2月23日(木)、曇り時々雨。
気温は上がりましたが、太陽がない分、寒さを感じる一日でした。
ーーーー
映像は、江戸時代の古書。
「大将棋盤、中将棋盤、小将棋盤」について。
奥付は亨保年間、そして天保年間。
西暦で云うと、1720年、1830年頃。
小将棋は、今の駒40枚の将棋。
この時期、駒数120枚の大将棋が今より普及していた証かと。
向こう側が刊本、手前が写本。
内容的には同一。
大将棋盤の横幅は、一尺六寸。中将棋の幅が、一尺四寸。小将棋の縦が、一尺二寸とあります。
中将棋盤は碁盤と同じ大きさですが、同時代の別資料では一廻り小さく記されております。
気温は上がりましたが、太陽がない分、寒さを感じる一日でした。
ーーーー
映像は、江戸時代の古書。
「大将棋盤、中将棋盤、小将棋盤」について。
奥付は亨保年間、そして天保年間。
西暦で云うと、1720年、1830年頃。
小将棋は、今の駒40枚の将棋。
この時期、駒数120枚の大将棋が今より普及していた証かと。
向こう側が刊本、手前が写本。
内容的には同一。
大将棋盤の横幅は、一尺六寸。中将棋の幅が、一尺四寸。小将棋の縦が、一尺二寸とあります。
中将棋盤は碁盤と同じ大きさですが、同時代の別資料では一廻り小さく記されております。
2月21日(火)、ときどき雪模様。
外気は3℃。まさに暦通りの真冬かと。
それでも、昨日の続きの外仕事を半日。
一方、彫りの「古水無瀬」は、最終段階です。
その映像。
外気は3℃。まさに暦通りの真冬かと。
それでも、昨日の続きの外仕事を半日。
一方、彫りの「古水無瀬」は、最終段階です。
その映像。
2月20日(月)、晴れのち雨。
春一番の声に誘われて、午後から日の暮れまで外仕事。
「水無瀬兼成卿写」研磨と面取り。
日没は17時。
もうちょっとと30分粘りましたが、さすがに寒く中断。
映像左の「玉将以下、香車」までは進みましたが、残りは明日。
右の「歩兵」がのこってしまいました。
春一番の声に誘われて、午後から日の暮れまで外仕事。
「水無瀬兼成卿写」研磨と面取り。
日没は17時。
もうちょっとと30分粘りましたが、さすがに寒く中断。
映像左の「玉将以下、香車」までは進みましたが、残りは明日。
右の「歩兵」がのこってしまいました。
25年前か、そこいらだと記憶しますが、ある方が「文字が消えているのを直してほしい」と古い駒を持参されました。
文字はいわゆる「清定」によく似ていますが、この駒はレタリングされた文字でなく、肉筆そのもので自然を感じます。。
玉将の尻には「守幸(花押)」。
これが、守幸との最初の出会いでした。
王将や玉将、金将の文字はくっきりですが、裏は、ほとんど漆の文字が無くなっています。
だが漆の文字は摩滅していても、文字の漆の部分は日焼けせずに白く残っているのです。
「おお、これなら再現できる」と小躍りして、「これは300年ほど前の貴重な駒です。漆が摩滅していても文字は再現できます。そっくりの駒を作るので、それを使ってください」。
と、駒形と文字をそっくりの盛り上げ駒で、この時3組を制作。
その内の一組を買っていただきました。
それから何年か経過。
大橋家文書に中に「守幸筆の駒」の文字を見つけました。
それは、「家伝の目録」の中の記述にです。
持ち主に「あの駒の写真を撮らしてください」と云うと、「あの駒は自分で墨書きして使っている」との返事には、びっくり。
「私の作った駒はどうされたのですか」と聞くと、「熊澤さんの駒は大事にしまってある」と。
「それは逆でしょう。とにかく写真にしたいので」とお願いし、拝見することになりました。
再会した守幸の駒は、墨の文字で無残でした。
このままではいけないと「私の彫り埋め駒と交換してくれませんか」と申し出ると、すんなりOK。
と言うことで、自分のものにはなりましたが、残念ながらちょっと遅かったのですね。
なんとか墨をとろうとしましたが、取り切れません。
白かった文字の跡は、もう見ることができないのです。
残念。
その現物のオリジナルと、復元駒。
対比できるように、右と左にパネルに入れている現在の様子です。
なお、昨日アップしたのは、その後の制作品。
私のお気に入りで、駒型は、現代のタイプです。
こちらは、最近の制作品。
今日は、ここまでです。
文字はいわゆる「清定」によく似ていますが、この駒はレタリングされた文字でなく、肉筆そのもので自然を感じます。。
玉将の尻には「守幸(花押)」。
これが、守幸との最初の出会いでした。
王将や玉将、金将の文字はくっきりですが、裏は、ほとんど漆の文字が無くなっています。
だが漆の文字は摩滅していても、文字の漆の部分は日焼けせずに白く残っているのです。
「おお、これなら再現できる」と小躍りして、「これは300年ほど前の貴重な駒です。漆が摩滅していても文字は再現できます。そっくりの駒を作るので、それを使ってください」。
と、駒形と文字をそっくりの盛り上げ駒で、この時3組を制作。
その内の一組を買っていただきました。
それから何年か経過。
大橋家文書に中に「守幸筆の駒」の文字を見つけました。
それは、「家伝の目録」の中の記述にです。
持ち主に「あの駒の写真を撮らしてください」と云うと、「あの駒は自分で墨書きして使っている」との返事には、びっくり。
「私の作った駒はどうされたのですか」と聞くと、「熊澤さんの駒は大事にしまってある」と。
「それは逆でしょう。とにかく写真にしたいので」とお願いし、拝見することになりました。
再会した守幸の駒は、墨の文字で無残でした。
このままではいけないと「私の彫り埋め駒と交換してくれませんか」と申し出ると、すんなりOK。
と言うことで、自分のものにはなりましたが、残念ながらちょっと遅かったのですね。
なんとか墨をとろうとしましたが、取り切れません。
白かった文字の跡は、もう見ることができないのです。
残念。
その現物のオリジナルと、復元駒。
対比できるように、右と左にパネルに入れている現在の様子です。
なお、昨日アップしたのは、その後の制作品。
私のお気に入りで、駒型は、現代のタイプです。
こちらは、最近の制作品。
今日は、ここまでです。
「馬日記」。
(終わりの方ではなく)冒頭の天正18年の2ページ目でした。
「枻」では35ページ。右上、最初のところ。
「秦上」は「茶々」が正しく。
「茶」の左の黒いところは、虫食いの跡。
なお、論文「水無瀬駒の文化性について」では、75ページの写真3段目、右端。
(終わりの方ではなく)冒頭の天正18年の2ページ目でした。
「枻」では35ページ。右上、最初のところ。
「秦上」は「茶々」が正しく。
「茶」の左の黒いところは、虫食いの跡。
なお、論文「水無瀬駒の文化性について」では、75ページの写真3段目、右端。
2月8日(水)、曇り。
お昼の2時間半は、外出。
帰宅して、駒2組の文字出し研磨作業を4時間ほど。
終了は日が暮れた18時。
気温は4℃。
屋外の作業は、上半身はまだしも、足先は凍えるほどでした。
その途中経過を含む映像。
彫り駒の空研ぎなので、削り滓が白く入り込んでいます。
明日は、この辺りでも「雪」とか。
朝から、二名の訪問者をお迎えします。
お昼の2時間半は、外出。
帰宅して、駒2組の文字出し研磨作業を4時間ほど。
終了は日が暮れた18時。
気温は4℃。
屋外の作業は、上半身はまだしも、足先は凍えるほどでした。
その途中経過を含む映像。
彫り駒の空研ぎなので、削り滓が白く入り込んでいます。
明日は、この辺りでも「雪」とか。
朝から、二名の訪問者をお迎えします。
2月7日(火)、晴れ。
二日前の、日経紙日曜版。
記事はまだ見ておりませんが、水無瀬神宮と収蔵されている水無瀬駒が紹介されているそうです。
今日は、堀口七段を水無瀬神宮にご案内することになっています。
堀口先生は、確か東大客員教授。
将棋文化への造詣は深く、将棋検定にも関わっておられます。
今日の結果は、夜にでも。
二日前の、日経紙日曜版。
記事はまだ見ておりませんが、水無瀬神宮と収蔵されている水無瀬駒が紹介されているそうです。
今日は、堀口七段を水無瀬神宮にご案内することになっています。
堀口先生は、確か東大客員教授。
将棋文化への造詣は深く、将棋検定にも関わっておられます。
今日の結果は、夜にでも。
駒の写真集
リンク先はこちら」
http://blog.goo.ne.jp/photo/11726