[2007年2月2日 改訂]
倗伯爯簋は山西省運城市絳県横水鎮西周墓地1号墓より出土したもので、『文物』2006年第8期の「山西絳県横水西周墓発掘簡報」に銘文の写真と隷定が、またこの号の表紙に器影が掲載されています。
この器が出土した1号墓とその南に位置する2号墓からはほかに「倗伯作畢姫寶旅鼎」など短文の銘のあるものが出土しており、2号墓が倗伯という貴族の墓、1号墓がその夫人の墓と見られている。墓葬の時期はそれぞれ西周中期の穆王期かそれよりやや下る時期とされている。今回は1号墓・2号墓出土器の中で比較的長銘な倗伯爯簋を紹介したいと思います。発掘簡報ではこの器の年代については直接コメントしていませんが、当然墓葬時期と同時期かそれより以前のものということになります。
【凡例】
・銘文中では「中(=仲)」、「白(=伯)」、「且(=祖)」、「又(=有)」など字釈上特に問題が無いと思われるものについては、通仮字で表記してあります。
・Shift JISやUnicodeで表示できない文字については、[林去]のように表記するか(この場合は「林」と「去」のパーツを組み合わせた字ということです。)、あるいは字形が複雑でそれも困難場合はやむを得ず〓の記号を付けました。
・文中の「集成」は『殷周金文集成』の、「近出」は『近出殷周金文集録』の略。数字はそれぞれの書の著録番号です。
【銘文】
隹廿又三年初吉戊戌
益公蔑倗伯爯歴右告
令金車旂爯拜稽首敢
對揚公休用作朕考寶
尊爯其萬年永寶用享
【訓読】
隹れ廿又三年初吉戊戌、益公、倗伯爯の歴を蔑し、右けて告げ、金車・旂を令はらしむ。爯拜稽首し、敢へて公の休に對揚し、用て朕が考の寶尊を作る。爯其れ萬年永く寶用して享せむ。
【解説】
冒頭の「廿又三年」の「三」は、あるいは「四」のようにも見える。「益公、倗伯爯の歴を蔑す」とは、益公が倗伯爯本人やその祖先の経歴・功績を褒め称えたの意。「蔑某歴」や「某蔑歴」という表現は西周中期の金文に特に多く見られる。「右告」は、おそらく益公が介添えとなって倗伯爯を王に紹介し、冊命を受けさせたことを指していると思われる。
益公は西周中期後半から後期前半頃の金文に冊命金文の右者などとして登場するほか、西周中期後半の盠方尊/彝(集成6013/9899~9900)では盠という人物の祖先として「文祖益公」が見え、西周期を通じて「益公」と呼ばれた人物は複数存在したようである。
本銘の「益公」は、1号墓の墓葬時期から判断すると盠の祖先の「文祖益公」にあたる人物ではないかと思われる。仮に盠が西周中期後半の共王・懿王・孝王と同世代であり、「文祖益公」がその祖父であるとすれば、「文祖益公」は昭王か穆王と同世代ということになり、1号墓の墓葬時期と合いそうである。
「令」は、ここでは「賜」と同様の意で使われており、段簋(集成4208)に同じく「令」字を「賜」の意味で用いた例が見られる。あるいは倗伯爯が王より冊命を受け、職権の象徴として金車・旂を授けられたことを「令(=命)」字で示しているのかもしれない。
倗伯爯簋は山西省運城市絳県横水鎮西周墓地1号墓より出土したもので、『文物』2006年第8期の「山西絳県横水西周墓発掘簡報」に銘文の写真と隷定が、またこの号の表紙に器影が掲載されています。
この器が出土した1号墓とその南に位置する2号墓からはほかに「倗伯作畢姫寶旅鼎」など短文の銘のあるものが出土しており、2号墓が倗伯という貴族の墓、1号墓がその夫人の墓と見られている。墓葬の時期はそれぞれ西周中期の穆王期かそれよりやや下る時期とされている。今回は1号墓・2号墓出土器の中で比較的長銘な倗伯爯簋を紹介したいと思います。発掘簡報ではこの器の年代については直接コメントしていませんが、当然墓葬時期と同時期かそれより以前のものということになります。
【凡例】
・銘文中では「中(=仲)」、「白(=伯)」、「且(=祖)」、「又(=有)」など字釈上特に問題が無いと思われるものについては、通仮字で表記してあります。
・Shift JISやUnicodeで表示できない文字については、[林去]のように表記するか(この場合は「林」と「去」のパーツを組み合わせた字ということです。)、あるいは字形が複雑でそれも困難場合はやむを得ず〓の記号を付けました。
・文中の「集成」は『殷周金文集成』の、「近出」は『近出殷周金文集録』の略。数字はそれぞれの書の著録番号です。
【銘文】
隹廿又三年初吉戊戌
益公蔑倗伯爯歴右告
令金車旂爯拜稽首敢
對揚公休用作朕考寶
尊爯其萬年永寶用享
【訓読】
隹れ廿又三年初吉戊戌、益公、倗伯爯の歴を蔑し、右けて告げ、金車・旂を令はらしむ。爯拜稽首し、敢へて公の休に對揚し、用て朕が考の寶尊を作る。爯其れ萬年永く寶用して享せむ。
【解説】
冒頭の「廿又三年」の「三」は、あるいは「四」のようにも見える。「益公、倗伯爯の歴を蔑す」とは、益公が倗伯爯本人やその祖先の経歴・功績を褒め称えたの意。「蔑某歴」や「某蔑歴」という表現は西周中期の金文に特に多く見られる。「右告」は、おそらく益公が介添えとなって倗伯爯を王に紹介し、冊命を受けさせたことを指していると思われる。
益公は西周中期後半から後期前半頃の金文に冊命金文の右者などとして登場するほか、西周中期後半の盠方尊/彝(集成6013/9899~9900)では盠という人物の祖先として「文祖益公」が見え、西周期を通じて「益公」と呼ばれた人物は複数存在したようである。
本銘の「益公」は、1号墓の墓葬時期から判断すると盠の祖先の「文祖益公」にあたる人物ではないかと思われる。仮に盠が西周中期後半の共王・懿王・孝王と同世代であり、「文祖益公」がその祖父であるとすれば、「文祖益公」は昭王か穆王と同世代ということになり、1号墓の墓葬時期と合いそうである。
「令」は、ここでは「賜」と同様の意で使われており、段簋(集成4208)に同じく「令」字を「賜」の意味で用いた例が見られる。あるいは倗伯爯が王より冊命を受け、職権の象徴として金車・旂を授けられたことを「令(=命)」字で示しているのかもしれない。