先ほど、小生作成の中将棋駒について質問をいただきました。
質問者にはメールでお答えしましたが、同じ内容を掲載しておきます。
中将棋駒は、10年少し前から作るようになりました。
それまでは、駒数が多い中将棋なんてという気持ちがあり、見向きもしなかったのですが、
水無瀬神宮で、中将棋を指される棋士の神崎健二さんや中村巧さん、中将棋連盟の皆さんを招いて
「中将棋大会」を企画することになり、この時の大会で使う駒を、水無瀬神宮に残る400年前の手法=書き駒=にこだわって一組の中将棋駒を作りました。これが私が作った最初の中将棋駒で、後に、文化庁補助金で地元の島本町がお買い上げになり、今は同町資料館に常設展示されています。
12月26日(木)、大体晴れ。
昼間は、暖か。おかげ様で中将棋駒の裏、朱漆の漆書きは好調に進みました。
残りは「香車、反車、歩兵」など、300枚ほど。書き終わりは年内目標です。
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12月14日(火)、晴れあったか曇りだったか。
今日の天気は失念。日中は所用で大阪。その前後は、中将棋の駒書きでした。
まだ残っておりますので、完成には数日かかりますので、年内が目標です。
思えの文字は、水無瀬兼成さんの筆跡を基調としておりますが、裏の文字はわかりやすく、ということで、私流の肉筆でアレンジしています。
12月21日の木村一基王位祝賀会会場にて展示公開された「木村一基書の駒」について、少し説明させていただきます。
「木村一基書の駒」誕生のきっかけは、金沢での棋王戦の夜。2年近く前のこと。木村一基さんを挟んだ居酒屋で、尾崎さんと3人でお話する機会がありました。その席で申し上げたのは「ご自分の筆跡の駒を作りませんか」という一言です。
棋士皆さんの中には、いい字で色紙を書く方もいらっしゃるのですが、木村さんの筆跡は、まろやかで安心できる文字なんですね。いつしか、この字で駒を作ってみたいと思うようになりました。
それを本人に話してみよう。そんな良い機会がこの日の夜でした。
「玉将」以下の文字は、ことさら駒を意識することなく色紙や半紙に何通りかを自由に書いてもらう。それを小生がいただいて、木村さんの筆跡文字にある癖を吸収するところから始める。文字は駒に合うように、多少のアレンジも加えて駒の文字とする。
これは、原田泰夫先生や谷川浩司さんの駒でも経験してきた手法であり、今回も良いものができる確信がありました。
今ももちろんそうですが、そのころの木村さんはお忙しい毎日。各種のタイトルには、もう少しで手が届きそうで届かない。そんな状況が続く中で、ある時は大阪での対局のあと、加茂の工房にもおいでくださいました。
そうこうして「木村一基書」が仕上がり、心の中で「タイトル獲得を」と念じながら、駒をお渡しできたのは、王位タイトル獲得をさかのぼる半年ほど前のことでした。
以上のことは、木村さんとスポンサーの一端を担われた尾崎さん、小生のみが知るところで、これまで公けにすることを控えておりました。今回、祝賀会で「駒」が公表展示されたことで、発表させていただきました。
12月22日(日)、曇りと雨。
昨日、椿山荘にて木村一基王位祝賀会が開催され、出席させていただきました。
参加者は500人に迫り、広い会場がはちきれんばかりの大賑わいでした。
まずは、オープニング。木村王位の入場のショット。
木村一基一門の紹介。もう一人おられるそうですが、体調不良にて欠席。
公開展示された「木村一基書」の駒。小生作です。
12月19日(木)、曇り。
一日を通して、雲いっぱい、薄暗くさみしい空でした。
今日は、盛り上げ駒と肉筆の書き駒についてです。
現今では「盛り上げ駒が最上品で、書き駒は安い下級品」だという認識が常識のようになっています。果たしてそうなのかです。
「駒」については、世間で誤って伝えられたり、間違った認識だったりすることは結構多い。その一つが、盛り上げ駒と書き駒の関係で、私に言わせえば「盛り上げ駒は、昔の能筆家が書いた駒の代用品に過ぎない」ということです。
将棋の駒は400年前の安土桃山時代から江戸初期の頃、水無瀬兼成という公卿に代表される能筆家が、その端正で優美な筆跡で駒を書いた時代がありました。その駒は庶民はもてあそぶことすらはばかられ、天皇、公家衆、高名な武将はじめ、寺社あるいは裕福な堺の商人などが、主なユーザーであり、ことに徳川家康は関ケ原の戦いの前後に、53組の水無瀬駒(水無瀬兼成が書いた駒)をゲットして、周りの人々(敵を含む周りの武将たち)に振舞ったと推定される記録が残っています。
その後、時代が進み、将棋が庶民にも多く普及するようになると、職業として駒づくりの職人(駒師)が派生します。しかし、そのような職人たちは、公卿のような立派で品格ある文字が書けるわけでもなく、職人としての技として、大阪の彫り駒や、天童のような特殊で、まとまもな文字とは言い難い駒が多く作られるようになり、それが定着します。
一方、それまでのような公家(能筆家)による駒づくりが衰退。やがて明治時代中期の頃、知恵ある駒師は、「職人技で昔の公卿が書いたような立派な文字で駒を作れないか」との思いで考え出したのが「盛り上げ駒」です。
能筆家の筆跡を写した紙(これを字母紙という)を駒に貼って文字を彫る。そのあとを漆で埋め戻して浮かび上がった文字を、塗り絵のごとく漆の筆でなぞる。この職人技によれば、文字が上手に書けなくても、あたかも能筆家が書いたような立派な文字で駒ができる。
つまり「盛り上げ駒は、昔の能筆家が書いた立派な文字の駒を、明治の職人技で再現しようとして生まれた駒」なのです。
私はある時、水無瀬神宮に残された400年前の水無瀬駒を実見することで、これに気が付きました。それから40年余り。以来、その肉筆で書かれた水無瀬駒を目標にしてきましたが、到達はまだまだではあります。
12月17日(火)、雨。
暖かだった日中でしたが、夜になって本格的な雨になりました。
今日は、お一人お客様。2時間あまりゆっくりと四方山話。楽しいひと時でした。
昨日、長禄の駒についてお尋ねをいただきました。長禄は東京上野池之端の薬店、守田宝丹堂13代目の雅号。明治時代の人です。
長禄の駒は、過去に6~7組作りましたが、映像はその一つ。材は年輪の目がつんだ島ツゲ柾目。
余談ですが、時折り、禄を金偏の録と間違えた駒を見かけますが、これは間違い。