4月29日(木)、雨。
昨日、「たっぷりと」関連で、コメントをいただきました。
それについてはコメントで返事しましたが、少しフォロウしておきます。
「たっぷりと」は、駒文字を書く筆に、たっぷりと漆を含ませることの気持ちを表しております。
その結果出来上がった駒は、写真で分かること分からないことがありますので、実際に出来上がった姿をご覧いただくのが最上だとは思っています。
さて、「たっぷりと」を映像でご覧いただきます。
筆が2本、手前が「たっぷり」で、もう1本は筆先にホンの少し漆を付けただけのもの。
漆で駒の文字を書いたり盛り上げたりの筆使いは、人によってさまざまでしょうが、私の場合は駒を逆さにしたりして文字の形をなぞる、いわゆる看板書きのようにするのではなく、正対した姿で自然に文字を書くように心がけます。
それが活き活きした文字を書く基本だと認識して、漆で文字を一気に書くためには、漆をたっぷり含ませておくことが不可欠なのです。
「たっぷりと」は、この時の気持ちと姿を表現しました。
4月25日(日)、晴れ。
このところの晴れ続き、一級河川・木津川は細い流れ。
今年になって作り始めて、このほど出来上がった駒は2組。
先ずは「古水無瀬」。材は御蔵島ツゲの赤糸柾。その映像です。
もう一つは「水無瀬兼成卿」。材は薩摩ツゲの孔雀杢。
漆はたっぷり、太字に仕上げました。
4月23日(金)、晴れ。
夏日。天気が良すぎます。
朝一番は「神楽太鼓塗り」。
金箔仕上げの下地を含め、2回目の朱赤を塗りました。
でも、急な野暮用で数度の外出。やりたかった仕事はあとまわしとなりました。
4月22日(木)、晴れ。
全国的に晴れ。当地は25℃超えの夏日。
ほぼ出来上がった、象牙の小将棋駒。
材は肉厚の大振り。
文字は、水無瀬兼成卿を倣って、漆たっぷりでの肉筆で書きました。
こんな感じです。
4月21日(水)、晴れ。
朝から陽光。全国的に安定した晴れ。そして夏日。
朝から盛上げ仕事中心でした。
ところで「将棋馬日記」には、秀吉、家康の時代、水無瀬家で13年間に、トータル735組の将棋駒が作られたことが記されているのですが、現在はそのほとんどが失われていて、今、それが確認できるのは、わずかに数組。
しかし、400年以上経った現在において、10組近いものが残っているのは、735組と多く作られたことに加え、おおいに大切にされていた証だと思います。
しかしながらそれらの駒は「駒日記」記載の中で、特定することは難しいのですが、唯一特定できるものが象牙の駒。それは「なんでも鑑定団」に出された「慶長3年、道休(足利義昭)に渡った小将棋駒」です。
この駒は、いつもは福井市立歴史博物館に寄託されているのですが、なんでも今の時期、福井県立美術館にて近々、展示されるということです。興味ある方は美術館に問い合わせの上、見に行かれるのが良いでしょう。
4月20日(火)、晴れ。
5月の陽気でした。
仕事は、相変わらずの盛り上げ仕事。
陽気も漆に最適の季節。
午後は「兼成卿水無瀬」。
盛上げ着手前に、もう一度の磨き上げ。
出来上がり予定は、今月末。
いつものように、盛り上げは「と金」から。
これは、漆の調子を見ながらのウオーミングアップを兼ねながらの慣習でもあります。
4月18日(日)、晴れ。
風は強いが、暖かそう。
映像の「駒日記」は、文禄から慶長2年。
慶長元年を境にして、ある人物の表記に変化があることに注目願いたい。
上段の「甲午」は、慶長の2年前、文禄3年。この年の中将棋駒。
「久林」は秀吉ゆかりの武将、「落甚八」は落合甚八。その次が「家康」。
続いて「関白殿、白檀」、その次が「上」(天皇)。
いずれも、リピーターの面々でもあり、この時期、繰り返し水無瀬駒を手にしている。
下段は、慶長に移るところ。
右端が慶長元年の末尾で、中央から左が慶長2年。
ここにも「家康」と書かれているが、このページ以降、「家康」の名は出てこず、変わって「内府」。
この時期に家康は内大臣となり、それまで呼び捨てだった家康は、ここでも出世するわけで、身分制度厳しい公家意識を表しているのが面白い。
なお、ここには「幽斎」(熊本城主、細川藤孝)も、リピーターとして登場しています。
先の補足の続きです。
「上」は天皇を指し、その下には「旧上」があり、それらは後陽成天皇、正親町上皇へ渡された中将棋駒であることが分かります。
記録を見れば、今の将棋と同じ小将棋の愛好家は武将に多く、中将棋は天皇や公家衆に愛好されたことが読み取れます。
説明があと先になりましたが、馬日記の馬は「駒」のことです。
続いて数ページあと、「壬辰・文禄元年」の映像です。
中ほどに「家康息」とあるのは、秀忠のことでしょうか。
家康と呼び捨てで、名前すら明確に書かれてはおりません。
この時代、高位の公卿からすると、実力ある武将と言えども、呼び捨ての格下で見られていたことも分かります。因みに、同格の公卿に対しては「殿」の敬称が付けられています。
同じ年の中将棋のページには、何組かの中将棋駒に交じって駒数130枚の「大将棋駒」や、192枚の「大々将棋駒」が見られます。
しかもその渡し先の名は「当関白殿、(献上)」であり、これは秀次への上納品であることも分かります。
秀次へは、後にこのほかの古将棋駒も数組献上された記録もあり、これは興味深いことです。
なお、このページ2行目と左ページ1行目には「将棋馬削、忍斎」の名が、3か所記載されています。これは水無瀬家の下職として将棋駒の木地を制作していた人であろうと推測します。
4月17日(土)、曇り。
昨日の続き、「将棋馬日記」を補足します。
13年間の水無瀬家の駒づくりを記録する「将棋馬日記」は、およそ60ページあり、先ずは、その冒頭のページ、天正18年の記録。
「庚寅」の年号に続いて「小将棋駒」の行き先名が上下2段に書かれています。冒頭は「師法印」、その下は「中小路甚八」と読めます。11番目は「滝本坊」、その二つ右は「道休」。これは足利15代将軍義昭です。
この道休は、昨日の象牙駒にも見られる、水無瀬駒のリピーターの一人だったことが分かります。
映像、下は2ページ目。右端の一行は、1ページの続きで、この年、小将棋駒は26組作られたことが分かります。
続いて「中将棋」とあり、9組が作られています。
その冒頭に「上」。
武家の上様は、将軍やお殿様なのですが、水無瀬家はお公家ですので、「上」は天皇を指しています。
時間が無くなりました、この続きは、また明日以降に。
4月16日(金)、晴れたり曇ったり。
昨日の続き。
今日は「将棋馬日記」における象牙駒の記録部分を抜き出して、映像にしました。
象牙の駒は、5組。いずれも慶長年間での作成です。