だんだんと春が近づいているのは植物の様子を見ればわかる。
緑の色が鮮やかになり、
花もどんどん咲き始める。
子どもの頃は植物が「生きている」ということにあまり実感がわかなかった。
動くこともないし、
枝や茎を折っても痛がるそぶりも見せないし、
声を出すこともなければ
移動することもない・・・と思ってた。
でも、
中学の頃かな?
いや、高校だったかな?
何かの本で
「花は植物の生殖器。花を愛でるということはつまり花の生殖器を愛でているということだ」という内容の文章に出会って
確かにそうだなとやけに納得した。
そして植物の生殖行為に昆虫を含む動物を関与させている植物が
まさに生々しく「生きているんだ」ということが腹の底から認識できた。
そういう意識になってようやく「植物も生き物だ」ということが実感できたというわけ。
そうこうするうちに
品種改良なんてしている人間が植物をコントロールしているという意識は単なる錯覚で
実は植物の方が自分隊の子孫繁栄のために人間を含む動物をうまくコントロールしているんじゃないかという風に変わってきた。
そういう目であらためて植物たちを眺めると
その生態がまさにその通りなんじゃないかと思えるようになってきている。
「コントロールしているはずの側が、実はコントロールされていた」なんて
なんだかすごく面白いよね。
緑の色が鮮やかになり、
花もどんどん咲き始める。
子どもの頃は植物が「生きている」ということにあまり実感がわかなかった。
動くこともないし、
枝や茎を折っても痛がるそぶりも見せないし、
声を出すこともなければ
移動することもない・・・と思ってた。
でも、
中学の頃かな?
いや、高校だったかな?
何かの本で
「花は植物の生殖器。花を愛でるということはつまり花の生殖器を愛でているということだ」という内容の文章に出会って
確かにそうだなとやけに納得した。
そして植物の生殖行為に昆虫を含む動物を関与させている植物が
まさに生々しく「生きているんだ」ということが腹の底から認識できた。
そういう意識になってようやく「植物も生き物だ」ということが実感できたというわけ。
そうこうするうちに
品種改良なんてしている人間が植物をコントロールしているという意識は単なる錯覚で
実は植物の方が自分隊の子孫繁栄のために人間を含む動物をうまくコントロールしているんじゃないかという風に変わってきた。
そういう目であらためて植物たちを眺めると
その生態がまさにその通りなんじゃないかと思えるようになってきている。
「コントロールしているはずの側が、実はコントロールされていた」なんて
なんだかすごく面白いよね。