がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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【描いてみた】琉球史人物、を、33【キラ男子】

2019年01月21日 | ・琉球史散策/第一尚氏

薩摩侵攻以前の古琉球まで、
奄美群島は琉球の支配下、琉球の一部にありました。

そのことから
古琉球期をテーマにした
「琉球戦国キャラクター図鑑」では
奄美大島のリーダー・糠中城も収録しました。

 

今回はその奄美群島関連から、
2人目のキラキラキャラということで
この方を!

 

奄美大島のお隣は
喜界島のリーダー、

 

勘樽金(かんたるがね)

イメージ台詞
「首里め…!また性懲りもなく来やがって!」

 

 

尚徳が喜界島を攻めたとき、
迎え撃った喜界軍のリーダーです。

あの尚徳率いる首里王府軍も
その攻防になかなか上陸することができず、
苛立って無理やり突撃するも、
ただ死者を増やすばかりという無様なありさま。

首里は尚徳以前もたびたび喜界島を攻めていましたが
そのたびに頓挫。

地の利もあり、
喜界軍がとにかく強かったことが伺えます。

 

…が、首里軍はもやの濃い日を待ち、
小舟にたくさんの松明を持たせて島の裏に回させ、
喜界軍をおびき寄せた隙に
一気に上陸して攻め落とします。

 

うむ。
勘樽金のキャラクターとしても
戦の成り行きも、
八重山のオヤケアカハチとかぶりますね。

もし喜界島で現代版組踊ができるなら
主人公はきっと彼♡

(ただ勘樽金はここで殺されてはおらず、
首里に連行されて忠誠を誓わされたのち、
島に帰っているようです)

 

 

 

さて、勘樽金という人物が興味深いのは
もう一つ理由が。

 

喜界島旧家・泉家の家譜によると、
勘樽金は、

喜界島群主、勝連親方の子ども

だというのです。

 

勝 連 !!

 

"勝連親方"なる人物が
いつの時代の誰なのか分かってはいませんが、

 

"勝連親方は喜界島群主の任期が終わると
国に帰り、按司になった"

ともあることから、
若き頃の阿麻和利では、と
想像している人もいます。

 

まぁ、阿麻和利ではないにしても
勝連の有力者が喜界島に来ていたことは
勝連は喜界島を行き来していたおもろもあることから
十分に予想できます。

 

阿麻和利の子どもだとしたら…
これはこれで新しいストリーが描けそうで面白い♡

(なので絵的には阿麻和利の子を意識して
ゲジ眉+くせっ毛ポニテにしてみた☆)

 

伊平屋の田名グスクと阿麻和利の記事でも書きましたが、

伊是名・伊平屋、奄美群島など
北の島々で活躍する
勝連・阿麻和利の物語

というのものも見てみたいものです。

 

 

参/
「琉球王女 百十踏揚」(与並岳生著)
「真説 阿麻和利考」(高宮城宏著)

「琉球王国の真実」(伊敷賢著)


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王様の行列

2018年12月08日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

琉球の時代、

「王様の行列」と聞いて
思い浮かべるのはどのような光景でしょうか。

 

↑江戸上り(江戸立)の絵図だったり、
(※これは王様の名代ですが)

↓首里城祭で国際通りで披露される
絵巻行列の光景だったりするかもしれません。
(写真は’09のもの)

 

 

路次楽を奏で、
華やかながらも粛々と進む王様の行列。

 

でも、それはどちらも近世の琉球。

 

 

 

では、古琉球の行列はどんな雰囲気だったのでしょう。

15世紀、
漂流して琉球に一時滞在していた朝鮮人と、
朝鮮に渡った琉球の使者から
当時の琉球について聞き取り記録されたものが
「朝鮮王朝実録」にあります。

 

その中にある、

王様の行列の記述をピックアップ。

 

 

(意訳:和々)

 

国王が外出する時は
護衛の軍士約300名余りが付き従い
皆、甲冑をつけ馬に乗っている。

兵は弓矢や槍、剣、
または鉤のような形の物を持っている。

前後、列をまじえて行く。

国王は轎(輿)、
または馬に乗る。

護衛の軍士は歌を歌う。

その曲風は農歌(農民の歌う俗謡)のようである。

 

『朝鮮王朝実録 琉球史料集成』(榕樹書林/2005)

 

 

300名の武装した軍兵が
みんなで歌を歌いながら行進。

しかも、それは農歌のような歌だったと。

 

 

…え?

ピクニック!?

 

 

物々しい、いかめしい様子ではなく、

なんだかすごくほのぼのした行列を想像したのは私だけ!?

 

だって、農歌のようってことは
農作業しながら歌うようなすごく素朴な、
そういう日常的で、童謡的で、誰でも歌えるような、
単純な歌なんじゃないかな?

 

個人的なイメージ言えば、
「もののけ姫」に出てくる、
たたら場の女たちが作業しながら歌ってた
あの歌(タタラうた)のような雰囲気?

こんな曲↓
参考までに、カバーして歌ってる方の動画を。

 

おっ、こんなのもあった。
中国?台湾?の耕農歌。
こんな雰囲気の歌だったかも?

 

 

この行列の記述は1461年のこと。

 

ということは、
その王様とは尚徳ということになります。

暴君として名高い尚徳。

物々しい軍歌とかで威圧的な行進とかなら
暴君尚徳のイメージそのものだけど…

 

農歌(のような曲)を合唱しながら進む尚徳王の行列…

 

 

やっぱり、

 

めっちゃかわいい!!(笑)

  

 

この行列のスタイルはもしかしたら、
尚徳の前代、尚泰久の時も
同じだったかもしれない。

となると、大城賢雄が王軍のリーダーとして
その行列の(いや、合唱の!?(笑))指揮をとっていたかも…!?

 

 

王様は首里城と、旧城(島添大里グスクと考えられている)を
時々行き来し、2・3日、あるいは4・5日滞在することもあったそう。

 

その城を行き来する時の行列の記述。

 

アゲイン。

 

 

国王が外出する時は
護衛の軍士約300名余りが付き従い
皆、甲冑をつけ馬に乗っている。

兵は弓矢や槍、剣、
または鉤のような形の物を持っている。

前後、列をまじえて行く。

国王は轎(輿)、
または馬に乗る。

護衛の軍士は歌を歌う。

その曲風は農歌のようである。

 

 

 うーーーむ、のどかだ…。


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安里大親のおうち跡、馬鞭の御嶽

2018年05月27日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

那覇市にある崇元寺(跡)。

ここには代々の王様の位牌が祀られており
冊封使が来琉した時は
まずここで先王の葬儀(諭祭)を行ったという
由緒ただしい寺院、国廟でした。

現在は石門のみが残されています。

 

その崇元寺が建てられたのははっきりとはわかっていませんが
第二尚氏になってから、1500年代(1527年頃)とされているようです。

 

さて、

今回はその崇元寺ができる前の話。

以前にも記事にしたことがあるのですが、
もともとここは
霊験あらたかな場所だったようで

あの安里大親(清信)がお告げをうけて
ここに家を建て、悠々自適な生活をしていた

…という場所でもあります。

 

 

(一部再掲載↓)

 

 

ある日、清信が安里橋の東側を通り過ぎようとすると、
白髪の老人に出会った。

一礼すると、老人もそれにこたえ、
自分の家へと招いた。

それは林の中にあり
それはそれは素晴らしい建物で
まるで蓬莱島のようであった。

そこには二人の老人が碁をし、
子どもが茶を沸かしていた。

清信は不思議に思って
礼を言ってそこを去る時
印として馬の鞭を置いて行った。


翌日、再びそこに行ってみると
何もなく、誰もいなかった。

ただ、林の中に鞭が置かれているだけなのだ。

清信はただただ神秘を感じ
そこを去った。


後日、月の美しい夜にそこを通ると
またあの老人に出会った。

そして別れる時、
老人は清信に金塊を与えて言った。

「あなたとは不思議な縁がある。
ここを開拓して家を建てなさい」

老人はそういう言い残すと
風のように消え去った。

 

清信がその土地を改めて見てみると
とても良い場所であったので
家を建て、竹の垣根を作った。

そして悠々自適の生活を送った。

 

 

その名残がこちら。

崇元寺公園のすぐそばにある、
その名も

馬鞭の御嶽
(または崇元寺御嶽)

 

そうです。
安里大親が不審に思って
目印に馬の鞭を置いていったという話に
由来する御嶽です。

つまりはここに安里大親が住んでいて
金丸にアプローチをし(そしてドン引きさせ)、
足首にある金のアザを見たという、

その場所ということになるのです。

 

参『門中拝所巡りの手引き』(月刊沖縄社/1986)

 

 

ところで、
拝みをしてる人と遭遇することはよくあるのですが
この時は男性の方々が拝みをしていて
(拝みセットを携えた本格的なやつ)
それは珍しいな、と思いました。

安里大親=男性の霊能者
という所縁もあってのことだったりして…?


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望月按司は●だった!?

2018年02月26日 | ・琉球史散策/第一尚氏

そのうち書こう書こうとおもいつつ

何年もたってしまったあの話を、
今日は書こうと思います。

出典はこちら。

 

琉球の裏面史』
(石川文一著/琉球文庫(S49))



この本は9つの伝承(歴史)と
それに対する筆者の推測・考えがまとめらているのですが
そのうちの一つ、

〝第8話 望月按司、阿麻和利に討たる〟
より。

 

ご存知、
阿麻和利に討たれた。
酒におぼれて政治を怠っていたという
あの望月(茂知附)按司です。

 

 

この望月按司の実像に迫るというもの。

 

 

 

 


結論を先に言うと、

 

 

 

 

 

 

望月按司は女だった(!!)

 

 

 

ということ。

 

 

はぁっ!?

 

 

と思わず声を発した皆さん、
私と同じです(笑)

 

 

では、なぜ著者が望月女説を確信するに至ったかを
簡単に追ってみることにします。

 

まず、
按司と言う名称は
何も男性限定のものではなく、
身分の高い特別な女性にも
つけられている、ということ。

百十踏揚も
百十踏揚按司加那志
と書かれているように。




百十踏揚の墓標

 

ふみあがり(踏揚)もそうだけど、
身分の高い(王妃、王女、夫人など)特別な女性には
三十三君(高級神女)としての名称がつけられており
(※三十三君の名を持つ者が全て王族という意味ではない)
それには名前の後には「按司」がつくとのこと。

 

なお、王族の三十三君の場合、基本的に
尚真代に確立された聞得大君を頂点とする
ピラミッド型の神女体形に組み込まれた

祭祀をつかさどる実質的な神女というよりは
それとは別枠の、名誉職名みたいなものかなとワタシは思っています。



(『絵で解る琉球王国歴史と人物』/JCC出版部 より拝借)



「ふみあがり」や「もちづき」はその三十三君にもある名前です。

よって、
踏揚が踏揚按司と称されて存在したように、
望月按司と称されている存在も当然おり、
実際、
浦添王子朝里の次女と、
羽地王子朝武の娘(池城親方安頼の奥方となる)は
望月按司として『女官御双紙』に記録されているそうな。

 


首里、琉染にある三十三君の名前の額 もちつき や ふみあがり が確認できる。他に あふりやゑ(アオリヤエ)なども。

 

また、
男性に使う「按司」の場合も、
領地名+按司と言う風に使うのが常だが
(勝連按司、今帰仁按司、中城按司etc…)
「望月」という地名はない、と。

 

だから、「望月按司」というのは
神名である「望月」に、敬称としての「按司」がついたものであり
それはつまり女性であることに他ならない

と。

 

 

さらに、続きます。


勝連のオモロには
「もちつき」を謳ったものがいくつかあり、

 

あかる もちつきや

きみの もちつきや


で始まるオモロ(巻十六の六)には
もちつきや のところに


原註 かつれんのあまわり おなちやらを申なり

とあるらしい…!!

 

おなちゃら=オナヂャラ(ウナジャラ)=女按司・妃


つまり、


望月は阿麻和利の妻(女)だった!!

 

なにぃっ!?Σ( ̄□ ̄|||)

 

 

ただ、私はこれはもしかしたらあると思っていて。
(望月按司=女というのはひとまず置いといくとして)


というのは、
阿麻和利と、倒された望月按司は
お互いにまったく面識がなかったわけではなく
阿麻和利は元々望月按司に仕えていた(奉公していた)というのは
ちょいちょい見かけるんです。

ほんで、そのうち望月の娘と結婚し、
望月の婿養子に入った…っていうのは
小説『百十踏揚』の設定だけど
それに近い伝承だったかなんだったか、
ちょっとハッキリはしませんが、どこかで読んだような。

 

だから、
望月(一家)と阿麻和利が、かつて、
なんらかの密な関係を結んでいたのは
あり得るかな、と。

そして、
「望月按司(一家)」は
阿麻和利らに倒されてしまい、

その後、新たに妻に迎えたのが、
あの百十踏揚、と考えれば、

(もちつき が)
かつれんのあまわり おなちやらを申なり

というのもアリエナイ話ではないかな、と。

 

 

従来通り、望月按司は男性だという立場に立って
これらのことを総合して私なりに考えてみると

とりあえず、

おもろを見ると、
もちつき という名前の身分の高い神女が
勝連にいたことは確かだと思えます。

そしてその神女は、若き阿麻和利と関係があった。
(→かつれんのあまわり おなちやらを申なり
彼女の父親は勝連城主で、
神事をつかさどるものとして影響力を持ち、
おもろにも歌われている娘の「もちつき」と言う神名を
美称として自らにも「望月(の父)」として使った(記録された)
っていうのはどうかな?

(父が娘の名を借りて威を誇るってのは無理があるかな?(^^;))

そしてなんやかんやの理由があって、
彼女(もちつき)と、父(勝連城主望月)は
阿麻和利らによって討たれれる、と…。

 

 

 

 

ともあれ、
著者はこの
かつれんのあまわり おなちやらを申なり
という原註記述は誤りでは?と棚上げして、
(その理由は割愛)

女性「望月按司」は
先の勝連城主・浜川按司の奥方だったであろう
と推理しています。

 

 
勝連グスク内の案内版

 

そして、彼女は
夫である勝連城主・浜川按司が早くに死んだので、
彼に代わって政治も行うようになった…

(跡を継ぐ子(=3代目浜川按司)がいたが、
まだ幼少だったため代わって母である彼女「望月按司」が政治を行った、とも)

 しかし酒におぼれ政治を怠り、
阿麻和利らに討たれることとなる…。

 

 

 

 

さて、長々と望月按司女説をご紹介してきましたが

 

あなたはこの説、

 

あり?

 

それとも

 

なし?


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渓隠と芥隠

2018年02月03日 | ・琉球史散策/第一尚氏

琉球は仏教国だった!
というのは過去にも何度か書いておりますが、

その中でも特に存在感を放っていたお坊さん
というのは限られています。

古琉球期で言えば、

 

禅鑑(ぜんかん)

渓隠(けいいん)

芥隠(かいいん)

日秀上人(にっしゅうしょうにん)

袋中上人(たいちゅうしょうにん)


の5人かなーと思いますが、
いかがでしょうか。

 

中でも
渓隠と芥隠は特にワタシが贔屓にしている
第一尚氏~第二尚氏初期にかけてのお坊さん
ということで関心もひとしお。


琉球戦国列伝をはじめ
ちょいちょい絵にも描いているしね。

 

 

でも、

実は、

白状しますと…

 

渓隠と芥隠、
未だにどっちがどっちだったか
ごっちゃになっていて

えーと、円覚寺の人は…芥隠?…あれ、渓隠だっけ?

となることが多々ありました(汗)

 

 

だってほら、

名前、似てるし。

時代、被ってるし…。

 

しかし!
琉球歴女としていつまでたってもこれじゃいかんだろ!

ということで、

最近、琉球の寺社に興味を持っていることもあり
この機会にしっかり整理しようということで。

 

知識の整理は図にしてみるのが吉!

 

えいやっ!!

 

参/「琉球戦国列伝」(上里隆史著)・「琉球仏教史の研究」(知名定寛著)

 

二人の生年は不明ですが、
おそらく歳は渓隠が上で、芥隠が下です。
芥隠のほうが後まで生きていただろうということで。

来琉はほぼ同時期か、それとも渓隠が少し先か…って感じ。



イラストは琉球戦国列伝に合わせました。

絵のそばに描いたのは関連アイテム。

渓隠は鐘で、
芥隠は円覚寺つながりのクリス。

 

ところで、
芥隠には
“虎のような鋭いまなざし、牛のようなゆったりとしたたたずまい”
という
見た目に関する言葉が残っていますが
それは徳の高さを表す決まり文句のようなもので
実際の見た目を書いたものではないそうです。

琉球戦国列伝で渓隠と芥隠を描いた時、
実は絵を描いた後でこの文章を知って
↑のイラストを見てお分かりの通り、
渓隠のほうが目つき鋭くて、
芥隠はおっとり系だったので
そのままイラストを逆にしようともしたのですが、

相談の結果、
ここは敢えてそのままで

ということになった制作裏話。

 

(でも今もう一度この二人を描けって言われたら
琉球戦国列伝の時とは全く違うタイプで描くかなーと思います)

 

 

最後に、天界寺について。

 

尚泰久が建てた当時の最大級の寺院天界寺。

第二尚氏になって円覚寺が建てられるまでは
天界寺が琉球で一番大きなお寺でした。

が、現在は残っていません。

玉陵から首里城公園首里杜館にかけてのエリアにあったようです。


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阿麻和利=英雄?逆臣?それとも…

2018年01月15日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

阿麻和利はヒーロー?
それともヴィラン(悪役)?

それとも……

 

ツイッターで周ってきた情報。
(画像クリックで詳細ページにジャンプ)

 

史劇『護佐丸と阿麻和利』

 

護佐丸・阿麻和利の乱を題材にした
沖縄芝居(うちなーしばい)ですね。

あらすじを読む限り、
正史通りの(逆臣)阿麻和利のようです。

でも、チラシ写真を見ると
伝統組踊『二童敵討』の(悪役)阿麻和利よりも
悪人面でもないし、キリっと普通にカッコイイ感じなので
もしかしたら単純な悪役描写でもなかったりして???

 

ってゆーか、
逆臣、逆賊、悪人、悪役、
微妙にニュアンス違うと思うから
言葉の選択難しいですね…。
でもまあ、言いたいことは伝わりますよね?(^^;)

 

 

そして、公演日の2月24日・25日は、

奇しくも…

 


(画像クリックで詳細ページにジャンプ)

 

現代版組踊『肝高の阿麻和利』卒業公演!

 

こちらはもう、言わずと知れた
英雄・阿麻和利。

 

逆臣・阿麻和利と、英雄・阿麻和利。

 

以前、同じような対比で
伝統組踊と現代版組踊での同時公演がありましたが
今回はウチナー芝居と現代版組踊。

さて、
あなたはどちらの阿麻和利がお好み?

 

個人的なオススメは両方観劇!

さあ、どっちを先に見る??(笑)

 

 

+ + +

 

 

でも、実は最近の私は
絵にかいたような英雄・阿麻和利でもなく、
絵にかいたような逆臣・阿麻和利でもなく、
これら両方の要素を兼ね備えた阿麻和利像を欲しています。


100%の善人も
100%の悪人も
いないもの。

人はだれしも両方の要素を持っているものだし、
英雄像がある反面、そうじゃない面もあるものだから。
見る側(評価する側)によって人物像が変わるのは当然です。

 

 

阿麻和利については、

民に称えられた英雄像っていうのも
もちろんあると思うんだけど、
彼は全て首里に嵌められただけの、
悲劇の英雄ってだけなのも…
道徳的すぎてちょっと物足りないと感じる、今の私。
(昔は英雄阿麻和利ひゃっはー!だったのですが)

ちょっと美化というか、
作られすぎた感もなきにしもあらずかな、と。

 

2000年以降、
肝高の阿麻和利をはじめとする
阿麻和利主人公の創作物がたくさんできて、
ものすごく知名度があがって人気になって、
英雄のイメージのほうがメジャーになった故、

ってのもあるかもしれない。

(2000年以前の創作物にも英雄阿麻和利像を描いたものはあるけど
やはり一般への浸透度や知名度はまだまだだったわけで…)

かつては
阿麻和利=逆臣
というイメージが、

今は確実に
阿麻和利=逆臣<英雄
になってってる気がする。
(特に若い世代。むしろ逆臣像を知らなかったりね)

 

でもあまりにも
阿麻和利=英雄(善人)一辺倒
な風潮になってくると
ちょっと、う~ん……

 

…ってね(笑)

 

昔ながらの伝統組踊や
ウチナー芝居では既にそれ(逆臣像)はあるので
願わくば、
今の劇や小説でそんなエッセンスのちょこっと入った
阿麻和利が出てこないかなーと。

 

だから、このポスター見た時は
「おッ!
ってなったのよ。
この阿麻和利出陣祭を題材にした映画もできるようで…

 

過去記事で描いた逆臣・阿麻和利イラストのリテイク版。
これ(正史)はこれで、悪役に偏りすぎ(笑)


 

例えば、
坂本龍馬もその絶大な人気ゆえに、
最近はその定着している英雄キャラとは違った
影というか、裏というか、狡猾というか、
そういうこれまでの彼のイメージを覆すような
人物像にアプローチしたものが増えたりしてますよね。

 

阿麻和利もそんな感じで
(勝連から見たら)民衆の味方で、
英雄と称えられていながらも、
野望(夢ともいう)は持っていたり、
戦力(繁栄・勢力ともいう)増強に努めたり、
場合によっては自ら攻めることも辞さないというような
(首里側から見たら)本当に脅威に思えるような面があって、
(行動力があるともいう)

ちょっと大胆不敵と言うか、
男気、武将魂、叩き上げてきた主体的な強さというか、
ちょっとピリッ、っとするような部分を兼ね備えた
人物像が出てきてもいいんじゃないかな?
と思っています。

(それでいて百十踏揚とはラブラブだとしたら…
ほら、そうだとちょっと面白くなりそうでしょ?)

 

 

ただ首里に騙されて使われて滅ぼされたってだけじゃ
ちょっと主体性に欠けるというか
優しすぎるというか、
まあ、優等生すぎるもんね…。

 

誤解のないように書くと、
肝高の阿麻和利の阿麻和利をディスってるわけじゃないです。
(ワタシの原点なのですから!)

肝高の阿麻和利の阿麻和利はそれでいいんです。

きっとこれが今の英雄・阿麻和利像のベース
になっていると言っても過言ではないと思うので。

肝高の阿麻和利はこれからも
理想的な英雄・阿麻和利を突っ走ってほしいです。

 

それがあるからこそ、
また違った阿麻和利像が楽しめるのですから。

 

 

ようは何が言いたいかというと、

しょっちゅう言ってることですが、

 

阿麻和利像は1つじゃない!

色々な阿麻和利像があっていい!

それぞれで考えて、調べて、想像して、
最終的にはあなたなりの阿麻和利像を作ればいい!

 

ですね。

 

だから、


阿麻和利は英雄なの!逆臣像なんて絶対認めない!

とか

阿麻和利は逆臣だ!英雄像はねつ造だ!

ではなく、

色んな人物像も、
どんな人物像も、
まずは受け止めて、
多面的に捉えて考えてみて、
その上で、自分なりの阿麻和利像を描けばいい。

 

それが歴史を楽しむことだと
私は思うのです☆


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那覇の琉球古道、長虹提

2018年01月14日 | ・琉球史散策/第一尚氏

ゆいレール美栄橋駅周辺の
長虹提ウォッチをしてきました!

 

長虹提とは、
尚金福王(尚泰久の一代前)の時代、
当時浮島だった那覇をつなぐために作られた
人工の海中道路(堤)。

懐機がその監督にあたったとされています。

時代を経て、那覇周辺は埋め立てられ
今は完全に陸地となって
那覇が島だったなんて微塵も感じられないのですが、
長虹提の形跡は今も一部道として残っています。

 


↑クリックで拡大します

 

長虹提を現在の地図に落とし込んだもの。

画面中央にある
ゆいレール美栄橋駅がポイント。

今までも長虹提歩きはしていたのですが
夜だったりしたこともあって
ちゃんと写真で残して記事にしたことはないので、

今回はジュンク堂周辺の「長虹提なう」をご紹介。
(↓赤が濃い部分)

 

 

まず、美栄橋駅前の、三角形になっている広場を
道向かいから撮ったの図。

(逆光ということもあり写真写りがイマイチでゴメンナサイ(´-ω-`;))

ここには美栄橋周辺の史跡案内や
新修美栄橋碑なども建っています。

 

 

長虹提は、こう。

 

 

なお、ここはブラタモリ(那覇編)でも紹介されていて
不自然な段差にタモリさんが興奮していました(笑)

 

(「step br step」のお店の看板、今は黒地に白文字ですが、この時は黄色だったんですね)


 

当時の再現図を写真に重ねると…

 

 

こう。

 


道を渡って、
ジュンク堂側の歩道から
美栄橋に向かう視点だと、

 

 

こう。

 

(★印がさっきの写真を撮った場所です)

長虹提はまっすぐではなく、
大通りを渡って少しカーブして

 

こう。

 

さらにパノラマで。

 

 

(※パノラマで撮っているのですごく曲がっていますが
本来はここまでのカーブではありません。地図参照)

 

こうやって、道は右へと続いていき、
崇元寺に出ます。

その道は今回は割愛。

 

都会の真ん中の、琉球古道。

当時の姿に想いを馳せ、
歩いてみるのもいいですよ。


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モモトの日’18

2018年01月10日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

今日は1月10日、

110(百十)でモモトの日!

 

…と勝手に任命して
ちょいちょいイラストを描いたり
呟いたりしてきました。

 

今年は過去記事ツイートや
呼びかけくらいしかできないかなー?
と思ってたけど、

以前から描いてみたかった百十踏揚が
簡単にではありますが描けたのでUPします。

 

以前、キラキラ化企画で百十踏揚を描いたときに
どのような百十踏揚像で描くか…
という案のひとつに挙げていたものに

無邪気なお姫様系(子供)

がありました。

 

そのイメージのヒントになったのが
画像内にも入れたおもろ。

 

太郎もい は、具志川城主の名前
とくらしや は、誇らしや
ちゃくるわし は、ずっと打ち続けている様子
あす は、遊ぶ

 

このおもろは「具志川市誌(1970年)」によると
二通りの解釈があり、
ひとつは
阿麻和利と一緒に具志川グスクを訪れた百十踏揚が、
阿麻和利のそばから離れて輿に乗り鼓を打って戯れる様子、

もうひとつは
具志川城主が勝連グスクを訪れた時、
百十踏揚が鼓を打ち続けて歓迎している様子、

だそうです。

 


参/「真説 阿麻和利考」(高宮城宏著)

 

 

どちらの解釈だとしても
無邪気でかわいらしい百十踏揚像が浮かびます。

 

そんな百十踏揚を描いてみました☆


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女好き阿麻和利、その理由は…

2017年09月24日 | ・琉球史散策/第一尚氏

ちょっと前まで、
子どもたちに琉球史を親しんでもらうための
授業プログラムアドバイザーをしていました。

その関係で、先日授業の様子を参観してきました。
(ついでに歴史おもしろプチ講話もちょっとだけ)

 

毎度おなじみ、
琉球戦国時代~三山統一~護佐丸・阿麻和利の乱
までにスポットを当てて何時間か学んだあと、
最終的には自分が気に入った人物を掘り下げ、
グループでそれぞれ思い描いた人物たちで
歴史のワンシーンの会話を作ってみる、というもの。

 

その人物について調べたり読んだり考えたりして
自分なりにその人物像を描いてみる。

 

そう、ワタシが何度も言ってきた
琉球史の楽しみ方の一つです。

 


初めて琉球史に触れる子が多かった今回の場合、
知っている情報や知識量に限度があるため、
どれだけできるかなーと思ってはいましたが、
あまり知らない分、
思いもよらなかった発想が出てきたりして
それはそれで面白い。

 

例えば、

阿麻和利は女好き!

とか。

なんで?と聞くと、
女装された人(賢雄)に殺されたから。
(女好きゆえに油断が生まれたのでは)
だって。

 

この場合はそれが合ってる合ってないは重要ではなく、
こうやって歴史的な出来事や材料を元に、
自分なりに考えて理由が言えるのなら十分にOK!100点!

 

ほかにも、

 

尚泰久、金丸が明日の護佐丸攻めの準備で緊張状態にある中
「お腹減ったなー。グルクンのから揚げ食べたい」
とぼやく阿麻和とか(笑)
(漁師エピソードが元ネタ)

 

 

性格はもちろん、見た目や年齢、
喋り方、好きな事、嫌いな事、将来の夢(考えていること)など
自分なりに考えて細かに設定していくという作業を通して
歴史上の人物を身近に感じてもらえたら嬉しいな。


(授業者の先生が作ったワークシートの一部)

 

もっと年齢が上(高校生とか)だったら、
集めた情報を元にディスカッションして
あーでもない、こーでもないってさせてみたい。
そしたら今度は自由さだけでなく、
信憑性と深さとリアリティが生まれてくるだろうな。


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武寧・尚巴志時代の浦添グスク

2017年08月13日 | ・琉球史散策/第一尚氏

映画「ハクソーリッジ」でアメリカ人が、

長いすべり台目当てに中国人観光客が、
ひっきりになりに訪れている
今話題の浦添市、浦添グスク界隈。

 

そんな中、ワタシも
久しぶりに浦添グスクを尋ねました。

しかし目的はハクソーリッジ訪問でも
すべり台でも遊具でもなく!

尚巴志時代の浦添グスクの姿を
確かめてくる!!

 

ということで、

歴史群像8月号に掲載されている
推定復元図の浦添グスクの図を片手に
巡ってきましたよ。

 

参)イラスト全体図
https://twitter.com/mazegenta/status/883148213594628096

 

この絵のポイントは15世紀初めの姿であること。

尚巴志が武寧を攻めた時、
父・思紹を中山王にたててここに住んでいた時、
の浦添グスク!

 


一番の違いはここかな、と。

 

 

正門と、正殿に続く登城道。

現在ある、いわゆる「尚寧王の道」は
1597年に尚寧が整備した道なので
それまでは違う道がメインだった。

それがイラストのこの部分。

それを現在の浦添グスクの写真に当てはめてみたよ。

 

 

だいたいこんな感じ?



写真の書き込み、少し修正しUPし直しました(8/15 22:00)


アングルを変えると…

 

 

こんな感じ。

ちなみに写真右側が南です。


尚巴志が攻めたのも
おそらくこの方向から。

傾斜はあるし
道はくねってるし
池や堀はあるし
張り出しもあるし

THE戦国の城の作りって感じです。

 

こうやって改めて浦添グスクを見てみると
また新鮮ですね

紙の上で見ただけだと正直ピンとこなかったのですが
こうやって実際に現場に立つと
見えてくるものがあります。

 

 

浦添グスクの正殿跡(現在の展望台付近)からは
首里城が見えました。

 

 

アップで。


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書は体を表す

2017年06月18日 | ・琉球史散策/第一尚氏

俗に
書は体を表す、
字は体なり、

文字にはその人の人柄が出る

なんて言いますね。

 

ゆったりした字、

力強い字、

か細い字、

整った字、

雑な字、

迷いのない字、

落ち着きのない字…

 

今のように鉛筆やペンや
ましてやパソコンなんかではなく、
筆と墨で書かれていたものなら
尚更その人の個性がはっきり見えるような気がします。

 

 

さて、ここにある方の書があります。

戦前まで残っていたものですが
火事で燃えてしまったようで
今は残っていません。

端正で、
まじめで、
どちらかという華奢な字です。

 

誰の書いた書なのかというと、

 

 

暴君と名高い

尚徳王

です。

 

 

「琉球戦国列伝」でもコラムの中で紹介されていて
過去にも記事にしたことがありますが
改めて。

 

この文章は中国「詩経」からとった一節で

愛しい人を求める愛のポエム

なのです。

 

なのに、

 

嗚呼、なのに!

 

最後の「求」は誤字だという。
(正しくは「逑」=つれあい)

 

始めてこのエピソードを知った時、
尚徳の意外な一面を見て
好感度が急上昇しました(笑)

 

このエピソードだけでも鉄板なんですが、
実際の筆跡を見るとまた感慨深いものがありませんか?

(なお、本当ならこの書の最後には
尚徳の署名と落款がありますが、
この写真では切れています


歴史書に書かれているような
暴虐武人な暴君とは違う一面が
この1枚の写真からも色々想像できますね。

 

さて、この写真、
何にあったかというと、

というのは次記事で。

 

 

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530護佐丸の日企画’17は、髭ぬりえ!

2017年05月28日 | ・琉球史散策/第一尚氏

すっかり忘れていましたが、
明後日5月30日は護佐丸の日でした。

例年、護佐丸の日には
「530護佐丸の日企画」と題して
何かとちょこちょこ取り組みをしてきたのですが、

さて、今年はどうしよう?

時間もそんなにないし、
正直ちょっとネタ切れ感もあるし…。

 

でもせっかくツイッターも始めたことだし、
ちょっとでもいいから何かやりたいな…

 

ということで、

 

『髭を足してオリジナルの護佐丸を
作ってみようぬりえ』

 

を提供することにいたします。

 

↑クリックで拡大&保存可ページへ(プリントアウトもしくはお絵かきアプリなどでどうぞ)

 

子供だった頃、
教科書に載ってる肖像画に髭や髪を落書きした
という経験のある人は多いはず。

はい、もちろん私も経験済みです。

 

ようは、それと一緒です。

 

護佐丸のイメージ画を、
0から絵を描くことはハードルが高いですが、
髭を好きなように描き足す(落書きする)だけなら
誰でもできる!

 

琉球は立派な髭社会。

按司である護佐丸に髭は必要不可欠な大事なステータス。

さあ、そんな彼の髭は一体どんな髭だったのでしょう?

 

ちょび髭?

もさもさ?

長い?

短い?

ストレート?

縮れ髭?

口ひげはある?ない?

 

バリエーションは無限大!

 

髭を書きたすだけで
あなたオリジナルの護佐丸が作れちゃいます!

 

 

 

色まで付けられたら更に
オリジナリティの幅が広がりますね!
(色は塗らずに髭だけでも十分ではありますが)

 

これ、
中城村内の幼稚園や小学校で使ってくれないかなー。

 

もし描いたよ、塗ったよという方は、
写真などに撮って
5/30護佐丸の日の時にツイッターなどに
タグ(#護佐丸の日)付きでUPしてくれたら
相互交流にはもなるので嬉しいです(*'▽')ノ

 

 

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琉球歴史ドラマ尚巴志、本日第2話

2017年03月22日 | ・琉球史散策/第一尚氏

琉球歴史ドラマ尚巴志
第2話、本日RBCで21時からの放送ですよー!

 

1話を見たショクバの人たちから
次々と「見たよ!」と報告を受けるワタシ。

いや、ワタシ出てませんけどね(笑)
(でもメイキングでは一瞬映ったとか映らなかったとか…)

 

でもこれをきっかけに
色々と歴史的な質問されたりするので
解説をしたりやり取りをするのが
この上なく楽しいです(*´ω`*)

やっぱりテレビの影響、
そして「ドラマ」というエンタメ枠での
テレビの影響は大きいなぁ。

(しかもゴールデンタイム!)

「琉球歴史ドラマ 尚巴志」第2話予告

 

1話を見逃しちゃったという人も、
2話からでも見て下さい。

 

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明日、ドラマ尚巴志メイキング番組

2017年02月24日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

明日、2月25日(土)
THE MAKING OF 尚巴志
琉球歴史ドラマ「尚巴志」の舞台裏
が放送されます!

RBCで朝10:25からなので
忘れないうちに今日で予約録画
しておくことをオススメします。

http://www.rbc.co.jp/tv_blog/oshirase0221/

 

+

 

写真は攀安知!

お邪魔した特別ロケは明るいうちだけの予定だったのですが、
夜からの撮影には攀安知が来るということで、
攀安知見たさに夜まで残ったワタシなのでした(笑)

 

 

北山戦は夜戦!

攀安知が馬に乗って戦いますよ。

 

明日のメイキングでも
少し見られるかな??

楽しみです♪

 

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歴史ドラマ「尚巴志」特別ロケレポ5

2017年02月07日 | ・琉球史散策/第一尚氏

琉球歴史ドラマ「尚巴志」の、
特別ロケレポ5です。

 

 

レポ②でも載せたこの写真。

今回は尚巴志ではなく、
その後ろにいる二人に…

 

 

ズームイン!

 

 

通称エビ君(手前)と
"ええ声"大地君(奥)。

 

肝高の阿麻和利ファンや
現代版組踊ファンなら
知っているであろう、
役者チームのお二方です。

肝高の阿麻和利を卒業してからも
舞台活動を続けていて、
現在も多方面で活躍中です。

 


大地君はこのドラマの中で、
何役もこなしているそうですよ。

確かこのドラマのために
スキンヘッドにしたんじゃなかったかな?
(記憶違いだったらゴメンナサイ)

 

 

どんな役を、どれだけやっているのか
探してみるのもまた一興、
ですね。

 

 

 

エビ君は尚巴志の弟の
美里大親役。

尚巴志と近い存在なので
割と出番も多いのかな?

この日の合戦ロケでは
バリバリに戦う美里大親を
見ることができました。

 

 

しかし、この撮影(本番)中、
刀が折れるというアクシデントが発生!

しかし予想外のアクシデントは舞台ではつきもの!
さすが舞台で鍛えられていた分、動じることなく、
アドリブでそのまま演技続行!

ワンカットやりきりました!

その後、通常バージョンも撮り直しましたが、
アドリブバージョンも良かったと監督さんが言ってたので
どちらが採用されるか、楽しみです(笑)

個人的にはアドリブのほうが好きかなー?

 

 


実はこの日、
ワタシがロケ現場に到着した時
すぐに声をかけてくれたのが
TAO factoryのスタッフさんでした。

なんでも一部、衣装協力で
このドラマ制作に参加しているのだとか。

 

やはり、
琉球史エンタメにTAO(現代版組踊)在り、
ですね。

 

嬉しいな♪

 

現代版組踊ファンも必見の
琉球歴史ドラマ「尚巴志」は、

3/15(水)
3/22(水)
3/29(水)

の21時からのRBCで三週連続放送です!

 

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