★みずきの女子知韓宣言 http://oboega-01.blog.jp/ より 私自身がビックリしました内容ですから、皆さんにも ぜひ 読んで頂きたいと思って転載しました。
★私たちは対人緊張症や神経症、鬱病の人たちと同じように、韓国の反日の情報がとてもとても不足していて正しい判断が出来ていなかったとつくづく思います。
はっきり言って『知らされていなかった』という言葉が最も適切だと思います。
★私自身も10年くらい前までは韓国にもっと謝罪をしないといけないと思っていましたし、慰安婦の話も信じていました。
それが、調べれば調べるほど、韓国の言う事は大嘘だらけなのです。
そもそも、お人好しの日本人がそんなにひどい事が出来るわけがないのです。
しかし、お人好しの日本人からしたら、「まさかそこまでこんなひどい嘘を言うわけがないよね」と自分はしない、自分は出来ないから、韓国人もしないだろう、出来ないだろうから本当なのだろうか? と騙されていたのです。
韓国人(朝鮮人)は日本人とは全く別の 下等な生き物 だと思わざるを得ません。
【韓国の反応】韓国人「日本は米や土地の収奪などしていない。明確な証拠があるのに、韓国人はそれを知らず、収奪されたと思い込んでいる」
カテゴリ趙甲濟ドットコム歴史認識
日帝時代、収奪はなかった。
趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから正解と不正解
日本の収奪? (転載)
正解と不正解
日帝時代、収奪はなかった。
反日清算
http://blog.naver.com/akcxak7070/220063768286(←ここが引用元のようですが、もう消えてます)
韓国人が持っている集団の記憶は、一言で要約すると「収奪」です。
日本の朝鮮統治は収奪しかなかったというものです。
正当な対価を払わずに、他人の財産を奪う行為が収奪です。
過去60年間、国史教科書がそうやって国民に教えてきました。
だから今日のほとんどの韓国人は、そう信じていますね。
国史教科書をもう少し詳しくご紹介いたします。
2001年に発行された高校国史教科書を見ると、
「日本は世界史において類を見ないほど徹底して悪辣な方法で私たちの国を抑圧し、収奪した。」と書かれています。
例えば総督府は、土地調査事業(1910〜1918)を介して、全国の農地の4割にもなる多くの土地を国有地として収奪したと書き、その土地を日本から移住してきた日本の農民や東洋拓殖株式会社のような国策会社に安値で払い下げたと描きました。
また総督府は、生産された米の半分を奪い、日本へと運んでいったとし、農業して作ったものすべてを警察と憲兵が銃剣を突きつけて半分奪っていったというように…
そういうふうに解釈できる文脈で、韓国の学生たちを教えてきました。
また日本は、労働力を収奪したと書きました。
1940年代の戦時期に、約650万人の朝鮮人を前線や工場や炭鉱に強制連行し、賃金を与えずに奴隷のように働かせていたと書いているのです。
その中には朝鮮の少女たちもいて、挺身隊という名目で朝鮮の少女たちを動員し、日本軍の慰安婦にしましたが、その数は数十万に達すると教科書が記述しているのです。
しかし、私はあえて言います。
こういった教科書の内容は事実ではありません。
ほとんどが操作であり、嘘であり、捏造であり、そもそも事実ではないこともあり、似たような事実があったとしても、誇張されたり誤った解釈がなされたものがほとんどです。
生産された米のほぼ半分が日本に渡っていったことは事実です。しかし米が渡っていったのは、奪っていったたものではなくて、「輸出」という市場経済の道を通じてでした。
当時は輸出ではなく、イチュと言っていました。
収奪と輸出はあまりにも違います。
収奪は朝鮮側に飢饉以外の何も残しませんが、輸出は輸出した農民と地主に輸出による収入を残します。
米が日本に輸出されたのは、総督府が強制したからではなくて、日本のほうが米の価格が30%程度高かったからです。
だから朝鮮の農民と地主は、米を自分たちが消費することなく、日本から多額のお金を受け取って販売していたのです。
米を消費せずに輸出をする農民と地主は、より多くのお金と所得を得ることができます。
その結果、朝鮮の総所得が大きくなり、経済全体が成長するようになったのです。
足りない食料は満州から、チョナ?や豆のような食糧を買ってきてカバーしていました。
だから具体的な統計推計によると、人口1人当たりのカロリー摂取量が減少したとは絶対に誰もいえないのが実情なのです。
また、輸出することによって得たお金で、綿製品などの工業製品を日本から輸入したり、最新の機械や原材料を輸入したりして、朝鮮に紡績工場を整えることができました。
実際、全羅道出身のキムソンス先生の京城紡織は、そうやって建てられた工場です。
工場には多くの朝鮮人が就職し、そこで勤労して所得を得ました。
要するに、輸出と収奪とは全く違うものであり、輸出すれば朝鮮の経済全体が成長するのです。
それなのにいったいどういう理由で韓国の教科書は、こういった平凡な常識を逆さまに書いているのでしょうか。
土地の収奪説も同じです。根拠がありません。
農地の4割という大量の土地が収奪されたというのは全く事実ではありません。
事実ではないので、当時の人からもそういった話を聞くことができません。
その点について、私は1923年に書かれたシンチェホ先生の「朝鮮革命宣言」で確認しました。
この宣言は、次のように日本の収奪を告発する内容から始まっています。
強盗の日本は私たちの国号を奪い、私たちの政権を奪い、私たちの生きる条件をすべて剥奪した。
経済の生命である森林、チョルテク、鉄道、鉱山、漁場から小工業原料まですべてを奪い、一切の生産機能を刀と斧で破壊し、土地税、家屋税、人口税、家畜税、地方税、肥料税、種税、営業税、清潔税、所得税…その他各種の雑税がどんどん増加して、血をあるだけすべてを吸って(以下略)
シンチェホ先生が「強盗の日本」の各種収奪を非難する口調は、あまりにも厳しいです。
しかしその収奪の銘柄に、米の収奪はもちろん土地の収奪も書かれてません。
まだ土地調査事業が終わってから5年しか経ってない時点でしょう?
実際に農地の4割も収奪されていたとしたら、シンチェホ先生がそれについて沈黙していたということですよね。
先生が列挙している収奪リストは、ほとんどが税金を課したという内容です。
他人の土地や米を、対価も払わず奪っていったというような収奪は、上記には含まれていません。
日帝が朝鮮人の土地を大量収奪したという神話が最初に学術論文の形で提示されたのは、1955年、日本の東京大学に留学中だったイジェムによってです。
イジェムは、土地調査事業当時、総督府が農民たちに所有していた農地を申告させた調査方式は、実は収奪のためのものだったと主張しました。
当時の農民は、所有権の概念が希薄で、申告という厳しい行政手続きに精通していなかったと書きました。
総督府はこういった農民たちに期限付きの申告を強要し、大量の無申告地が発生するように誘導したというのです。
後にそういった無申告地を国有地として没収し、日本の移民や東洋拓殖株式会社などに有利に払い下げたというのです。
ところが、このような主張をしながら、イジェムがいったい何を根拠にしたのかまったく書かれてませんでした。
ただ「そうだったに違いない」という個人的な信念に基づいた一方的な推論だったのです。
イジェムの個人的な信念は、今日の研究レベルから見ると、偏狭心が強かったというほかありません。
朝鮮時代の人々に所有権の概念が希薄だったというのは話になりません。
朝鮮時代の祖先は500年間で3年に一度、国に戸籍を申告しなければなりませんでした。
申告の手続きに慣れていなかったなんて、最初から話にならない話です。
このようにして作られ始めた土地収奪説が教科書に最初に載ったのは、1962年に歴史教育研究会という団体が作った中等国史教科書からです。(*朴正煕政権時代のことですね)
この教科書には、日本が土地調査事業を通じて土地を収奪した結果、日本人の土地が全国のほぼ半分になったと書かれました。
やはり根拠というものなどありませんでした。
続いて1967年に、ミンヨンギュが書いた教科書には、全国国土の40%が収奪されたという記述が登場しますが、それも同じく根拠のある主張ではありませんでした。(*これも朴正煕時代のこと)
しかし1960年代の教科書は、検認制度でした。
ただ、当時は複数の人が書いた教科書がいくつかあって、すべての教科書がそういうことを書いていたわけではありませんでした。
そして1974年から教科書が国定制度に変わります。(*これも朴正煕時代のこと)
それから今まで30年以上、ミンヨンギュが作った「40%収奪説」は定説として教科書に載ることになったのです。
先に述べた食糧収奪説も同様です。
1960年代までの教科書にはそういった記述はありませんでした。
国定教科書に変わった後から、「日本が食料の半分を強奪していった」というような乱暴な記述が登場することになるのです。
教科書とは別に、日本の土地収奪に関する学術研究書が出たのは1982年のことでした。
この年にシンヨンハ教授が出版した「土地調査事業の研究」(1982)は、遅くなったが日本の土地収奪を立証した研究だとして大きく歓迎されました。
イジェムとは異なり、シン教授は、日本の国有地収奪に焦点を当てました。
日本が民有を国有地に収奪しようと狂奔していた姿について、シン教授は「片手にはピストルを持ち、もう片手には測量機を持って」とあまりにも扇情的な描写をしました。
その証拠としてシン教授は、日本が収奪した国有地のいくつかの事例を提示しています。
しかしそのすべては、1918年に出版された土地調査事業の報告書に紹介された紛争事件を、シン教授が都合よく脚色したものに過ぎなかったのです。
例えば慶南金海のある土地をめぐって、慶南の長官は国有地だと主張し、民間人のある人が民有だということを主張する紛争についてのレポートがありました。それについて、それぞれの主張はこういうものでるというふうに、報告書は中立的に紹介していただけでた。
それなのにシン教授は、紛争の結果は見なくても明らかだと言って、全部が国有地という判決が出たかのように書いているのです。
そんなもの、きちんとした実証とはいえないでしょう。
シンヨンハ教授が上記の本を出版したその年に、慶尚南道金海郡の土地調査事業当時に作成された文書が大量に発見されました。
その資料を利用した論文が出はじめるのは1985年からです。
結論から述べると、朝鮮総督府は国有地をめぐる紛争の審査を非常に公正におこなっていたし、さらに本来は国有だったとしても、民有的な根拠がそこそこ満たされるなら、民有という判決を大らかに出していたことが分かったのです。
そういった紛争を経て、残りが国有地とされましたが、全国計484万町歩の土地のうち、12.7万町歩に過ぎませんでした。
しかもそのほとんどは、1924年までに、日本人移民ではなくて朝鮮人の小作農に有利な条件で払い下げられました。
1997年、数人の研究者が土地調査事業当時の元の資料に基づいて<土地調査事業の研究>(民音社、1997)という研究書を出版しました。
以来、以前のような乱暴な収奪説は弱くはなりました。
それでも教科書の記述は、今も変化がありません。
そして一度作られた大衆の記憶が権力を握るようになって、簡単には消えません。
先進社会なら、こんなことが起きるのは難しいです。
しかし後進社会では、一度権力化した大衆の集団記憶は、既得権勢力となり、なかなか自分たちの既得権を手放さないのです。
私は韓国社会はまだこういった後進社会の特質がたくさんあると思います。
韓国社会がこういった後進的な側面をなくすことができないのは、商業化された民族主義に大きな原因があると思います。
たとえばシンヨンハ教授は「片手にはピストルを持ち、もう片手には測量機を持って」と書きましたが、実際にピストルが発射された事件なんて一つも記録がないのです。
歴史家にも限界があり、小説家の創作に苦しむことがあります。
1994年から出版されはじめた趙廷来の長編歴史小説「アリラン」九巻がその良い例です。
なんと3万部売れた小説です。
この小説の前半は、土地調査事業の当時を舞台にしています。
この小説の中で、事業の実務を担当していた朝鮮人が、日本人巡査と結託し、申告について知識のない愚かな農民の土地を収奪していきます。
土地を奪われた農民が抗議すると、担当していた朝鮮人が殴って怪我をさせます。
すると日本人巡査は、その農民を木に縛り、即決処分で銃殺するという場面があります。
小説家の想像力が行き過ぎていて鳥肌が立つ状況です。
この小説家は、当時は植民地だったが法が生きていたという事実を完全に無視しています。
一介の巡査が勝手に人を即決処刑なんてできません 。
1911年の朝鮮刑事令のいったいどこにそんな条項があるのか聞いてみたいです。
本意ではなかったとされてますが、その小説には、朝鮮民族は近所の人が罪なく銃殺されても、ただ見ているだけの弱くて臆病極まりない野蛮人だったように描かれています。
果たしてそうだったのでしょうか。
朝鮮人は申告というものが何なのか知らない無知な民族で、近所の人が白昼に何の罪もなく銃殺されてもただ知らないふりをして無視してしまう民族だったのですか?
[出処]日帝時代、収奪はなかった。|著者はスターンジャックというID名
正解と不正解
★私たちは対人緊張症や神経症、鬱病の人たちと同じように、韓国の反日の情報がとてもとても不足していて正しい判断が出来ていなかったとつくづく思います。
はっきり言って『知らされていなかった』という言葉が最も適切だと思います。
★私自身も10年くらい前までは韓国にもっと謝罪をしないといけないと思っていましたし、慰安婦の話も信じていました。
それが、調べれば調べるほど、韓国の言う事は大嘘だらけなのです。
そもそも、お人好しの日本人がそんなにひどい事が出来るわけがないのです。
しかし、お人好しの日本人からしたら、「まさかそこまでこんなひどい嘘を言うわけがないよね」と自分はしない、自分は出来ないから、韓国人もしないだろう、出来ないだろうから本当なのだろうか? と騙されていたのです。
韓国人(朝鮮人)は日本人とは全く別の 下等な生き物 だと思わざるを得ません。
【韓国の反応】韓国人「日本は米や土地の収奪などしていない。明確な証拠があるのに、韓国人はそれを知らず、収奪されたと思い込んでいる」
カテゴリ趙甲濟ドットコム歴史認識
日帝時代、収奪はなかった。
趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから正解と不正解
日本の収奪? (転載)
正解と不正解
日帝時代、収奪はなかった。
反日清算
http://blog.naver.com/akcxak7070/220063768286(←ここが引用元のようですが、もう消えてます)
韓国人が持っている集団の記憶は、一言で要約すると「収奪」です。
日本の朝鮮統治は収奪しかなかったというものです。
正当な対価を払わずに、他人の財産を奪う行為が収奪です。
過去60年間、国史教科書がそうやって国民に教えてきました。
だから今日のほとんどの韓国人は、そう信じていますね。
国史教科書をもう少し詳しくご紹介いたします。
2001年に発行された高校国史教科書を見ると、
「日本は世界史において類を見ないほど徹底して悪辣な方法で私たちの国を抑圧し、収奪した。」と書かれています。
例えば総督府は、土地調査事業(1910〜1918)を介して、全国の農地の4割にもなる多くの土地を国有地として収奪したと書き、その土地を日本から移住してきた日本の農民や東洋拓殖株式会社のような国策会社に安値で払い下げたと描きました。
また総督府は、生産された米の半分を奪い、日本へと運んでいったとし、農業して作ったものすべてを警察と憲兵が銃剣を突きつけて半分奪っていったというように…
そういうふうに解釈できる文脈で、韓国の学生たちを教えてきました。
また日本は、労働力を収奪したと書きました。
1940年代の戦時期に、約650万人の朝鮮人を前線や工場や炭鉱に強制連行し、賃金を与えずに奴隷のように働かせていたと書いているのです。
その中には朝鮮の少女たちもいて、挺身隊という名目で朝鮮の少女たちを動員し、日本軍の慰安婦にしましたが、その数は数十万に達すると教科書が記述しているのです。
しかし、私はあえて言います。
こういった教科書の内容は事実ではありません。
ほとんどが操作であり、嘘であり、捏造であり、そもそも事実ではないこともあり、似たような事実があったとしても、誇張されたり誤った解釈がなされたものがほとんどです。
生産された米のほぼ半分が日本に渡っていったことは事実です。しかし米が渡っていったのは、奪っていったたものではなくて、「輸出」という市場経済の道を通じてでした。
当時は輸出ではなく、イチュと言っていました。
収奪と輸出はあまりにも違います。
収奪は朝鮮側に飢饉以外の何も残しませんが、輸出は輸出した農民と地主に輸出による収入を残します。
米が日本に輸出されたのは、総督府が強制したからではなくて、日本のほうが米の価格が30%程度高かったからです。
だから朝鮮の農民と地主は、米を自分たちが消費することなく、日本から多額のお金を受け取って販売していたのです。
米を消費せずに輸出をする農民と地主は、より多くのお金と所得を得ることができます。
その結果、朝鮮の総所得が大きくなり、経済全体が成長するようになったのです。
足りない食料は満州から、チョナ?や豆のような食糧を買ってきてカバーしていました。
だから具体的な統計推計によると、人口1人当たりのカロリー摂取量が減少したとは絶対に誰もいえないのが実情なのです。
また、輸出することによって得たお金で、綿製品などの工業製品を日本から輸入したり、最新の機械や原材料を輸入したりして、朝鮮に紡績工場を整えることができました。
実際、全羅道出身のキムソンス先生の京城紡織は、そうやって建てられた工場です。
工場には多くの朝鮮人が就職し、そこで勤労して所得を得ました。
要するに、輸出と収奪とは全く違うものであり、輸出すれば朝鮮の経済全体が成長するのです。
それなのにいったいどういう理由で韓国の教科書は、こういった平凡な常識を逆さまに書いているのでしょうか。
土地の収奪説も同じです。根拠がありません。
農地の4割という大量の土地が収奪されたというのは全く事実ではありません。
事実ではないので、当時の人からもそういった話を聞くことができません。
その点について、私は1923年に書かれたシンチェホ先生の「朝鮮革命宣言」で確認しました。
この宣言は、次のように日本の収奪を告発する内容から始まっています。
強盗の日本は私たちの国号を奪い、私たちの政権を奪い、私たちの生きる条件をすべて剥奪した。
経済の生命である森林、チョルテク、鉄道、鉱山、漁場から小工業原料まですべてを奪い、一切の生産機能を刀と斧で破壊し、土地税、家屋税、人口税、家畜税、地方税、肥料税、種税、営業税、清潔税、所得税…その他各種の雑税がどんどん増加して、血をあるだけすべてを吸って(以下略)
シンチェホ先生が「強盗の日本」の各種収奪を非難する口調は、あまりにも厳しいです。
しかしその収奪の銘柄に、米の収奪はもちろん土地の収奪も書かれてません。
まだ土地調査事業が終わってから5年しか経ってない時点でしょう?
実際に農地の4割も収奪されていたとしたら、シンチェホ先生がそれについて沈黙していたということですよね。
先生が列挙している収奪リストは、ほとんどが税金を課したという内容です。
他人の土地や米を、対価も払わず奪っていったというような収奪は、上記には含まれていません。
日帝が朝鮮人の土地を大量収奪したという神話が最初に学術論文の形で提示されたのは、1955年、日本の東京大学に留学中だったイジェムによってです。
イジェムは、土地調査事業当時、総督府が農民たちに所有していた農地を申告させた調査方式は、実は収奪のためのものだったと主張しました。
当時の農民は、所有権の概念が希薄で、申告という厳しい行政手続きに精通していなかったと書きました。
総督府はこういった農民たちに期限付きの申告を強要し、大量の無申告地が発生するように誘導したというのです。
後にそういった無申告地を国有地として没収し、日本の移民や東洋拓殖株式会社などに有利に払い下げたというのです。
ところが、このような主張をしながら、イジェムがいったい何を根拠にしたのかまったく書かれてませんでした。
ただ「そうだったに違いない」という個人的な信念に基づいた一方的な推論だったのです。
イジェムの個人的な信念は、今日の研究レベルから見ると、偏狭心が強かったというほかありません。
朝鮮時代の人々に所有権の概念が希薄だったというのは話になりません。
朝鮮時代の祖先は500年間で3年に一度、国に戸籍を申告しなければなりませんでした。
申告の手続きに慣れていなかったなんて、最初から話にならない話です。
このようにして作られ始めた土地収奪説が教科書に最初に載ったのは、1962年に歴史教育研究会という団体が作った中等国史教科書からです。(*朴正煕政権時代のことですね)
この教科書には、日本が土地調査事業を通じて土地を収奪した結果、日本人の土地が全国のほぼ半分になったと書かれました。
やはり根拠というものなどありませんでした。
続いて1967年に、ミンヨンギュが書いた教科書には、全国国土の40%が収奪されたという記述が登場しますが、それも同じく根拠のある主張ではありませんでした。(*これも朴正煕時代のこと)
しかし1960年代の教科書は、検認制度でした。
ただ、当時は複数の人が書いた教科書がいくつかあって、すべての教科書がそういうことを書いていたわけではありませんでした。
そして1974年から教科書が国定制度に変わります。(*これも朴正煕時代のこと)
それから今まで30年以上、ミンヨンギュが作った「40%収奪説」は定説として教科書に載ることになったのです。
先に述べた食糧収奪説も同様です。
1960年代までの教科書にはそういった記述はありませんでした。
国定教科書に変わった後から、「日本が食料の半分を強奪していった」というような乱暴な記述が登場することになるのです。
教科書とは別に、日本の土地収奪に関する学術研究書が出たのは1982年のことでした。
この年にシンヨンハ教授が出版した「土地調査事業の研究」(1982)は、遅くなったが日本の土地収奪を立証した研究だとして大きく歓迎されました。
イジェムとは異なり、シン教授は、日本の国有地収奪に焦点を当てました。
日本が民有を国有地に収奪しようと狂奔していた姿について、シン教授は「片手にはピストルを持ち、もう片手には測量機を持って」とあまりにも扇情的な描写をしました。
その証拠としてシン教授は、日本が収奪した国有地のいくつかの事例を提示しています。
しかしそのすべては、1918年に出版された土地調査事業の報告書に紹介された紛争事件を、シン教授が都合よく脚色したものに過ぎなかったのです。
例えば慶南金海のある土地をめぐって、慶南の長官は国有地だと主張し、民間人のある人が民有だということを主張する紛争についてのレポートがありました。それについて、それぞれの主張はこういうものでるというふうに、報告書は中立的に紹介していただけでた。
それなのにシン教授は、紛争の結果は見なくても明らかだと言って、全部が国有地という判決が出たかのように書いているのです。
そんなもの、きちんとした実証とはいえないでしょう。
シンヨンハ教授が上記の本を出版したその年に、慶尚南道金海郡の土地調査事業当時に作成された文書が大量に発見されました。
その資料を利用した論文が出はじめるのは1985年からです。
結論から述べると、朝鮮総督府は国有地をめぐる紛争の審査を非常に公正におこなっていたし、さらに本来は国有だったとしても、民有的な根拠がそこそこ満たされるなら、民有という判決を大らかに出していたことが分かったのです。
そういった紛争を経て、残りが国有地とされましたが、全国計484万町歩の土地のうち、12.7万町歩に過ぎませんでした。
しかもそのほとんどは、1924年までに、日本人移民ではなくて朝鮮人の小作農に有利な条件で払い下げられました。
1997年、数人の研究者が土地調査事業当時の元の資料に基づいて<土地調査事業の研究>(民音社、1997)という研究書を出版しました。
以来、以前のような乱暴な収奪説は弱くはなりました。
それでも教科書の記述は、今も変化がありません。
そして一度作られた大衆の記憶が権力を握るようになって、簡単には消えません。
先進社会なら、こんなことが起きるのは難しいです。
しかし後進社会では、一度権力化した大衆の集団記憶は、既得権勢力となり、なかなか自分たちの既得権を手放さないのです。
私は韓国社会はまだこういった後進社会の特質がたくさんあると思います。
韓国社会がこういった後進的な側面をなくすことができないのは、商業化された民族主義に大きな原因があると思います。
たとえばシンヨンハ教授は「片手にはピストルを持ち、もう片手には測量機を持って」と書きましたが、実際にピストルが発射された事件なんて一つも記録がないのです。
歴史家にも限界があり、小説家の創作に苦しむことがあります。
1994年から出版されはじめた趙廷来の長編歴史小説「アリラン」九巻がその良い例です。
なんと3万部売れた小説です。
この小説の前半は、土地調査事業の当時を舞台にしています。
この小説の中で、事業の実務を担当していた朝鮮人が、日本人巡査と結託し、申告について知識のない愚かな農民の土地を収奪していきます。
土地を奪われた農民が抗議すると、担当していた朝鮮人が殴って怪我をさせます。
すると日本人巡査は、その農民を木に縛り、即決処分で銃殺するという場面があります。
小説家の想像力が行き過ぎていて鳥肌が立つ状況です。
この小説家は、当時は植民地だったが法が生きていたという事実を完全に無視しています。
一介の巡査が勝手に人を即決処刑なんてできません 。
1911年の朝鮮刑事令のいったいどこにそんな条項があるのか聞いてみたいです。
本意ではなかったとされてますが、その小説には、朝鮮民族は近所の人が罪なく銃殺されても、ただ見ているだけの弱くて臆病極まりない野蛮人だったように描かれています。
果たしてそうだったのでしょうか。
朝鮮人は申告というものが何なのか知らない無知な民族で、近所の人が白昼に何の罪もなく銃殺されてもただ知らないふりをして無視してしまう民族だったのですか?
[出処]日帝時代、収奪はなかった。|著者はスターンジャックというID名
正解と不正解