7月25日(火)、曇り。
今日の駒は「鰭崎英朋書」。
少し前に、ほぼ出来上がっていたものを、半日かけて最終磨き。
こうして出来上がりました。
たまさかの隷書の駒。
これで気分転換。
ゆったりと気分するのも良いものです。
今日の駒は「鰭崎英朋書」。
少し前に、ほぼ出来上がっていたものを、半日かけて最終磨き。
こうして出来上がりました。
たまさかの隷書の駒。
これで気分転換。
ゆったりと気分するのも良いものです。
7月22日(土)、晴れ。
本格的な夏の空色。
今日も暑そう。
昨日は義母ら4人と、東大阪のうなぎ屋さんで昼食。
義母は今年101歳。
杖をつきながらでも自立歩行で、周りは大助かり。
背丈は小さくても、好物は肉とウナギ。
と言うことで、昨日はうなぎ屋さん。
大正2年創業の本店は四国高知で、去年大阪に支店を出したとのこと。
「鰻重」には、並、上、特上とあって、ウナギの量が違う。
予約したのは、一匹の4/6「鰻重の並」。
義母は、ご飯少し少なめ、我々は普通。
と言うことで、完食した義母は、まだまだ元気、耳も普通。
この次は8月お盆の頃かな。
ーーーー
先日アップした「宗歩好み」。
「漆の文字が真っ黒でなく、グラデーションのようだ」との感想を頂きました。
そうですね。
漆は大別して、鉄分を加えた黒漆と精製だけをした透き漆があり、これは後者を使って盛上げました。
透き漆は、木地呂漆とも呼ばれる本来の色合いの漆。
年数が経つに連れて、透き通るような感じになるところから、透き漆とも呼ばれます。
単一な色調の黒漆と違って、面白い味が出るので、私は時々この透き漆を使います。
この「宗歩好み」はその一つですが、下地が見えない黒漆とはまた違う難しさと、味わいがあります。
ーーーー
本日アップの「水無瀬兼成卿写」。
木地は細かな赤味の島つげ柾目。
木地を選定頂いて、ゆっくりと時間を掛けて作らせて頂きました。
本格的な夏の空色。
今日も暑そう。
昨日は義母ら4人と、東大阪のうなぎ屋さんで昼食。
義母は今年101歳。
杖をつきながらでも自立歩行で、周りは大助かり。
背丈は小さくても、好物は肉とウナギ。
と言うことで、昨日はうなぎ屋さん。
大正2年創業の本店は四国高知で、去年大阪に支店を出したとのこと。
「鰻重」には、並、上、特上とあって、ウナギの量が違う。
予約したのは、一匹の4/6「鰻重の並」。
義母は、ご飯少し少なめ、我々は普通。
と言うことで、完食した義母は、まだまだ元気、耳も普通。
この次は8月お盆の頃かな。
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先日アップした「宗歩好み」。
「漆の文字が真っ黒でなく、グラデーションのようだ」との感想を頂きました。
そうですね。
漆は大別して、鉄分を加えた黒漆と精製だけをした透き漆があり、これは後者を使って盛上げました。
透き漆は、木地呂漆とも呼ばれる本来の色合いの漆。
年数が経つに連れて、透き通るような感じになるところから、透き漆とも呼ばれます。
単一な色調の黒漆と違って、面白い味が出るので、私は時々この透き漆を使います。
この「宗歩好み」はその一つですが、下地が見えない黒漆とはまた違う難しさと、味わいがあります。
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本日アップの「水無瀬兼成卿写」。
木地は細かな赤味の島つげ柾目。
木地を選定頂いて、ゆっくりと時間を掛けて作らせて頂きました。
今日は、小生愛用の駒。
愛用と云っても、使うのは1年に一回あるかないか。
その程度です。
タイトル戦の控え室、継ぎ盤の駒としても、20年近く毎年のように使って頂くこともある。
今年もホテルニューアワジに持参し、控え室での局面検討に使って頂いた。
作年は良く覚えていないが、20年か25年くらいになる。
ちょっと故あって、写真にしました。
愛用と云っても、使うのは1年に一回あるかないか。
その程度です。
タイトル戦の控え室、継ぎ盤の駒としても、20年近く毎年のように使って頂くこともある。
今年もホテルニューアワジに持参し、控え室での局面検討に使って頂いた。
作年は良く覚えていないが、20年か25年くらいになる。
ちょっと故あって、写真にしました。
7月15日(土)、晴れ。
当地は、快晴。
夏到来ですが、マダ、気象庁の梅雨明け宣言はありません。
昨日は、遠来のお客様。
その方によると、東京の将棋連盟ショップには、手頃な盤駒が売り切れ状態だとか。
藤井四段効果は、ここでも。
ーーーー
駒づくり。
数組が、完成間近。
あと、もう少し漆を固めて、です。
当地は、快晴。
夏到来ですが、マダ、気象庁の梅雨明け宣言はありません。
昨日は、遠来のお客様。
その方によると、東京の将棋連盟ショップには、手頃な盤駒が売り切れ状態だとか。
藤井四段効果は、ここでも。
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駒づくり。
数組が、完成間近。
あと、もう少し漆を固めて、です。
7月11日(火)、晴れ。
どうやら夏の兆し。
空には、鱗状の雲、雨あけです。
ソレニシテモ、梅雨の終わりの豪雨。
人を、国土を痛めつけられました。
----
ほぼ出来上がった「水無瀬兼成卿写」。
木地は、細かく整った柾目の島つげ。
歩兵の何枚かに、天井灯が全反射。
「水無瀬兼成卿」は、小生お気に入りの筆跡。
やがてまもなく、数組。
出来上がり次第映像にしようと思っています。
どうやら夏の兆し。
空には、鱗状の雲、雨あけです。
ソレニシテモ、梅雨の終わりの豪雨。
人を、国土を痛めつけられました。
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ほぼ出来上がった「水無瀬兼成卿写」。
木地は、細かく整った柾目の島つげ。
歩兵の何枚かに、天井灯が全反射。
「水無瀬兼成卿」は、小生お気に入りの筆跡。
やがてまもなく、数組。
出来上がり次第映像にしようと思っています。
7月2日(日)、曇り。
昨日、出会った駒の映像。
遠路、小生に見て欲しいと、持って来られました。
分かりますかね。
古い古い駒。相当に使われた駒のようです。
一見して、およそ400年前の水無瀬駒である事が分かります。
2枚とも「玉将」の双玉。
その昔、水無瀬兼成さんが漆で書いた駒です。
漆の書き駒ゆえ、使われて使われたて、文字が漆がすり減ったところが目立っています。
不自然に、文字がすり減っている駒も。
飛車一枚の表と裏、銀将の裏が故意に削られているのです。
これを見て、直ぐに昔のある場面を思い出しました。
それは東京、上野桜木町の駒師の仕事場。
丁度、「名駒大鑑」を上梓する直前でした。
その訪問先の駒師作の写真を二~三枚載せるので、許可をもらいに尋ねたときのことです。
部屋には水を張った盥桶で、駒を研いでいるところでした。
桶の中の砥石の上には、古い駒が一枚。
桶の横には、残りの黒茶けた古い駒が、一組ほど。
丁度、一枚が研ぎ終わって、文字が削られたあとの木肌が露出していました。
「何をしているのですか」。
「ああ、お客さんから古い駒の補充を頼まれて、丁度古い頃合いの駒が有ったので・・」。
「それはいけません。380年前の水無瀬駒です。文化財とも言える貴重な歴史ある駒なんですから・・」。
「あ、それとは知らなかった。止めときます・・」。
文字が削り取られていたのは、「飛車」一枚。
心の中で、「知らなかったとは言え、実にモッタイない・・」と。
この時、よほど「譲ってくれないか」と思いましたが、云えませんでした。
昨日。来訪者が持ってこられた駒を見て、その場面を思い出しました。
こんなこともあるのですね。
で、その駒は、あれからどうなったか、私の知っている範囲で、述べておきます。
駒は、その後まもなく三浦さんに貰われた。
そのことを、三浦さん本人から聞いたので、「玉将二枚」を一時拝借して撮影することに。
それが最終原稿に間に合った「名駒大鑑、90ページ」の写真です。
名駒大鑑をお持ちの方は、それをご覧ください。
そ90ページの玉将写真と、昨日の駒。
照らし合わせると、ぴったり。木目は勿論、玉の字の下についた傷がドンピシャ。
これにはびっくり。40年近く前に見た駒との再会でした。
兼成卿88歳の制作年、慶長6年は西暦1601年。
水無瀬兼成の「馬日記」には、この年に87組の黄楊駒が作られたことが記されています。
この駒はその中の一組。
今から418年も前に作られた駒なのです。
ところで、もう一つ。
私が持っている「控えの名駒大鑑」。
その90ページには、三浦さんの名前の上にKさんの名が赤文字でメモってありました。
それで思い出しました。
何年か経って、その駒は東京のKさんに譲られていたのです。
Kさんとも交流があって、この話はKさんから聞いていたのです。
そのあとKさんは、入院されたことを、奥様から聞きました。
15年以上も前のことです。
その後Kさんがお住まいだったあの辺りは大きなビルに再開発されているとか。
kさんとご家族。
今はどうされているのでしょうか。
そのことを、来訪者に申し上げると「納得」とのこと。
昨日は、あれやこれやで、いろいろ思い出しながらの4時間。
所望に応じて「鑑定書」も書いての半日でした。
昨日、出会った駒の映像。
遠路、小生に見て欲しいと、持って来られました。
分かりますかね。
古い古い駒。相当に使われた駒のようです。
一見して、およそ400年前の水無瀬駒である事が分かります。
2枚とも「玉将」の双玉。
その昔、水無瀬兼成さんが漆で書いた駒です。
漆の書き駒ゆえ、使われて使われたて、文字が漆がすり減ったところが目立っています。
不自然に、文字がすり減っている駒も。
飛車一枚の表と裏、銀将の裏が故意に削られているのです。
これを見て、直ぐに昔のある場面を思い出しました。
それは東京、上野桜木町の駒師の仕事場。
丁度、「名駒大鑑」を上梓する直前でした。
その訪問先の駒師作の写真を二~三枚載せるので、許可をもらいに尋ねたときのことです。
部屋には水を張った盥桶で、駒を研いでいるところでした。
桶の中の砥石の上には、古い駒が一枚。
桶の横には、残りの黒茶けた古い駒が、一組ほど。
丁度、一枚が研ぎ終わって、文字が削られたあとの木肌が露出していました。
「何をしているのですか」。
「ああ、お客さんから古い駒の補充を頼まれて、丁度古い頃合いの駒が有ったので・・」。
「それはいけません。380年前の水無瀬駒です。文化財とも言える貴重な歴史ある駒なんですから・・」。
「あ、それとは知らなかった。止めときます・・」。
文字が削り取られていたのは、「飛車」一枚。
心の中で、「知らなかったとは言え、実にモッタイない・・」と。
この時、よほど「譲ってくれないか」と思いましたが、云えませんでした。
昨日。来訪者が持ってこられた駒を見て、その場面を思い出しました。
こんなこともあるのですね。
で、その駒は、あれからどうなったか、私の知っている範囲で、述べておきます。
駒は、その後まもなく三浦さんに貰われた。
そのことを、三浦さん本人から聞いたので、「玉将二枚」を一時拝借して撮影することに。
それが最終原稿に間に合った「名駒大鑑、90ページ」の写真です。
名駒大鑑をお持ちの方は、それをご覧ください。
そ90ページの玉将写真と、昨日の駒。
照らし合わせると、ぴったり。木目は勿論、玉の字の下についた傷がドンピシャ。
これにはびっくり。40年近く前に見た駒との再会でした。
兼成卿88歳の制作年、慶長6年は西暦1601年。
水無瀬兼成の「馬日記」には、この年に87組の黄楊駒が作られたことが記されています。
この駒はその中の一組。
今から418年も前に作られた駒なのです。
ところで、もう一つ。
私が持っている「控えの名駒大鑑」。
その90ページには、三浦さんの名前の上にKさんの名が赤文字でメモってありました。
それで思い出しました。
何年か経って、その駒は東京のKさんに譲られていたのです。
Kさんとも交流があって、この話はKさんから聞いていたのです。
そのあとKさんは、入院されたことを、奥様から聞きました。
15年以上も前のことです。
その後Kさんがお住まいだったあの辺りは大きなビルに再開発されているとか。
kさんとご家族。
今はどうされているのでしょうか。
そのことを、来訪者に申し上げると「納得」とのこと。
昨日は、あれやこれやで、いろいろ思い出しながらの4時間。
所望に応じて「鑑定書」も書いての半日でした。
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