12月21日(土)、晴。
今日も冬空。寒いです。
画像は、大阪一流の財界人が集う4階建ての社交クラブ、大阪倶楽部。
大阪の中心地、堂島通りから一本南に入った今橋通りにあって、建物は大正年間に建てられて、およそ100年が経過しています。
先日、テレビを見ていたら、この建物の映像が出ていました。
何でも古い写真をもとにその場所を探し当て、今の姿をカメラに収めようとする「今昔散歩」という番組で、それを見て、直ぐに「大阪倶楽部」だと分かりました。
もう30年かそれ以上前の話ですが、佇まいは今もその頃と変わりがなく、過っては何度かここを尋ねたことがあります。
普段は会員しか入れないのですが、このクラブの会長をなさっているMさんから「倶楽部にある将棋駒や関連グッズをみて欲しい」ということで、丁度、私が当時勤務していた場所にも近く、終業後の夕方に訪れることが多かった。
館内はリッチな高級クラブらしく、立派な調度品や遊びの施設が充実。盤駒は当然ながら一級品ばかり。大山名人が来訪した痕跡も残されておりました。
それを背景に、私も「駒の話」か何か、お話させていただいたような朧げな記憶もあります。
テレビを見てそんな記憶が蘇ったのでしたが、この間、私の本を見たⅯさん(私より10歳くらい先輩?)から直々に、「又、来ませんか」とのお誘い電話を、いただいたばかりでもありました。
偶然とは、重なるものなのでありますね。
では、今日は此処まで。
12月19日(木)、曇りと雨。
北風強い、寒い一日でした。
将棋ペン俱楽部・冬号が届きました。
表紙は先の大賞授賞式の写真。皆さんは、お元気のようで何よりと存じます。
小生は事情で欠席し、関係者皆さんには申し訳なかったことでありました。
ページをめくると、受賞者7人それぞれを描いたバトルロイヤル風間さんの4コマ漫画。
最後に、小生の似顔絵に続いて、代読をお願いした湯川博士さんの様子。
大変、お手数をおかけしてしまいましたこと、御礼申し上げる次第です。
そういえば、バトルロイヤルさんによる似顔絵。
10年か15年くらい前になりますかね。一度、描いていただいたことがあります。
その似顔絵は、今でも仕事場に飾らせていただいております。
あ、そうそう、木村一基先生の祝賀会会場でしたね。
その節は、ありがとうございました。
それにしても、仕事場の似顔絵。
仕事場に尋ねてくれた方、見つけてもらったのかどうか。
気が付いた方は、少ないのかもしれません。
12月18日(水)、晴。
冬至はもうすぐ。朝は日の出とともに起き、日の入りとともに仕事を終える毎日。
天候にもよりますが、気のせいか、この数日は日の入りが少し遅くなったような。そんな感じがしています。
と言いますのも、少し前は17時を聞く頃は周りは薄暗く、今日は同じ17時でも山の端には明るさが残っていて、そんな気配がしています。
漆仕事をしたいのですが、この寒さで漆は当分、敬遠するのが良いと諦めて、冬場はこんな感じで、気分はウツウツ。
とは言え、貧乏人の性なのでしょう、何かの仕事を捜しつつ、毎日を過ごす昨日今日ではあります。
12月16日(月)、晴。
八王子市在住のFさんから電話をいただきました。
何でも「今朝の読売新聞・編集手帳に水無瀬の話が出ている。あれは熊澤さんの書いたものか?」との問い合わせでした。
Fさんとは、以前、何度か手紙を貰ったり、私自身もお尋ねしたこともある人で、専ら「菱湖」がお好きな方です。
当方は、新聞記者ではありませんし・・、と思いながら、
「あっそうですか。その記事は見ていません。早速、新聞を買って見ることにします」。ということで、すぐさま近くのコンビニに行って朝刊を買い求めました。
内容は正しいところも多い中で、一部、これはどうかなと少々懐疑的に「??」を思わせるところもあって、これを書いた記者は誰だろうか、と。
読売新聞には予てより知己の記者もいるのですが、多分、私の知らない将棋好きの記者だろうとは思うのですがね。
今日は、いつもと違っての話題でした。
12月14日(土)、雨。
所要で大阪の八尾に行ってきました。
大阪行きは久しぶり。今日は12月の土曜日ということで車は多く、年の暮れが近いのを感じました。
画像は、庭先に咲いた冬の花。山茶花の花。
「本」のことですが、最近はボツボツとではありますが、ときおり「在庫はありますか?」と問い合わせを受けることがあります。
「在庫はあります」。
「本」は、この1年で全体の3/4くらい出払いましたが、今のところまだ300部近くはありますので、ご入用の時はご心配なくご注文ください。
2回目の名人戦に使っていただいたところまで書きました。
その続きです。
11年余りが経って、ある時、第76期名人戦が奈良で開催されることを知りました。
「ウン? 奈良興福寺で」ということで、ある思いが涌いてきました。奈良は、長いこと住んでいたところだし、この加茂は車で25分くらいと、興福寺にも近い。
思いは、「盤を三度の名人戦。今回の興福寺の名人戦で使ってもらえないだろうか」と、いうことでした。対局者は、佐藤天彦名人対羽生善治挑戦者。
ひと月ほど考えて「ヨシ。お願いしてみよう」と、お願いすることにしました。後は、経過待ちです。
2週間ほど経って、幸運にも結果は吉。
ということで、12年ぶりに名人戦で使っていただくことになりました。もちろん、駒も一緒。
前日の夕刻、対局室での検分では、盤の由来について、皆さんに説明させていただきました。
実に幸運。
名人戦に、3回も使っていただいたのは、実に幸運。
それも、52期、64期、そして76期と、12年毎にです。
米長流で言うと、この時も「幸運の女神がほほ笑んでくれた」と、いうことだと思います。
以上で、このシリーズは終了です。
なお、別件ですが、奈良での名人戦は、61期戦でも行われました。
この時は、神吉先生の肝いりでの誘致開催で、森内名人対羽生挑戦者の対局でした。
この時の盤駒は、奈良在住の方の持ちの物でしたが、駒は小生作の「菱湖」。盤は小生の斡旋でお渡ししたものでした。
当時は、NHKによるテレビ中継があって、アナウンサーは村上信夫さんによるものでしたが、後半、村上さんによる呼びかけで、小生もライブ画面に初出演と相成りましたが、何を話したのかは、とんと覚えてはおりません。
12月13日(金)、曇り。
このところ、日中でも10℃と、寒い日々が続きます。
その駒づくりの漆ですが、中々乾かない。
湿気を加えて固まらそうとするのですが、中々乾かず固まらない。
自然には勝てません。
この時期の漆仕事はほどほどが良いと、あきらめました。
代わって、何をするかですが、作成途上の駒の磨きに専念。
盛り上げの一歩手前の段階です。
磨いて磨いて、磨きにはキリがないので、繰り返し磨いて磨いて。
まあ、そういうことで、慌てず騒がず。
時間のままにです。
今日はこんな話でした。
この前は、山口県湯田温泉での名人戦で盤が使われた経緯について書きました。それから10年ほど経った秋のことです。
石川県にある北陸科学技術先端大学院大学(飯田弘之先生)からの要請で、駒の話をする機会をいただきました。
講演が終わって、大学が予定してくれていた辰口温泉の宿(まつさき)に降り立って、「おお、これは!」と思いました。
佇まいが、将棋タイトル戦に相応しい。そう思いました。
フロントで手続きをしながら、「社長さんはおいでですか。少しお話したいことがあります」と、社長さんに、3~40分、話を聞いてもらいました。
「将棋には7つのタイトル戦があり、年間を通して開かれています。こちらの佇まいを拝見して、タイトル戦にピッタリだと思いました。
誘致されてはいかがですか。金銭的には潤うことにはなりません。でも、全国紙がスポンサーで、NHKテレビでの全国放送もあり、広告面でのメリットは大きいと思います。ですので、繁忙期でない時期でがお勧めです」。
「そうですね。4月5月なら・・」。
「あ、そうですか。4月5月なら毎日新聞主催の名人戦。ただし、2年くらいは後になるかもしれません。この足で、私の方から希望を伝えることにします」。
それから一月ほどして、毎日新聞から「石川県の件。社長さんと話をしたいので、伝えてください」と。
このような経過で1か月後、社長さんが大阪に来て、その席に小生も同席することになり、会話は、次のようなモノでした。
「来年の名人戦。第1局から4局までの開催場所は決まっていて、5局の以降は未定で、6局目はどうか。必要な部屋は対局室のほか大盤解説など全部で15部屋ほど。だが、最悪、2週間前に終了して、キャンセルになることもある」。
「分かりました。よろしくお願いしたい」。と、運よく話は進みました。
年が明けての第64期名人戦。
名人は森内さん。挑戦者は谷川さん。幸い戦いは6局目まで進み、盤と駒は小生が準備して、対局場に向かい、盤はもちろん「実力名人戦ゆかりの盤」。
以上が名人戦での2度目の使用となった、経緯でありました。
次は、3度目の名人戦使用について、述べたいと思います。
前回の続きです。
その頃、私は日本将棋連盟の月刊誌「将棋マガジン」で、執筆をしており、名人戦米長名人対羽生挑戦者、第2局の取材で愛知県蒲郡の銀波荘へ行っておりました。
楽屋裏の控室では、立ち合いの先生、新聞記者に交じって私も話し込んだりしていたのですが、担当の加古明光記者に「この前、昭和10年に始まった実力名人戦ゆかりの将棋盤を手に入れました。それには昭和11年2月と関根名人の署名と、贈・阿部真之助殿とある」と話したところ、その盤を次の第3局に持ってこれるか」とのこと。
私は飛び上がって喜んで「ハイ、持ってゆくようにします」。
その3週後、奈良から山口県にある湯田温泉へ。
対局前日の検分でのこと。対局場には、2面の将棋盤が中央に並べられており、やがて対局者が入室。
一方の盤は既に予定されているモノで7寸近く、その横が私の盤で高さは5寸2分。その差は5センチくらいの違いがありました。
やがて、加古記者から、こちらは「実力戦ゆかりのもの」だとの説明があって、部屋は暫し静寂。
その間、およそ2分ほど。私は下手の片隅で息を殺しての緊張で、長い時間でした。
やがて、米長名人。「ヨシ、二つの盤を日替わりで使おう」。
私はホッと力が抜けたようで、初日に使っていただくことになったのでした。
盤には、米長名人によっての「曙」に、両対局者の署名。
「曙」は、将棋界の曙となった実力名人戦ゆかりの盤、という意味を込めて、これは私が寝ながら考えたもので、丁度その頃、横綱・曙も誕生し、私にとってはこれを取り持った加古記者の名前、明光(=曙)ということも含めてのものでした。
この続き。まだまだ。
ではこの次に。
先の話の続きです。
この盤、さてどうするか。
ブログではどうするかと段落をつけましたが、その時の私は、とにかく買いたい気持ちいっぱいでした。
「この盤は、どうして手に入れたのですか?」と聞くと、「この間、さるお屋敷で披露販売会があって、立派な碁盤、将棋盤がいくつも並んでいました。その中で、これを落札したわけです」。
「そうですか。その、さるお屋敷というのは文京区では?」と問うと、「よく分かりましたね。しかし、それ以上のことは、商売上の仁義なので話せません」。
私には、実は思い当たることがありました。
と言いますのも、あるとき上京して、よく立ち寄っていた水道橋のM碁盤店を訪れたときのこと、店主曰く「文京区に財閥の当主がいて、その人は碁盤、将棋盤の収集が趣味で、すばらしいのをいくつも集めて、自分でも脚を作ったりで、鋸の目立てやノミの研磨などをこちらがやっている。時々ここにも来るのだが、今はコレクションの収納展示室を普請中で、その内、お屋敷にお連れしようか」。「ハイ、普請が終りましたら、連れて行ってください」と。
だが、最近になって尋ねたときには「あの話、当主が亡くなってしまった」と。残念に思っていたところだったので、骨董屋の話にピーンと反応したのでした。
ところで、示された値段はかなりなもの。我が家の経費の半年分くらい。
ザーッと盤を確認して、「買いたいと思っている。だが相談するところもあるので2~3日待って欲しい。それまでは厳重に箱に入れて、キズがつかないように、奥に直しておいてほしい」と、あわただしく、千葉に向かいました。
その途中、どこだったか、総武線の乗換駅で時間があったので、家内に電話。「東京に将棋盤があって、このようなモノはこれからは出会わない。コレコレの値段だが、許可が欲しい」ということで、許可を得て、骨董屋に「買うことにした。値段はこれぐらいにしてほしい」と。購入契約を終えたのでした。
話は、まだ続きがあります。
それはこの次。