氏

前回記事にした『琉球のユウナ』3巻

そこに出てきた第一尚王統最後の王・尚徳王の次男(浦添王子)。

 

しかし、クーデターの関係で
尚徳王の系図、子どもたちとその後については
実はハッキリしていません。

長男(世子)がクーデターの際に殺害された
というのは共通しているのですが、
その弟たちについては、いくつかのパターンを散見するので
ちょっと掲載してみることにします。

 

 

尚徳の父、尚泰及関係の史跡が集中している
玉城村(現:南城市)の村史(2006年)より。

次男が鹿児島に逃亡、
となっているのが興味深い。

 

 

第一尚氏子孫の書いた
『系図は生きている』(當間荘平著/1990)より。

本文によると
古琉球三山由来記集373頁、
尚徳王の子孫系図記されているものとして紹介。

次男については、
一説には日本国へ逃げ去る云々
とありますね。

喜界島の女との間に生まれた子として3男が、

久高島の女(→ )との間のに生まれた子として
萬金子の記載があるのが興味深い。
(これは他で見る"黄金子"と同一人物なのか…??)

何男なのか不明なのもリアル。

 

 

先の『系図が生きている』より前になりますが、
同じ作者の『月代の神々』(1985)より。

長男に「志義」、4男に「黄金子」との名前が。

本文によると、
この世系図は、雍氏松茂良姓系図に記録されているが、
尚巴志王統由来記には尚徳王の子は男3人しか伝わっていない
4男黄金子は史書にも記録はない。
おそらく別腹であったのではないか。

…だそうです。

 

 

『琉球王国の真実』(伊敷賢/2013)より。

この本は民間伝承の本で、
掲載されている系図にはぶっ飛んだ(と感じる)ものも多いので
(他魯毎の妃は攀安知の妹で、その子供が金丸、とか
攀安知の妃は他魯毎の妹で、その子が阿麻和利の母とか→
その点、私は一歩引いて見てはいるのですが。

喜界島の娘との間の子は、2人となっていますね。
喜界島の尚徳王墓前の石碑には、3人の息子とあります)

 

 

『佐敷町の文化財Ⅳ 第一尚氏関連写真集』(佐敷町教育委員会/1996)より。

ただ見出しの第一尚氏世系図には(仮)の文字も。

最初に紹介した『玉城村史』とも合わせると
オフィシャル的には今のところ、
この形が1番無難、という所でしょうか?

 

 

これはドラマ版テンペストより。

黄金子に大明存留とあるのはドラマのフィクション設定。

そして、
時代考証を担当した上里さんのこの回↑のテンペスト解説記事によると、
朝鮮の『海東諸国紀』という史料に
尚徳の子供に、中和、於思、截渓という人物がいた
との記述があるとのこと。

おっ、これはユウナで出てきた名前ですね。

 

 

 

以上、見てきた中で
それぞれの息子たちの母(尚徳の妃、妻ら)の関係までは分からないけど
ユウナに乗ってる系図は
3男と4男はそれぞれ別の「妻」となっています。

元となった資料があると思いますが(ナンダロウ?)、
その「妻」が誰なのか…想像すると面白いですね。


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リテイク版・鄭義才

2019年04月07日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

『琉球戦国列伝』リテイク版、

3人目は、

 

鄭義才(ていぎさい)

 

 

【人物データ】

南山王他魯毎の使者として登場。
後に久米村ナンバー2の長史となり、
尚巴志の使者として明国へ渡り、
第一尚氏初期の対明外交を支えた。

子孫も通事や貿易船の船長として活躍し、
薩摩侵攻時の三司官・鄭迵(謝名親方)も、子孫の一人。

 

 

『琉球戦国列伝』では顔のみのサブキャラ扱いでしたが、
『三十六の鷹』に出てきたので全身の昇格リテイク。

武人じゃなくて文人だろうけど、
子孫の謝名親方のイメージも含めて、
護身術くらいは身につけてて
ある程度強そうなおっちゃん…をイメージ。

 

(本では、幼稚園の園長先生をイメージして描いてたので
リテイク版とはいえ、絵的にはかなり変わりました(笑))


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もうひとつの、尚徳王の墓

2019年04月05日 | ・琉球史散策/第一尚氏

第一尚氏最後の王、尚徳。

21歳で王位につき、
29歳の若さで急死。

その直後(または直前)に起こったクーデターとの関係で
毒殺されたとも、
自殺したとも言われています。

第一尚氏各王の遺骨は
元の天山陵から離散したとはいえ、
それぞれの場所で各王の墓として今に伝わっています。

→ 第一尚氏墓リスト

 

 

現在、識名に
「尚徳王陵墓跡」というものがあります↑

これは尚徳の養育役であった安謝名が
識名・上間地区の支配者であったため…
という由来だそうです。
(参/那覇市観光資源データベース

 

安謝名が尚徳の遺骨を持って逃げて、この地に安置した…
とか、そう説明は無いんだけど、どうなんだろう。
なぜここが尚徳王陵墓跡になっているのか
いまいち腑に落ちない気もします。

 

別説では
尚徳王の王子の守役の安座名大主が
クンダグスクから王妃や王子(世子)など
7体の遺体を運んできて葬った場所…
なのだとか。
参/『琉球王国の真実』(伊敷賢著)


どっちにせよ、
尚徳本人ではないよね…?

 

そもそも尚徳は病死・毒殺・自殺ではなく
実は生きていて逃亡したとの説もあり、
遺骨があったのかも謎なので、
この王陵もあくまで伝承の範囲。

まぁ、それはいいんですが、

この識名の陵墓跡については、石碑が折(ら?)れていて
いまだにそのまま…という因縁じみたものを感じて
これがまた奇妙なんですよねぇ…。

なんなんでしょうねぇ…。

 

 

さて、その死が謎なら、

その墓についても一筋縄ではいかず、

尚徳王の墓とされているものは
ここ以外にもあるのです。

 

そう、
舜天王統最後の王、
義本の墓が複数か所  に伝わっているように、

第一尚氏王統最後の王、
尚徳の墓が数か所に伝わっている。

そのこと自体、
穏やかではなかった王の最期や、
時代の空気を感じさせます。

 

+

 

今回は、色々ある中の一説をご紹介。 

 

クーデターが起きたとき、
北に逃げた尚徳は、そこで病死し、葬られます。

 

その場所は、奄美群島、

 

喜界島。

 

 

 

…に、行ってきました。

訪問に際して
喜界島に伝わる尚徳の墓の場所を調べましたが、
事前に分かったのが志戸桶という地域であることと、
実際のお墓の写真のみ。

 

……とりあえず、志戸桶に行ってみよう。

で、あとは地域の人に聞けばなんとかなるだろう…。

 

 

しかし、全然人と出くわさない。
これは難航するか、
はたまたたどり着けないことも覚悟しつつ、

島の外周である喜界島循環線を走らせていると、
墓地が。

 

現代の墓地なので、私はなんとも思わなかったのですが、
(私は尚徳の墓は他の王墓と同じように単独であるイメージがあった)
オツレサマがビビビッと来たらしく、Uターン。

 

墓地に入ってみると……

 

 

ん、ん、ん……!??

 

あの花ブロックは……!!

 

なんと迷うことなく、一発でビンゴ!

 

 

階段を登って、1番奥、1番高い所に
それはありました。

 

 

手前には由来の石碑。

 

要約すると、

 

尚徳は喜界島征伐をして帰る時、
当家(※孝野家)の娘・カミーを妻を連れて帰り、妻にした。
3名の子を授かったが、クーデターが起き、
妻(カミー)と長男は喜界島に逃げる途中、
船が転覆して、長男は死亡。
(カミーは一命をとりとめたが、辺士名ノロとなる)

前後して、次男と三男が、
そしてその後、尚徳も喜界島に到着した。

しかし、尚徳は疲労と病に倒れ、数か月後に亡くなった。

尚徳の遺言により、墓は首里を向いて建てられた

 

と。

 

 

 

カミーの実家(孝野家)には後継ぎがいなかったため、
尚徳王次男が養子になって、
子々孫々現在まで続き、

この石碑を建てた孝野武志氏は
その27代目にあたるのだとか。

 

尚徳の墓の手前には孝野家の墓があり、
27代目孝野武志氏も
数年前にお亡くなりになっていました。

 

 

合掌。

 

 

+ + +

 

 

う~む、妻(側室)の故郷とは言え、
自分が張り切って攻め落とした島に、
そして島人に相当恨まれているであろう、そんな場所に、
都を追われて、満身創痍で逃げてこれるもんかなぁ…?
(しかも肝心の、妻・カミ―は帰郷してないし…)

普通に考えたらちょっと厳しい気もするけど……

 

とはいえ、尚徳に限らず
古琉球のお墓は伝承によるもの、
物的確証がないモノがほとんど。

長い間、そう伝わり続けて
今、それとして存在していることには
なにかしらの意味があるのだと、
私は思います。

 

 

+

 

≪追記≫


ちなみに、
『月代の神々』(當真荘平著/1985)に
筆者が喜界島を訪れた際、孝野氏とのやり取りが記録されています。

以下、抜粋↓

骨壺の中の御骨は尚徳王のものであると決定するまでは
首里から漂流してきた偉い人の御骨だ、と
先祖から言い伝えられてきたという。

系図は木製の箱に納められていたが、製本されてなくバラバラになっている。
筆法は確かに、首里・那覇泊系の系譜と同じであるが
どこにも第一尚氏とのかかわりのある名前は探りだせなかった。

首里王府より下賜された辞令書や男物のかんざし、
女物のぢーふぁーも保存されている。

和紙に書かれた家譜には世系図は見当たらない。
辞令書や家譜にも王府の印は押されていない。
(※印入りの辞令書も存在している→

(筆者の同行者が)
「尚徳王の御骨であるという物的証拠もありますか」と質問すると、

「記録はないが、私が確信したのは、
お墓参りをして白紙に神酒をかけて、
尚徳王の御骨であれば赤く染まって下さい、
でなければ黒くなってくださいと合掌したところ、
赤く染まっていました」

「これが尚徳王の御骨であるという証拠で、
25年前に決定(=断定)しました」


……とのことです。

 

とりあえず真意はどうあれ、
そういう経緯があったらしい、
ということは一応書いておきます。

 

※ここは正式な文化財指定などはされていません。
ただ、『第一尚氏関連写真集』(佐敷町教育委員会/1996)には
孝野氏の話と共に掲載があります。

 

 

 

 

とりあえず、
喜界島の尚徳の墓(伝)、
実際に訪問することができてよかったです。

 

尚徳にも、もっと光が当たるといいな。


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リテイク版・三五郎尾

2019年03月25日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

『琉球戦国列伝』リテイク版、

2人目は、

 

三五郎尾(さんぐるみい)


…音の響きが面白いですよね(笑)

 

 

【人物データ】

南山王・承察度の甥。

1392年、明の南京国子監に留学、20年近く滞在した。

琉球の朝貢貿易の現地スタッフとしての役割も果たしていた。

帰国後の1410年には中山王・思紹の使者として登場。

 

 

琉球の対明貿易現地滞在スタッフ!

国子監留学生、ということで
きっと頭も良かったことでしょう。

 

今回のリテイク版では
生員(国子監合格者)用の服に衣替え。

国子監留学中…ということで
年齢設定も本よりも少し若めにしました。


なお、『三十六の鷹』では
他魯毎の側近として登場していました。


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リテイク版・早田六郎次郎

2019年03月13日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

『三十六の鷹』のレビュー

(続く)

と書きながら、
しばらく無関係な記事が続いておりましたが…

続きです。

 

『三十六の鷹』には
『琉球戦国列伝』で描いたマイナー系キャラも結構出てきていて
本を読んだことで、彼らを改めて描きたくなったのです♪

 

一人目が

倭寇の早田六郎次郎!
(ワタシは彼を昔から早田さんと呼んでいる)

三十六の鷹では小次郎、
早田左衛門の「弟」となっていますが、
戦国列伝では早田左衛門の「子」。

別人?それとも小説のアレンジ?とも思いましたが
朝鮮に行くくだりもあるので
やはり小次郎=六郎次郎なのだろう、と。

戦国列伝(史料による記述)で見る早田さんは
かなり姑息なTHE倭寇という印象なのですが、

小説では男気あふれる海の男って感じで
悪党な感じはなかったです。

 

三十六の鷹バージョンの彼に
描き替えてみようかとも思いましたが、
戦国列伝のリテイクバージョンと言うことで
史料で見る姑息な印象はそのままに
今のワタシのタッチにしてみました。


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斧型矢じり

2019年03月10日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

琉球の「弓キャラ」と言えば、
その人物エピソードから

尚徳と
奄美の糠中城。

 

『琉球戦国列伝』(↑)
『琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑』(↓)でも、
もちろん弓と一緒に描いています。

 

琉球の弓は大型で、
地面に立てて安定させて射ていたということと、

また、その矢(矢じり)は斧型が多かった、

というのは知っており、
特に斧型矢じりは特にこだわりを持って描いていました。

(※『琉球戦国列伝』では掲載サイズのバランス上、
弓はやむなく小さくしてあります)

 

斧型矢じりは、普通に尖がった矢じりよりも威力があり、
刺さると抜きにくく(抜いたら更に傷口が広がる)
殺傷能力が高い武器。

 

 

以前、韓国の歴史映画『神弓』を見ました。

 

映画『神弓-KAMIYUMI-』予告編

 

1636年、丙子の乱を描いた
清VS朝鮮の物語。

タイトルにもあるように、
主人公は弓の使い手。

弓のシーンが多く出てきます。

 

 

斧型矢じりだ!!

 

 

…って、

あれっ!?

 

 

……はい、

ワタシ、なんとなく

斧型矢じりは横になるように

構えるもんだと思い込んでいました…。

根拠はなく、ホントになんとなく。

 

でも
尚徳イラストでは矢じりが縦になるように描いてますね。

そのほうが矢の形がはっきり見えるから、と、
これまた単純に何の考えもなく描いてただけです…
(かつての自分の意識のなさに喝!!)

矢の構造をなーんにも考えてなかったという証拠に
矢を弦にひっかける部分〈矢筈〉の向きが
おかしなことに…。
尚徳の弓矢単独データ↓)

 

 

この矢筈で弦にひっかけたら、
矢じりは横になるのに
矢じりは縦になっているという作画矛盾…。
(本来なら矢筈は横に倒して描かれているべき)

 

実際のイラストは
尚徳の手に隠れて矢筈は完全に見えなくなってるので

「ばれないか!☆」

と一瞬思いましたが、

ばっちりキラキラ糠中城の持ってる矢でも
全く同じことをしちゃってるので…


ここに白状してお詫び申し上げます

 

 

ところで映画「神弓」での斧型矢じりは
だいぶ大きく見えました。

ワタシの糠中城では割と華奢というか、
細長めに描いていますが、
それは私が実際にグスクから発掘された
斧型矢じりを見た時の印象に基づいています。
(尚徳を描いた時はまだ実物は見てない)

琉球では、もしくは時代によって
多少の変化はあったのかも?


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尚巴志様は猫がお好き

2019年02月28日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

2/22の猫の日に、
ツイッターに載せたもの。

せっかくなので、ブログにも。

 

 

猫を見かけたら

とりあえず

「ねこー」

と言って近寄る

尚巴志の図。

 

 

猫好きあるある、ですよね?

 

 

うちの尚巴志様(キラキラver)は
猫がお好き。

その由来はコチラから。


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喜界島、対首里軍との本陣

2019年01月27日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

【描いてみた】琉球史人物、を、33【キラ男子】
喜界島のキャラクター、勘樽金に関連して。 

 

喜界島・港(わん)にある
「御殿の鼻」という史跡です。

金毘羅神社とも。

 


目の前は、港(みなと)。

海が広がっています。

 

 

1466年、

尚徳王率いる首里軍が
ここから攻め入ってきました。

喜界島のリーダーであった長嘉や勘樽金は
ここで首里軍を迎え撃ち、


いったんは首里軍を跳ね返します。

 

その戦いの本陣であった場所。

 

 

ここには勘樽金の名前はありません。

(長嘉も是非キャラ化したいですね)

 


↑クリックで拡大

 

こちらが首里軍が計略を用いて
再上陸を計った荒木の港。

湾(わん)から南西に位置しています。

 

勘樽金は荒木村の人だったので、
もしかしたら勘樽金は長嘉とは別に、
ここで首里軍と戦ったのかもしれません。

 

(首里軍の再上陸は荒木ではなく別の場所、だとか
島の背後を突いたのはおとり部隊で
首里の主力部隊はやはり湾から攻め入ったという伝承もあり)

 

参/
「琉球王女 百十踏揚」(与並岳生著)
「真説 阿麻和利考」(高宮城宏著)

「琉球王国の真実」(伊敷賢著)

 

 

戻って、
御殿の鼻の中。

床板が傷んで波打ち
祠が傾いている……
(ゴミも……)

 

う~ん

 

沖縄の御嶽とかもそうだけど、
たとえ建物が古くても
その場所はこぎれいに保ちたいものですね。

 

 

+ + +

 

 

さて、

地図で見たら空港のすぐ隣だからと
一旦レンタカーを返し、

出発までの待ち時間に
徒歩で向かった御殿の鼻。

意外と距離があって時間が心配になり
途中で行くのを諦めかけました…

が、

やっぱり諦めきれず、
ちょうどやってきたタクシーを反射的に捕まえて(笑)
速攻で往復したのもいい思い出(^^;)


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