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がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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テンペスト行脚~首里城/空中回廊~

2011年09月20日 | ・『テンペスト』行脚

ドラマ、テンペストは終わりましたが、

ドラマで初めてテンペストを知った人が、
原作も読んでみようかな♪と思ってくれるといいな

というわけで、

テンペストの世界を実際の現場写真と引用で紹介する
テンペスト行脚シリーズ、まだまだ続きます。

首里城へはもう半年も行っていないのですが、
それまでに撮り溜めておいたテンペスト行脚用の首里城(とその付近)の写真とネタは
まだまだたくさんあるんです。
(ただしトピック、すごいマニアックですけど(笑))

いつの間にか55記事以上!の「テンペスト行脚」記事は
←サイドバーのカテゴリをクリックして下さいね♪

 

■首里城/空中回廊■


翌日、正殿の2階から黄金御殿と呼ばれる
王の居住へと通じる空中回廊の前に、寧温は立っていた。

この空中回廊には鈴がつけられている。

この鈴を鳴らすと女官が現れて伝言を申し付けることができる。

寧温を案内するかのように
一匹のオオゴマダラがゆらゆらと飛んでいく。


「テンペスト(上) 118-」より (池上永一著/角川書店)

 

残念ながら御内原エリアはまだ整備中なので、
この空中回廊も今はまだ通じていません。

女官呼び出しの鈴がつけられていていたであろう、空中回廊の入り口が、
正殿二階にあがってすぐ右手のこの空間です。

写真では仕切られた扉の隙間から漏れる光がなかなかいい味わい出てますが、
その先は寧温君にとってはまさに未知の世界。

そして恐ろしい(!?)女の裏の世界への入り口だったわけです(笑)

 

 

ちなみに、現在、そのわずかな隙間から覗くと、
御内原の施設、二階御殿が見えます。

そして黄金御殿があったであろう場所にブルーシートです。

(※下の2枚の写真は去年7月撮影です。今はどうなってるかな。御内原エリア…)

 

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テンペスト行脚~首里城/暗シン御門~

2011年09月06日 | ・『テンペスト』行脚

ドラマ・テンペスト放映後は、
テンペスト関連のアクセスや訪問者数がガンとあがります。
(特に寧温モデル記事と、テンペスト年表記事へのアクセスが異常に高い(笑))

回数を重ねるごとに劣るどころかどんどんあがっていくので
ドラマの影響が強いことが伺え知れて嬉しいです

ドラマも残すところ後2回です。

さて、去った第8回では、
主人公が孫寧温という男性と、真鶴という女性の
2つの性を行き来する名シーンが再現。

その、2つの性をつなぐ舞台となるのが、
暗シン御門(くらしんうじょう)。

ドラマではこの名前は出てきませんでしたが、
原作ではがっつり出てきます。

さて、その暗シン御門の存在、

絶対フィクション!!

って思ってましたが、

実はコレ、

本当に首里城にあったのです(!!)

 

それがこちら!!

 

……と言っても、中央の暗いがりの部分ではありません
(中央は正殿内見学への入り口です)

役人の格好したスタッフさんの手前、
柱と柱の間に透明のビニールがかかっている部分、
この左右を横断するような空間。

右手は御内原。
テンペストで言えば「裏の世界」

左側が御庭。
テンペストで言えば「表の世界」

裏(右手)と表(左手)をつなぐ通路。
ここに、かつて本当に暗シン御門があったのです!

別名、左掖門(さえきもん)

 

暗シン御門があったであろう場所に立って、
御内原をみた光景。

かつてはブルーシートがあった場所に、
王妃が管轄する黄金御殿(くがにうどぅん)がありました。

暗シン御門はこの黄金御殿の1階部分にありました。

写真は半年前のものですが、
今も御内原は修復作業中。

残念ながら入ることはまだできません。

でも、奥にある白銀門二階御殿を覗きみることはできますよ。

 

そしてこちらが、
暗シン御門があったであろう場所に立って、
表の世界を見た光景。

正殿、御庭のすぐそこ。

写真左手に見えるのは白木造りの日本様式の南殿です。

そんな、御庭横に出るとか、

人目ありすぎて忍んで行き来するとか無理だろ!!

って思えますが…

ドラマでは御庭が見えないように、
(御庭から暗シン御門の入り口が全く見えないように)
南殿と正殿の境目に壁ができてましたね。

振り返った光景はこう。

右手が南殿。
左手が御内原エリア。

原作では、御内原から暗シン御門を通って表に出たら、
この南殿の裏をぐるっと回って表のエリアに入りなおす、

ということになってます。

 

 

暗シン御門は、「門」とついていますが、
その形式は守礼門のような門ではなく、
広福門奉神門(有料エリアのチケット切るトコロ)のような、
建物の1階部分に空間を作った形式の門です。

ただ、暗シン御門が不思議なのは、
まっすぐの通路ではなく、
クランク状に捻じ曲がっている通路だということ。

故に光が入らず、昼間でも暗い空間であったようです。

原作を読んでの印象は、
地下通路のような、鍾乳洞のような、
じめじめとした暗くて古くて狭くて長い通路をイメージしてましたが

本当の暗シン御門のイメージはトップ写真のような、
周りを壁(たぶん朱漆?)で囲まれた暗い空間、となります。
(しかもきっとそんなに長くない)

 

現在、暗シン御門は復元されておりませんので、
当時の姿は想像していただくしかありません。
(ただ戦前の首里城正殿の写真には暗シン御門の空間があるのがはっきり分かります。
詳しくは、コチラからジャンプして下さい)

しかし、「暗シン御門の内部ってこんな感じ」という
似た雰囲気を味わえるのが、トップ写真の場所です。
(これはまっすぐ通路ですが、これがクランク状になっていると思ってください)

首里城に行った際は、ここがどこにあるのか是非探してみてくださいネ
(ヒント*正殿の中です)

では最後に原作、テンペストより引用です。

 

■テンペスト行脚~首里城/暗シン御門~■

 

「あごむしられ様、人目につかぬようお早く」

意を決して飛び込んだ暗シン御門はその名の通り全く光の差さない空間だった。

人口の空間なのに鍾乳洞のように湿度が高い。

屋根裏部屋のような饐えた匂いがあまり人が使っていない通路だと伝えていた。

真鶴は暗シン御門を壁伝いに歩いていく。

「本当にここは王宮なのかしら?」

 

「テンペスト(下) 198-」より (池上永一著/角川書店)

 

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テンペスト行脚~千寿コウ&大鶏餃~

2011年07月24日 | ・『テンペスト』行脚

昨日のドラマ・テンペストの地上波再放送の影響か、
昨日もテンペストつながりの訪問者が急増…。
(「孫寧温」で検索したらリストの2つ目くらいに出るんだよね^^;)

訪問者数、いつもの2倍以上で1200をゆうに越えました
恐るべし、テンペスト。

ご訪問いただいたみなさま、ありがとうございます。

 

今日は第2話放送日、ということでテンペスト行脚記事!

やっと、あの真美那のお嬢様爆弾「千寿糕(せんじゅこう)」をgetしました!!

昨年末から春にかけての舞台・テンペストやテンペスト体感ツアーにあわせて
王家御用達の老舗店である新垣菓子店にて千寿糕再現プロジェクトが進行していたのです。

でも実際に手に入れられる人はごく一部で一般発売はされていませんでした。

(関連過去記事→ 

しかし、5月10日の新聞で「千寿糕が一般発売」の記事が!

次那覇に行った時は買おう!!と心に決めていたのでした。

そしておととい、国際通りの新垣菓子店でgetした次第でゴザイマス。

 

新垣菓子店には「テンペスト」というフレーズや売り文句こそなかったものの、
千寿糕の他にもちんすこうはもちろん、大鶏餃、ちいるんこう、くんぺん、花ぼうるなど
テンペストに登場するお菓子が小サイズ&バラ売りタイプでずらりと並んでいました。
(1個120円~250円くらい)

そのまんま「真美那の琉球菓子セット」ができるくらいです(笑)

一昨年、私が同店(他店舗)に突撃したときは
「千寿糕?何それ?」みたいな反応されたんですけどね…

 

では、引用部分がたくさんあって迷う千寿糕ですが、
初登場のこのシーンをご紹介☆

 

■千寿糕(せんじゅこう)■

「昨日、千寿糕を焼いてみたの。私の千寿糕って美味しいって評判なのよ」

焼き菓子の千寿糕は真美那にぴったりの菓子だ。
一口サイズの円筒形の上面に三色スミレのような花弁を載せる。

みるからに野花を摘んだような、菓子の花篭ができる。

「隠し味が何か当ててみて。ほら、普通の千寿糕だと思われたくないの。ねえ食べて」

真鶴は一口頬張って、思わず真美那と目を合わせた。

爽やかな柑橘の香りが口腔に広がったのだ。
こんな千寿糕を食べたのは初めてだ。

「夏みかんの皮が入っています」

「当たり。それが評判の理由。息を吐くとみかんの香りがスーッとして気持ちいいでしょう。
皮を煮て甘みを出すの。もしかして私って天才かしら?」

 

「テンペスト(下) 97-」より (池上永一著/角川書店)

 

実際に食べてみたら、確かに美味しかったです。

そして制作過程で聞いていたとおり、しっかりオレンジピール入りでした。

でもぼろぼろと崩れやすいのでちょっと上品に食べるのは苦労します(笑)

原作みたいにもっと小さい一口サイズだったらいいのかも。

(↑は5倍くらいは大きいです。1つ食べると結構なボリュームです。2つは無理かな)

 

千寿糕を買ったついでにまだ記事にしてなかった大鶏餃も買ってみました。

この名前(漢字)のまんまのお菓子です。

 

■大鶏餃(タイチーチャオ)■

染料を貰って来た日から真鶴はずっと鬱ぎがちだった。

「真鶴さん、この大鶏餃は絶品よ。一口でも食べてちょうだい」

「今は油っこいお菓子はちょっと……」

 

「テンペスト(下) 85-」より (池上永一著/角川書店)

 

確かに揚げ菓子のような感じでした。
でも思ってたよりはさくさくでしたよ。

味は「the 昔のお菓子」って感じの風合い。

味としては千寿糕の方が今っぽいかも。

 

他にもテンペストで登場する琉球菓子、
ちいるんこう、ちんすこう、くんぺん、花ぼうる、ついでにサンピン茶の過去記事こちらから

これでテンペストの琉球菓子制覇かな?(笑)

↑後にある小さいのは一口ちんすこう。
(これは本当に一口サイズ)

オマケでもらいました。

お店の人に

「以前もいらしたことありますか?お詳しいですね」

と言われてしまったワタシなのでした…

 

テンペストファンの皆さん、
沖縄(那覇)に来たら是非一度ご賞味あれ~★

 

「千寿糕」←文字化けしてる人はゴメンなさい…。
「せんじゅこう」です。

 

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テンペスト行脚、カテゴリ独立

2011年07月18日 | ・『テンペスト』行脚


ワタシのブログは有料バージョンでアクセス解析ができるのですが、
昨日のアクセス解析の「検索キーワード」、
トップ20のうち、18個がテンペスト関連キーワードでした(笑)
(いつもは手ぬぐいのこととか現代版組踊や古琉球のこととかも多いのに)

しかも、寧温君のモデル記事のアクセス数が激増。なんと2位。
(あっ、この記事で紹介している本の著者が、多嘉良役の藤木さんですよ☆)

訪問者数も過去最高(いつもの1・5倍!)
ありがとうございます。

ドラマテンペストの影響の大きさを改めて実感デス(笑)

 

で、“『テンペスト』を読ム”のカテゴリが100記事間近で、
しかも今後もドラマ関係で増える見込みなので、
テンペスト行脚記事を独立させました~。

そのまんま“『テンペスト』行脚”です。

原作・テンペストに登場する実際の場所を巡って写真を撮り、
その箇所を一部引用しながらご紹介しているシリーズです。

分別作業してて、ぅわ~、50超えてるし…とちょっと自分であきれました(笑)
(↑のフォトブック発行した後も行脚記事増えてるしね。第2弾作りたいな~と言って既に半年

行脚記事意外のテンペスト記事は
体感ツアーのこととかドラマのこととか勝手に時代考とか勝手に年表とか(笑))
カテゴリ名を“『テンペスト』徒然”に変えて、その中に入れてありますヨ。

実際の場所と、ドラマで使われているロケ地は
必ずしもイコールではないので(三重城とか)、
そのうち、ドラマ・テンペストロケ地行脚なんかもできそうですね(笑)

 

 本日放送です 

琉球王国の秘密~ドラマ“テンペスト”の世界~
NHK総合(全国放送) 13:05~13:56


ドラマ「テンペスト」の世界を知り、ドラマをもっと楽しもう☆

あ~、でもワタシ午後からシゴト~
録画して見ようっと…。


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テンペスト行脚~天使館~

2011年06月09日 | ・『テンペスト』行脚

明日、NHK沖縄「沖縄きんくる」で、
ドラマ「テンペスト」の特集をするそうですよ。
(番組ブログはこちら

沖縄出身の出演者インタビューを中心に、メイキングなど、
ドラマ「テンペスト」の世界をご紹介するそうです。

徐丁垓役のGACKTも登場するらしいです(笑)

これだけでも見ものですね。

6/10(金)
19:30~19:55
NHK総合です。

 

というわけで、1月に撮った写真で
テンペスト行脚。

 

■ 天使館 ■

「こんなことなら久米村大夫の横領に目を瞑っていればよかったわい」

「三司官殿、何を仰るのです。
久米村大夫の不正と清国のふっかけは全く別物でございます」

「では、孫寧温。お前が解決しろ。おまえが起こした不始末だ。
王府は約款以上の予算はない」

三司官は腹いせにわざと寧温の前で足を踏みならして出て行った。
久米人を使わずに交渉するというのは不可能なことだ。

「寧温、一緒に天使館に行こう。
大国の狭間にあるからこその琉球なんだろう?」

朝薫は冊封使も三司官も感情的になりすぎているのが気に入らない。

何も冊封使は琉球を破産させるために来たわけではない。

しかしどうすれば双方が納得できるのか
朝薫にもまだ論が構築できていなかった。

 

「テンペスト(上) 132-」より (池上永一著/角川書店)

テンペスト行脚記事での天使館トピックは、
実は過去に福州園を取り合げてUPしているのですが

こちらは天使館の復元建物となっています。
(外観のみ)

場所は読谷村の「むら咲むら」

この復元天使館は、今は様々な体験施設が入っていますヨ。

う~、せめてもうちょっと外観のメンテナンスができればなぁ…

むら咲むらの隣のGala青い海側には、
復元三重グスクもあるので(こっちにも)、

楽しみ方によっては結構テンペストファン穴場スポットですよ

↓天使館についての案内板。

へぇ~、武寧王なんだ~。

(尚巴志が倒した中山王。 武寧→尚思紹→尚巴志)

 

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このきんくる、実は出演するかもしれなかったりしました(笑)
企画内容変更で流れましたけど。


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テンペスト行脚~龍~

2011年06月05日 | ・『テンペスト』行脚

■ 龍 ■

民は龍を敬い、崇め、そして恐れるあまり、
龍を統べる者を王とした。

以来、龍の巣は王の居住となり、

首里城と呼ばれた。

 

「テンペスト(上) P8 」より (池上永一著/角川書店)

聞得大君は寧温の背中から立ち上る片目の龍の姿を見た。

かつて王宮から逃げ出した龍が、
十数年の時を経て聞得大君の前に現れていた。

彼女が敵に回したのは男装した女ではない。

変幻自在の龍が人の姿をしているのだ。

「龍が、目を潰されて王宮から逃げ出した龍が……ここにいたのか!」

 

「テンペスト(上) P282」より (池上永一著/角川書店)

寧温君は様々な困難を打破していきますが、
単なる天才的な人間的能力ではなく、
超人的な力を持って最初の大敵・聞得大君を打破するシーン。

かっこいいよ、寧温君。

何度も言ってるけど、すごい映像的にイメージが入ってくる数ある場面の1つ。
(でも1番はやっぱり万座毛かな~

「龍」が重要なキーモチーフになっているテンペスト。

なんともワイルドでかっこいい龍のイメージが浮かぶのですが、
首里城の龍はワイルドでかっこいいというよりは
よく見ると、きょとんとかわいい感じの表情をしております(笑)

「なんだってーーーーーーーっ!?」

…とアフレコ入れたくなるよね。
(オノマトペはもちろん“ガーーーーン”)

どうも親しみの湧く首里城の龍でした(笑)

 

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テンペスト行脚~インディアン・オーク号~

2011年05月24日 | ・『テンペスト』行脚

21日にUPした見事な夕日を撮った北谷のアラハビーチ。

でも、実は夕日を撮りに行ったんじゃなくて、
「コレ」を撮りに寄ったんです。

というわけで、超久々のテンペスト行脚記事です☆
(前回は……うわ、2月の大美御殿以来だわ…

 

■インディアン・オーク号■

嵐が去り、珊瑚礁が煌きを取り戻したころ、
北谷沖に見慣れない船影が出現した。

座礁した英国船インディアン・オーク号だ。

 

「テンペスト(上) 156-」より (池上永一著/角川書店)

 

上陸したボーマン大尉たちはこれからどうするのか考えあぐねていた。

「ボーマン大尉。朝になったら脱出するんじゃなかったのかね?」

「それは朝食を食べてからです」

「しかし上級船員には卵と鶏肉を出して、
我々の身分を敬っているように見受けられるが……」

「グレンジャー船長。原住民はいつ我々を襲うか分からないのです。
私はこれまで何度も危険な原住民たちと遭遇した経験からわかるのですが」

船員たちの多くはボーマン大尉の言葉に耳を貸さない。

何度も遭難したことのある船員たちは、
これほどまでの歓待でもてなされた経験はなかった。

下級船員のインド人たちは、
この地が英国よりも遥かに洗練された文化の国であることを察知していた。

原住民たちのみなりは美しく、
質素だがインドよりもずっと衛生的で、美意識の高い暮らしをしていた。

漂流民を厚遇しても何の見返りもないことを知っていて、
それでも手厚くもてなす彼らを
本物の紳士だと英国人は気付きもしない。

  

「テンペスト(上) 169-」より (池上永一著/角川書店)

 

“ I am a high commissioner of the Kingdom."
(評定所筆者の孫寧温です)

訛りのない完璧な発音に英国人たちが水を打ったように静まった。

現れた役人の幼さにも驚かされたが、
英語を話せる原住民がいることが何より信じられない。

 

「テンペスト(上) 182-」より (池上永一著/角川書店)

 

1840年8月14日、北谷沖に英国船籍東インド会社のインディアンオーク号が座礁した

というのは歴史的事実。

北谷の村人は、テンペストにもあるように船員を全員救助し、
衣食住を与え、彼らが帰国するまで手厚くもてなします。

その出来事を記念してここアラハビーチに作られたのが
インディアンオーク号を模した遊具です。

しかも座礁らしく船を傾けて設置してるあたり…小憎い(笑)


↑夕日を映した記念碑。クリックすると拡大します。

テンペストではこのインディアンオーク号事件にからんで、
寧温と雅博と朝薫の三角関係も明確化され(笑)、
またベッテルハイムと、村人、寧温とのやり取りも面白く、
そして琉球人としてのアイデンティティをくすぐる
読み応えのある話になっています。

テンペストで次々と起こる数ある事件の中でも
このインディアンオーク号のトピックはワタシが好きな場面の1つです♪ 

太陽が海に溶け行くまさにその時、

インディアンオーク号の背後に大きな虹がかかりました。

うぅ…広角レンズつけたデジイチカメラ持ってたら虹全体を写せたのに…
今回の写真もすべてケータイカメラです

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テンペスト行脚~大美御殿跡~

2011年02月03日 | ・『テンペスト』行脚

 

久々に、
テンペスト行脚……再開っ

でも、「テンペスト体感ツアー」で周らないスポットをご紹介しますね。

(写真は2010年の秋に撮ったモノです。)

 

今回のスポットはこちら!

守礼門から続いている綾門大道沿い、
現在の首里高校にあたる場所にあったとされる……

 

■大美御殿(おおみうどぅん・うふみうどぅん)跡■

「もし真鶴さんが評定所筆者だったらどう対応する?」

「私なら……。もし私が評定所筆者なら、武力介入を避けるために
大美御殿で歓迎式典を行います。

大美御殿は半官半民の施設だから
王宮の一部のように米国人には見えるでしょう。

大美御殿で修好条約を締結させられても
民間交流だったと後で説明ができます」

 

「テンペスト(下) 166-」より (池上永一著/角川書店)


「ここは王府の摂政のお屋敷でございます。
ペリー提督には是非ここで休憩していただきたく、
ささやかな宴を用意いたしました」

向家は名門士族の威信を懸けて
ペリー提督一行を阻む接待作戦に出た。

ペリー提督との交渉で何度か顔を合わせたことのある摂政が
「ようこそ我が家へ」と慇懃な礼をする。

「姑息な罠だ。無視しろ」

とペリー提督が隊列を意地しようとする。

そのとき絵画から抜け出してきたような貴婦人が門から現れたではないか。
聖母マリアを彷彿とさせる黒髪の貴婦人の微笑みに行軍の足が止まった。

お嬢様爆弾を用意した真美那が遠来の客の疲れを癒すように誘う。

「ペリー提督のお越しを心からお待ち申し上げておりました」

 

「テンペスト(下) 184-」より (池上永一著/角川書店)



ペリー率いる黒船が浦賀に現れる前、
琉球に立ち寄っていたのはもうご存知ですね。

「テンペスト」にもあるように、
ペリー来琉に際して琉球王府も対応にかなり苦慮します。
事件も起こるしね…)

ペリー一行の強制登城に際して使われたのが
摂政宅と称された「大美御殿」、
そして首里城「北殿」だったのです。

今は首里高校になっているので
大美御殿の面影はまったく残っていませんが、
その跡地と、守礼門や首里城との位置関係を体感するとおもしろいかもしれません♪

(ちなみに斜め向かいは玉陵です)

 

photo by ケータイ

 

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テンペスト行脚~三重城(復元)~

2010年09月30日 | ・『テンペスト』行脚

■三重城(ミーグスク)■

真鶴は女である最後の一日を三重城の頂で
海を眺めて過ごすことにした。

雨上がりの景色はどこまでも澄み渡っている。



那覇港の入り江のほとりにある三重城は
航海安全を祈願する王国の拝所である。

真鶴は風を受けて東シナ海の水平線を見つめた。
今日、男として二度目の性を受けた。



もちろんこの決意に悔いはない。

胸に突き上げてくる熱い思いは、
昨日までの塞がった苦しさとは全く違う。



開いたばかりの胸は果てしない夢、
明るい未来を思う存分に拡げてくれる。

「進貢船が清国に旅立っていく」


「テンペスト上 32-」より (池上永一著/角川書店)





那覇港に向かう途中、
寧温は三重城の頂で不思議な人影を見つけた。

まるで芍薬の花のように
上半身をふわりと浮かせた佇まいの男が立っている。



あんなに軽やかに立てる男は琉球人ではない。

寧温はなぜか彼の後ろ姿に惹かれて三重城の頂に登った。


「テンペスト上 144-」より (池上永一著/角川書店)






テンペストでの重要なロケ地、
三重城(ミーグスク)です!

でも実は本物の三重城ではありません。
本物の三重城(那覇)は、こちらです。

テンペスト行脚でも既に紹介しておりましたが、
(なので引用部分、ちょっとかぶってます)
本物の三重城は当時の姿形が全くなく、残念な姿。

そこで、当時の三重城の姿を復元したのが
あるんですね~( ´艸`)

先日の、「護佐丸・阿麻和利ツアー」のときに
ランチで訪れた読谷村のある場所。

ランチを早めに済ませて、散策しちゃいました!
テンションMAAAAAAAX!!!

(つづく!)




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テンペスト行脚~真玉橋~

2010年05月09日 | ・『テンペスト』行脚

■真玉橋(まだんばし)■


今日、豊見城間切にかかる真玉橋の修復工事が終わった。

物流の要にあたる大橋の竣工式典に立ち会ったのは、
王府の三司官、表十五人衆、そして評定所筆者の高官である。



厳粛な儀式に相応な顔つきでいなければならないのを忘れて、
寧温は始終笑顔だ。

マングローブの森にかかるアーチ橋は弾むように陸地を結んでいる。



「これで那覇からの物資の輸送が効率的になりましたね」

「あれだけ予算をいじった寧温が決して譲らなかった公共工事だもんな」



「朝薫兄さん、その言い方は違います。
まるで私が公共事業潰しの鬼役人みたいではありませんか。
私はただ優先順位を決めただけです。
この橋は庶民たちにとっても必要な橋です」


「ぼくもそう思う。きっと百年後も役にたつ橋だ」


「テンペスト(上) 196-」より (池上永一著/角川書店)



はーい。真玉橋です。

真玉橋は1522年に築かれました。
その後、改修や修復工事などが行われ、
テンペストの↑の場面は、1836年の大規模な改修工事の場面かと。


沖縄独特の石造文化として誇る真玉橋でしたが、
やっぱり沖縄戦で破壊。

↑発掘作業の様子

その後の改修工事&発掘作業で、
当時の真玉橋の遺構が現在の真玉橋の両端に、
文化財として残されています。



現在の真玉橋です。



橋の向こう側は豊見城市。

こちら側が那覇市になります。



この日はお天気も悪く、どんよりとしていましたが、
お天気の日は、この白い橋が目にまぶしく写ります。



国場川。



真玉橋遺構と、現在の真玉橋。

こういった街中にある文化財もちょっと目にとめてみると
面白い発見があるかも★



↑ところで引用した部分の、寧温君と朝薫のやり取り。

まさに今でいう「事業仕分け」よね(笑)

「テンペスト」を読んだ方ならお分かりかと思いますが、
あまりのフィット感に笑えます。
(あ、ちなみにテンペストのほうが先です)



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テンペスト行脚~花風~

2010年04月27日 | ・『テンペスト』行脚

三重城に登て 手巾持上ぎりば

早船ぬなれや 一目ど見ゆる




真鶴は歌を聴いて体が震える思いがした。

流人になったあの日のことを忘れない。

三重城で雅博と別れた日のことが去来していた。
『花風』は恋人との別離の情を歌っていた。





―――雅博殿、もう一度会いたいです。





真鶴の思いが『花風』に宿る。

別れたくて別れたわけではない遊女の気持ちは、
まさに真鶴の恋と同じだった。



女性から男性への愛の証である花染手巾が渡されようとしていた。


―――雅博殿、どうか受け取ってください。




しかし思いは虚しく男は花染手巾を拒んだ。

それが悲しくて仕方がない。

真鶴はひざをついて首を振る。



この思いに偽りなどひとつもないのに。




朝夕さも御側  拝み馴れ染めの

里や旅せめて  如何す待ちゆが




「テンペスト(下)39-」より (池上永一著/角川書店)




首里城の下之御庭で行われている「舞への誘い」で、
『花風』が行われる、ということで、
淑順門の偵察がてら、見てきました!

初・『花風』でした。

『花風』はテンペストでは真鶴と雅博の恋模様を語るときに欠かせない
キーワードの1つになっております。
(他は、鳳凰木と、三重城



情感たっぷりに踊られる『花風』は、
やはり芸達者が踊るものなのか、

今回のこの演舞でも、琉舞会の座長さん(?)に当たる方が舞っておりました。

コメント (2)
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テンペスト行脚~首里城/正殿・火焔宝珠~

2010年04月19日 | ・『テンペスト』行脚

■首里城/正殿・火焔宝珠■


夕日が王宮を照らす。

すべてを赤く染めた王宮がやがて眠りの時間につく。

そのとき、一筋の光条が正殿中央の火焔宝珠を狙うように差したではないか。

すぐさま宝珠が光条を反射し、京の内のアザナを照らす。

「おおおっ。神が祝福されておられる……」

太陽を模した火焔宝珠は京の内に反射するように若干傾けて設置されている。

一年のある時期、この一瞬のためだけに仕掛けられた演出だった。

 

「テンペスト(下) 423-」より (池上永一著/角川書店)

はいー。

沖縄にやってきましたフミさんのために(?)
テンペスト行脚を続けます

今回のトピックは首里城正殿の唐破風にあります、
火焔宝珠(かえんほうじゅ)。

唐破風自体は、寺院でもよく見られる日本の建築様式の一種ですが、
火焔宝珠をはじめとする中の装飾は日本の唐破風には見られない、
琉球独自のものになっています。

首里城正殿を前にすると、
ついつい、御庭の真ん中で記念写真を撮って終わり、

という人が多いのですが、

是非、入り口間近まで近づいて、
木彫国の見事さ、この色や、装飾、獅子や龍の表情ひとつひとつまで
じっくり味わっていただきたいと思います。

今回の正殿の漆の塗りなおし作業は、
この唐破風は該当しないのでしっかり見れると思いますヨ。

ちょいと、画像加工で遊んでみました。

 

火焔宝珠フラーッシュ!!!!(笑)
ちなみに、奉神門ビームはこちら(笑)


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テンペスト行脚~首里城/正殿2階の窓2~

2010年04月17日 | ・『テンペスト』行脚

ついでに、テンペスト行脚、もうひとつ。

正殿の2階は以前も取り上げたこともあるのですが、

今回は御庭側から見上げたアングルでの正殿2階の窓です♪

 

■首里城/正殿2階■

空中回廊を抜けた真鶴は、目に見えない線が城壁よりも
厚い壁になって立ちはだかっているのを感じた。

まだ宦官だった頃のほうが自由だった。

性が確定した者は王宮の半分しか使えない。

王宮に戻ればなんとかなると思っていたのに、
御内原は政治からもっとも遠い場所にあった。

正殿の2階の、この按司御座敷の窓からは御庭と北殿が一望に収められる。

「何とかして朝薫兄さんに列強対策を講じてもらわなければ…」

手を伸ばせば届きそうなほど近くにかつての職場があるのに、
今の真鶴にはこれ以上近づけない。

評定所で何が行われているのか知りたくても
御内原の鉄壁の防御に阻まれて手も足も出ない。

 

「テンペスト(下)107-」より (池上永一著/角川書店)

 

 

 

正殿2階にある按司御座敷は
正殿、向かって左側にあたる場所にあるのですが…。

この写真は向かって右側の2階窓、「長みこちゃ」にあたる場所です

調べてみて発覚

 

今、「長みこちゃ」の部分では正殿の漆の塗りなおし作業の工程紹介スペースに、
按司御座敷は、王印(レプリカ)などの展示スペースになっています。


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テンペスト行脚~首里城/継世門~

2010年04月17日 | ・『テンペスト』行脚

テンペスト舞台化を記念しまして(?)

ひっさびさの「テンペスト行脚」です
(でも写真撮ったのは一ヶ月以上前…)

今日のトピックは…

■首里城/継世門■

1847年9月18日、
尚育王がひそかに世を去った。

享年34歳。

あまりにも若すぎる逝去だった。

「次の王は中城王子・泰様。まだ六歳じゃないの!」

尚育王がなくなった直後に中城王子が継世門から王宮に招かれて
尚育王の遺体と対面する。

これが政権交代に相当する。

王は存在であって一日でも空位があることはあり得ない。

体制の維持の前では感傷など存在してはならない。

継世門に白装束の大あむしられたちが現れる。

聞得大君になった王女を迎えにあがったのだ。

「聞得大君加那志のおなーりー」

継世門から神官の衣装を纏った王女がでてくる。

幼い王女もまた父の死を悲しむ余裕がない。

  

「テンペスト(上)366-」より (池上永一著/角川書店)

 

はい。

現在の首里城見学の位置から見ると、
裏側(南東)にあたる場所にあります、継世門(けいせいもん)です。

テンペストの引用を読んでお分かりのとおり、
王が逝去し、次の王がこの門から中に入ることから、
継世門と呼ばれています。

継世門から中にはいると、御内原になっています。

御内原はまだ一般には未公開のエリア。

なので、普通に首里城見学のコースからはこちらにはたどり着けません。

一度、場外に出て、城下町をぐるりと回りこむような感じで
やっとたどり着けます。

ワタシもたぶん、初めて対面したような気がします。
東苑めぐりのときに見つけた場所です)

 

あたりは民家で囲まれていて、観光客の一人もいませんでした。

かなりマニアックな首里城の一面です(笑)


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テンペスト行脚~御茶屋御殿(東苑)~

2010年03月06日 | ・『テンペスト』行脚

この間、ひょんなことから浮上してきた「東苑」の存在。

正式名称、御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)。

まだ行ったことのない首里界隈、ということで行ってみました。

 

■御茶屋御殿(東苑)跡■

御仮屋に身を寄せて数日が過ぎたある日、

雅博は王宮の東苑で組踊を観劇しないかと誘った。

東苑に設えられた組踊用の舞台は、
能楽と歌舞伎の中間の形態をしている。

簡素でありながらも、舞台装置や美術、大道具など
演目に合わせて自由に演出される。

『テンペスト(上) 361-』 (池上永一著/角川書店)より 

…と、テンペストにもあるように、

御茶屋御殿は様々な芸能を行い、
また冊封使たちを歓待した場所でした。

しかし沖縄戦で破壊され、現在は建物の影も形もなく、
石碑と案内板が残っているのみ、です。
(↑写真左端)

現在は首里カトリック教会になっています。

ちなみに御茶屋御殿は首里城内にあるのではなく、
少し離れた場所にあります。

さて、沖縄戦で跡形もなく破壊されてしまった御茶屋御殿ですが、
唯一、石造獅子が残されていました。

しかしがけ崩れの恐れがあり、

御茶屋御殿跡地からちょっとだけ(150Mくらい?)離れた
「雨乞い御嶽」のところに移動されたそうです。

1677年に作られた石造獅子。

きっと、御茶屋御殿に組踊を見に行った真鶴さんと雅博も
この獅子を見ていたでしょうね

コメント (2)
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