9月30日(水)、晴れ。
朝から上天気。
爽やか。
秋らしい気候に成りました。
ーーーー
水無瀬の続き。
「八十二才」の駒に出会ったのは、昭和51年頃。
それから30数年が経って、400年前の作り方に倣って、漆の肉筆で再現することにしました。
出会った頃には自信が無かったのですが、30数年が経過した中で、何とかできそうだとの思いです。
その思いは、大阪商業大学の谷岡学長の依頼で作った「大局将棋」の経験。
804枚の駒の裏表を、漆の肉筆一筆で書き上げた。
これで、何とかできそうだと思えるようになりました。
駒の大きさ、形は、最初に出会った時、宮司さんにいただいた便箋に写しとった駒の型紙です。
文字は、写真を見ながら、駒に書き写す作業。
自分の文字なら一文字は数10秒程度ですが、10倍は掛かり大変難しい作業でした。
出来上がった最初の駒は、今も手元にありますので、今日、撮影してご覧いただこうと思います。
中々書き進みませんが、これで朝食の時間になりました。
写真と、この続きは後ほどに。
朝から上天気。
爽やか。
秋らしい気候に成りました。
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水無瀬の続き。
「八十二才」の駒に出会ったのは、昭和51年頃。
それから30数年が経って、400年前の作り方に倣って、漆の肉筆で再現することにしました。
出会った頃には自信が無かったのですが、30数年が経過した中で、何とかできそうだとの思いです。
その思いは、大阪商業大学の谷岡学長の依頼で作った「大局将棋」の経験。
804枚の駒の裏表を、漆の肉筆一筆で書き上げた。
これで、何とかできそうだと思えるようになりました。
駒の大きさ、形は、最初に出会った時、宮司さんにいただいた便箋に写しとった駒の型紙です。
文字は、写真を見ながら、駒に書き写す作業。
自分の文字なら一文字は数10秒程度ですが、10倍は掛かり大変難しい作業でした。
出来上がった最初の駒は、今も手元にありますので、今日、撮影してご覧いただこうと思います。
中々書き進みませんが、これで朝食の時間になりました。
写真と、この続きは後ほどに。
関西駒の会、住谷考蔵さんからの便りです。
趣味で、駒も駒箱も作っておられます。
数年前に、京都の工芸専門学校を卒業して、現在は家具工房にて修行中の住谷さん。
新進気鋭。
このほど日本伝統工芸展に入選したとの便りをいただきました。
作品は、どのようなものか詳しくは分かりませんが、木竹工芸の領域。
拝見しに行こうと思っています。
その京都展は10月7日から12日まで。
趣味で、駒も駒箱も作っておられます。
数年前に、京都の工芸専門学校を卒業して、現在は家具工房にて修行中の住谷さん。
新進気鋭。
このほど日本伝統工芸展に入選したとの便りをいただきました。
作品は、どのようなものか詳しくは分かりませんが、木竹工芸の領域。
拝見しに行こうと思っています。
その京都展は10月7日から12日まで。
9月26日(日)、曇り。
今日は日曜日。
光陰矢の如し。
とは言え、またまた一週間が経ちました。
ーーーー
水無瀬の話は、チョッと一服して、只今制作中の画像。
書体は、無双。
木地は、キツイ虎斑。
漆を埋めて研ぎ出している途中。
漆を埋め終わる直前の状態。
彫り始めた時は平らだった表面。
その表面が漆と木地との斑模様。
室で漆を固めている間に、平らだった表面が波打つ。
暫く放置すると落ち着きますが、完全には戻らない。
これを、木地が暴れる、と言います。
この間、駒づくりを初めて間もないkさんとの電話で、木が暴れる話をしていました。
映像は、その実例。
ーーーー
チョッとした郵便局とのやり取り。
昨日の昼、ピンポーン。
現金書き止めの配達です。
良く見ると、宛名は「博堂書」。
オヤッと思い、確かめると住所は、この番地。
しかし、宛名が違うので、確認のため郵便物を一旦持って帰って貰いました。
夕方になっても郵便局からは何の音沙汰もありません。
手元には「配達不在票」が残っています。
ハハーンと思いました。
郵便物は、そのまま捨て置かれているのかな。
それでは困るので、郵便局にその後の経緯を尋ねようと電話しました。
電話窓口は、女性。
「カクカクシカジカで、書き留めを持って帰られました。不在票番号はxxxxです。その後どうなりましたか?」
すると、応答は次のようなものでした。
「その番号は、局に留め置いてあります。お客様から連絡いただいてから再配達します。どうされますか」。
「どうされますかって、不在で持ち帰ったのではなく、宛名がおかしいので持ち帰られたのですよ。封筒に発信者の電話番号記入欄があるはずです。発信者に確かめていただきましたか?」。
「チョッとお待ちください。現金書き止めには、そんな記入欄はありません・・」。
「そんなことは無いでしょう。現物を見て話をしていないようですね。貴方はアルバイトですか」。
「ハイそうです」。
「では局員に変わって下さい」。
「暫くお待ちください。後ほど、こちらから電話しますので・・」。
7~8分経過。
「こちらは○○郵便局の○○ですが、書留め便のことで・・」。
「ハイ。その後どうなりましたか?」。
「1週間留めおいて、それまでにお客様から連絡があり次第、次の配達でお届けします。お客様から連絡がない時は元に送り返します・・」。
「貴方は全く状況を把握しておられないようですね。カクカクシカジカ。こんな時は局としてどんな対応をすることになっているのですか?」。
「お客様の意向に従って・・」。
「お客様って誰のことですか。発信者、それとも受取人?」。
「受取人の方です」。
「何をバカげたことを言っているのですか、受取人は博堂書?。発信者の電話番号欄があるでしょう。発信者に確かめることをしないのですか。違いますか」。
「そうですね。確かめてみます」。
「アーあ」。
と言うことで、今日の9時に結果の回答を貰うことにしています。
今日は日曜日。
光陰矢の如し。
とは言え、またまた一週間が経ちました。
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水無瀬の話は、チョッと一服して、只今制作中の画像。
書体は、無双。
木地は、キツイ虎斑。
漆を埋めて研ぎ出している途中。
漆を埋め終わる直前の状態。
彫り始めた時は平らだった表面。
その表面が漆と木地との斑模様。
室で漆を固めている間に、平らだった表面が波打つ。
暫く放置すると落ち着きますが、完全には戻らない。
これを、木地が暴れる、と言います。
この間、駒づくりを初めて間もないkさんとの電話で、木が暴れる話をしていました。
映像は、その実例。
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チョッとした郵便局とのやり取り。
昨日の昼、ピンポーン。
現金書き止めの配達です。
良く見ると、宛名は「博堂書」。
オヤッと思い、確かめると住所は、この番地。
しかし、宛名が違うので、確認のため郵便物を一旦持って帰って貰いました。
夕方になっても郵便局からは何の音沙汰もありません。
手元には「配達不在票」が残っています。
ハハーンと思いました。
郵便物は、そのまま捨て置かれているのかな。
それでは困るので、郵便局にその後の経緯を尋ねようと電話しました。
電話窓口は、女性。
「カクカクシカジカで、書き留めを持って帰られました。不在票番号はxxxxです。その後どうなりましたか?」
すると、応答は次のようなものでした。
「その番号は、局に留め置いてあります。お客様から連絡いただいてから再配達します。どうされますか」。
「どうされますかって、不在で持ち帰ったのではなく、宛名がおかしいので持ち帰られたのですよ。封筒に発信者の電話番号記入欄があるはずです。発信者に確かめていただきましたか?」。
「チョッとお待ちください。現金書き止めには、そんな記入欄はありません・・」。
「そんなことは無いでしょう。現物を見て話をしていないようですね。貴方はアルバイトですか」。
「ハイそうです」。
「では局員に変わって下さい」。
「暫くお待ちください。後ほど、こちらから電話しますので・・」。
7~8分経過。
「こちらは○○郵便局の○○ですが、書留め便のことで・・」。
「ハイ。その後どうなりましたか?」。
「1週間留めおいて、それまでにお客様から連絡があり次第、次の配達でお届けします。お客様から連絡がない時は元に送り返します・・」。
「貴方は全く状況を把握しておられないようですね。カクカクシカジカ。こんな時は局としてどんな対応をすることになっているのですか?」。
「お客様の意向に従って・・」。
「お客様って誰のことですか。発信者、それとも受取人?」。
「受取人の方です」。
「何をバカげたことを言っているのですか、受取人は博堂書?。発信者の電話番号欄があるでしょう。発信者に確かめることをしないのですか。違いますか」。
「そうですね。確かめてみます」。
「アーあ」。
と言うことで、今日の9時に結果の回答を貰うことにしています。
9月26日(土)、曇り。
「古水無瀬」の続き。
どこまで書いたか、確認のため、前回の分をコピイします。
水無瀬神宮に残る「八十二才」の駒を初めて見たのは、駒づくりを始めて2~3年が経った頃です。
410年前に書かれた、否、当時は確か380年前に書かれた気品ある古い駒を見て感動。
当時、伝統的文字として「水無瀬書」が市販されていましたが、ソレとは全然違う。
なぜかな、と思いました。
このような駒を作らねばと思ったものの、駒は作り始めたばかり、書の技量もありません。
書を勉強して、いずれは、と思いました。
丁度その頃、「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げました。
立ち上げてみると、会員は、すぐに100人を超えました。
立ち上げ前に用意していた木地50組は、すぐに無くなりました。
会員が自由に使える字母紙として「無双・淇洲・菱湖」など数種を用意。
木地に付けることにしました。
「無双」は、小生の創作。
「淇洲「は、竹内淇洲の子息・六郎さんからいただいたモノを元に。
「菱湖」の参考は、高浜禎の萬憶え帳、巻菱湖の書道手本、豊島数次郎の遺品文字帳。
合点がいかないところを排除して自分なりに工夫。
後に、「駒書体創作コンテスト」を3回開催して、およそ70種類字母が集まりました。
著作権は会に帰属を応募規定に盛り込み、会員は誰でも使って良いということにしました。
小生が創作した「空蝉」は、その中の一つ。
「古水無瀬」は、これとは別に専ら小生が作る駒の文字として、創作。
欲しいとする何人かには、丁重にお断りしているモノです。
参考は水無瀬神宮「八十二才」の駒、木村家の二つの古駒、龍山字母帳の錦旗など。
「錦旗」はそれまで、後水尾天皇の真筆駒だと言われてきたもの。
しかしそれは大橋家の作りごとがそのまま世間に流布された結果だと推論。
実際は、水無瀬兼成が書いた、四百年前に肉筆で書かれた駒だと鑑定。
そのことは、将棋世界の「博物館だより」で、書かせていただきました。
今日も時間が無くなりました。
では、また。
「古水無瀬」の続き。
どこまで書いたか、確認のため、前回の分をコピイします。
水無瀬神宮に残る「八十二才」の駒を初めて見たのは、駒づくりを始めて2~3年が経った頃です。
410年前に書かれた、否、当時は確か380年前に書かれた気品ある古い駒を見て感動。
当時、伝統的文字として「水無瀬書」が市販されていましたが、ソレとは全然違う。
なぜかな、と思いました。
このような駒を作らねばと思ったものの、駒は作り始めたばかり、書の技量もありません。
書を勉強して、いずれは、と思いました。
丁度その頃、「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げました。
立ち上げてみると、会員は、すぐに100人を超えました。
立ち上げ前に用意していた木地50組は、すぐに無くなりました。
会員が自由に使える字母紙として「無双・淇洲・菱湖」など数種を用意。
木地に付けることにしました。
「無双」は、小生の創作。
「淇洲「は、竹内淇洲の子息・六郎さんからいただいたモノを元に。
「菱湖」の参考は、高浜禎の萬憶え帳、巻菱湖の書道手本、豊島数次郎の遺品文字帳。
合点がいかないところを排除して自分なりに工夫。
後に、「駒書体創作コンテスト」を3回開催して、およそ70種類字母が集まりました。
著作権は会に帰属を応募規定に盛り込み、会員は誰でも使って良いということにしました。
小生が創作した「空蝉」は、その中の一つ。
「古水無瀬」は、これとは別に専ら小生が作る駒の文字として、創作。
欲しいとする何人かには、丁重にお断りしているモノです。
参考は水無瀬神宮「八十二才」の駒、木村家の二つの古駒、龍山字母帳の錦旗など。
「錦旗」はそれまで、後水尾天皇の真筆駒だと言われてきたもの。
しかしそれは大橋家の作りごとがそのまま世間に流布された結果だと推論。
実際は、水無瀬兼成が書いた、四百年前に肉筆で書かれた駒だと鑑定。
そのことは、将棋世界の「博物館だより」で、書かせていただきました。
今日も時間が無くなりました。
では、また。
9月25日(金)、雨模様。
雨は、引き続き昨日から。
四国、三重の南海地方では大雨とか。
ーーーー
「古水無瀬」について。
水無瀬神宮に残る「八十二才」の駒を初めて見たのは、駒づくりを始めて2~3年が経った頃です。
410年前に書かれた、否、当時は確か380年前に書かれた気品ある古い駒を見て感動。
当時、伝統的文字として水無瀬書がありましたが、ソレとは全然違う。
なぜかな、と思いました。
このような駒を作らねばと思ったものの、駒は作り始めたばかり、書の技量もありません。
書を勉強して、いずれは、と思いました。
その頃、「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げました。
立ち上げてみると、会員になった方は、すぐに100人を超えました。
希望する会員にと、用意していた木地50組は、すぐに無くなりました。
字母紙も数種を用意していました。
「無双」、「淇洲」、「菱湖」などです。
この内、「淇洲「は、竹内淇洲の子息・六郎さんからいただいたモノです。
時間が無くなりました。
この続きは、また。
雨は、引き続き昨日から。
四国、三重の南海地方では大雨とか。
ーーーー
「古水無瀬」について。
水無瀬神宮に残る「八十二才」の駒を初めて見たのは、駒づくりを始めて2~3年が経った頃です。
410年前に書かれた、否、当時は確か380年前に書かれた気品ある古い駒を見て感動。
当時、伝統的文字として水無瀬書がありましたが、ソレとは全然違う。
なぜかな、と思いました。
このような駒を作らねばと思ったものの、駒は作り始めたばかり、書の技量もありません。
書を勉強して、いずれは、と思いました。
その頃、「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げました。
立ち上げてみると、会員になった方は、すぐに100人を超えました。
希望する会員にと、用意していた木地50組は、すぐに無くなりました。
字母紙も数種を用意していました。
「無双」、「淇洲」、「菱湖」などです。
この内、「淇洲「は、竹内淇洲の子息・六郎さんからいただいたモノです。
時間が無くなりました。
この続きは、また。
9月24日(木)、曇り。
今日は、やがて雨模様とか。
ーーーー
水無瀬銘の駒の話の続きです。
昨日アップした「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」の駒。
これは以前住んでいた大和郡山で、30年くらい前に入手。
両側の字母紙は、熱海で豊島龍山(数次郎)の未亡人から入手。
この二つが、偶然にもピッタリ符合。
文字の特徴は、今市販されている「水無瀬書」と一致したわけです。
しかし水無瀬神宮に残る「兼俊筆の駒」とは全く異なる文字です。
これはどういうことでしょうか。
と言うことで、「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」つまり、市販の「水無瀬書」のルーツは、全く不明。
つまり、市販されている「水無瀬書」の駒のルーツは、これ以上古いものを遡ることができない。
話は変わります。
「水無瀬兼成」という銘の太い文字の駒。
名前、つまり銘は水無瀬でも、実在する水無瀬駒とは、水無瀬神宮の八十二才の駒とは、似ても似つかない。
ルーツは全く不明。
もそも、この文字は赤松駒権が作っていた彫り駒の一つでした。
ある人が注文して入手。ソレを天童の某に渡して、同じ書体で駒を作らせた。
今から30年近く前のことです。
以来、紛い物の「水無瀬兼成」が出回るようになった。
オリジナル権を持っていた駒権は、やがて亡くなりましたが、どのように思っていたことでしょうか。
やがて、天童以外でも同じ銘の駒が作られ、市販されて今日に至っています。
駒の世界では、昔から他人のを見境もなくそのまま作った模造品が跋扈。
ソレを次の誰かが真似をして作って売る。その繰り返し。
どこかのエンブレムほどの騒ぎにはなっていないのは、誰も指摘しないし気にしない。
今も昔も、エリを正す人は少ないという世界ではあります。
話が脱線しました。
これだけで1時間。
朝食の時間が来てしまいました。
続きは、また。
今日は、やがて雨模様とか。
ーーーー
水無瀬銘の駒の話の続きです。
昨日アップした「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」の駒。
これは以前住んでいた大和郡山で、30年くらい前に入手。
両側の字母紙は、熱海で豊島龍山(数次郎)の未亡人から入手。
この二つが、偶然にもピッタリ符合。
文字の特徴は、今市販されている「水無瀬書」と一致したわけです。
しかし水無瀬神宮に残る「兼俊筆の駒」とは全く異なる文字です。
これはどういうことでしょうか。
と言うことで、「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」つまり、市販の「水無瀬書」のルーツは、全く不明。
つまり、市販されている「水無瀬書」の駒のルーツは、これ以上古いものを遡ることができない。
話は変わります。
「水無瀬兼成」という銘の太い文字の駒。
名前、つまり銘は水無瀬でも、実在する水無瀬駒とは、水無瀬神宮の八十二才の駒とは、似ても似つかない。
ルーツは全く不明。
もそも、この文字は赤松駒権が作っていた彫り駒の一つでした。
ある人が注文して入手。ソレを天童の某に渡して、同じ書体で駒を作らせた。
今から30年近く前のことです。
以来、紛い物の「水無瀬兼成」が出回るようになった。
オリジナル権を持っていた駒権は、やがて亡くなりましたが、どのように思っていたことでしょうか。
やがて、天童以外でも同じ銘の駒が作られ、市販されて今日に至っています。
駒の世界では、昔から他人のを見境もなくそのまま作った模造品が跋扈。
ソレを次の誰かが真似をして作って売る。その繰り返し。
どこかのエンブレムほどの騒ぎにはなっていないのは、誰も指摘しないし気にしない。
今も昔も、エリを正す人は少ないという世界ではあります。
話が脱線しました。
これだけで1時間。
朝食の時間が来てしまいました。
続きは、また。
9月23日(水)、晴れ。
今は晴れ。
南の海に台風23号。
今日は、西から下り坂とか。
ーーーー
「水無瀬という名前が付いたいろいろな書体で出回っているのは、不思議。
それぞれの由来は?」との質問をいただきましたので、分かる範囲でお答えします。
「水無瀬」がついている駒は「水無瀬書」、「水無瀬兼成」、あるいは「水無瀬大(中)納言兼俊」など。
そして小生の「古水無瀬」、「水無瀬兼成卿写」があります。
それより古い時代では「水無瀬形」の銘が入った駒も作られました。
現在、最も多く市販されているのは「水無瀬書」の駒だと思います。
この駒の特徴の一つは、銀将のよろめいて旁の縦と、玉将の斜めの最終画。
この駒文字のルーツは、どうやら豊島龍山の「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」という駒にあるのではないかと思っています。
豊島のこれに関する資料は、30数年前に数次郎未亡人のトミさんから譲り受けた遺品で、後刻、このブログでアップするようにします。
しかし、この駒文字は、これより古い時代に遡ることができませんでした。
一方、これより古い「水無瀬形」の駒文字は、400年前の水無瀬駒を模したもので、名駒大鑑にも載せています。
数年前に、オークションにも出たりして、ビックリしました。
まだまだ書かなければなりませんが、この続きは後刻に。
今は晴れ。
南の海に台風23号。
今日は、西から下り坂とか。
ーーーー
「水無瀬という名前が付いたいろいろな書体で出回っているのは、不思議。
それぞれの由来は?」との質問をいただきましたので、分かる範囲でお答えします。
「水無瀬」がついている駒は「水無瀬書」、「水無瀬兼成」、あるいは「水無瀬大(中)納言兼俊」など。
そして小生の「古水無瀬」、「水無瀬兼成卿写」があります。
それより古い時代では「水無瀬形」の銘が入った駒も作られました。
現在、最も多く市販されているのは「水無瀬書」の駒だと思います。
この駒の特徴の一つは、銀将のよろめいて旁の縦と、玉将の斜めの最終画。
この駒文字のルーツは、どうやら豊島龍山の「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」という駒にあるのではないかと思っています。
豊島のこれに関する資料は、30数年前に数次郎未亡人のトミさんから譲り受けた遺品で、後刻、このブログでアップするようにします。
しかし、この駒文字は、これより古い時代に遡ることができませんでした。
一方、これより古い「水無瀬形」の駒文字は、400年前の水無瀬駒を模したもので、名駒大鑑にも載せています。
数年前に、オークションにも出たりして、ビックリしました。
まだまだ書かなければなりませんが、この続きは後刻に。
駒の写真集
リンク先はこちら」
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