「里山」の定義って、今ひとつピンっとこないのですが、一般的に使われている言葉なので、「里山」という表現を使いたいと思います。
広葉樹資源の話ともつながりますが、昔は、燃料となる薪や焚き付けの枝葉、肥料(緑肥)となる落ち葉などは、里山から採集してました。
採集するために、里山までの道を整備したり、薪に適したコナラやクヌギなどの木を維持するために、自然(植生遷移)をコントロールしてきました。
人が山に関わってきたことで、本来なら自然の生存競争に負ける樹木や野草が残り、繁栄し、逆に、生存競争に勝つハズだった樹木や野草は、抑制された。
そして、燃料革命以後、薪の利用がなくなり、肥料も化学肥料に代わり、落ち葉を採集することもなくなったため、自ずと「里山と人の関係」は希薄に・・・
やがて、人の手が加わらなくなった里山では、自然の生存競争が再開され、「強い者が勝つ」時代に戻り、立場が逆転。
今、貴重だと言われている植物らが、生存競争に負け、その姿が消えつつあります(それに依存していた昆虫類も・・・)
分かりやすい昆虫やと、カブトムシやクワガタムシなどがいい例ですが、以前に紹介したモンクロベニカミキリにも当てはまると思います。
(コナラやクヌギに集まるカミキリにとって、薪炭林の喪失=生活圏の喪失・・・です。)
でも、モンクロベニカミキリはカブトムシやクワガタムシ程、影響は少ない方だと思いますが
「古き良き日本を」というわけではありませんが、貴重な植物を取り戻そうと、里山整備・里山利用に取り組んでいる人たちがいます
収入を目的とする取り組みもありますが、いずれも里山利用はいわゆる生物多様性や林地などの保全にも繋がるという評価が定着しています。
山主にとって、山は資産。
でも、持ち山が「自然文化」という価値があると認識している、「自分の山って、こんな価値があるのか」という喜びを感じる山主って、どれくらいいるんでしょう?
何もしなくても山に税金はかかります。
むしろ、木材価格のことを考えると何もしないほうが、さらなる労力も経費もかからない。
そういう背景が、山主から 「自然文化」という価値の喜び・誇りを喪失させてしまっているような気がします・・・。
今のところ、自分の山・畑(というか親の山・畑)に、そんな貴重なものは存在しませんが、利用することで、貴重な植物が戻ってきたらいいな・・・と思っています。
そうしたら、自分の山・畑に自信が持てるような気がします。
いつか、そういう日が来ないかな・・・と思う今日この頃