雛駒「錦旗」の映像。
ラップをしたままの撮影で、フラッシュが反射しています。右下の駒は、大きさ対比のためのレギュラーサイズの玉将。
6月28日(金)、曇りがち。
ちいさな小さな雛駒、その①。 材は島つげの杢。表裏とも肉筆の黒漆。大きさがわかるように一円玉を映しこみました。玉将の大きさは2ミリ。丁度、一円玉の直径と同じでした。盤のサイズは、縦22センチになります。
ちいさな小さな雛駒、その②。 材と、表の文字は、その①と全く同じですが、裏が朱漆で書いて、「と金」の形は少し変えています。この二つは、クライアントの要請で作りました。
実は作成依頼は3組あり、残るもう一つはすでに作成済みの「錦旗」です。こちらも同じサイズの、ちいさな小さな雛駒ですが、盛り上げ駒にしています。映像は作成直後に、すでにアップしたのですが、明日、再び撮影して、アップすることにします。
6月26日(水)、曇り。
関西地方も梅雨入りとか。湿っけはありますが、まだ雨は降っておりません、はい。日中には2時間半ほど、奈良に。その前後は、いつものように仕事三昧でした。
主に小さな小さな雛駒。3組分の文字書き。気合を入れてのチャレンジ。もちろん肉筆の直書きです。今日は、ひしゃ8枚に、銀将14枚、歩裏65枚。文字書きは、単純な文字の方が難しいですね。誤魔化せないからです。映像は「歩兵」の一部と、その裏。
6月24日(月)、晴れがち。
先日から、手のひらサイズ、極小の雛駒。半年以上の棚上げでしたが、気合を入れて再開。文字は小生の肉筆書き駒。その映像。香車がやけに大きく映っていますが、それはアングルのせいなのです。 裏文字は黒漆と朱漆の2組。今月末の完成を目指しています。
6月24日(月)、曇り。
本日は「伝・後水尾帝宸筆駒」のこと。「伝」とは、本当のことは分からないがそのような伝承がある、という意味です。その伝承は、将棋所大橋家での伝承です。この駒は昭和15年に、伝わった大橋家から木村名人に譲渡された中の一組で、世に言う「錦旗の駒」の本歌でもありました。
昭和59年、木村名人の存命中、大橋家から受け継いだこの駒について、3男で、博物館副館長でもある義徳さんを通じて「この駒の伝承が正しいかどうか、確かめてほしい」との要請があり、茅ケ崎の名人宅へ出向きました。なんでも、当時、オープン予定だった将棋博物館に、寄贈するにあたって、はっきりさせておきたいということでした。
結果、小生の結論は、次のようなもので、それを将棋世界・5月号「博物館だより⑤」にて発表させていただきました。結論は、水無瀬兼成卿の筆跡そのものだったのです。
駒の映像は見やすいものを、今晩にでもアップしますが、まず、記事をアップしておきます。
6月23日(日)、ぼんやりと晴れ。
昨日、びりたんさんから、長文のコメント。
将棋の歴史を探求する書籍でも私が読んだ限りでは 駒裏の草書は楷書の「崩し字」と説明されたものばかりです。 崩し字辞典なんてものまでありますし、 どうして「崩し字」なんて書の時代考証的におかしな 表現が生まれたのかが不思議でなりません。 古文を読む限りでも、当時の人たちも 楷書の崩し字が草書と認識してはいなさそうに思えるのですが、どうなのでしょうか?」
6月20日(木)、晴れ。
所用で大阪へ。10時過ぎに出立。それまでは、出来上がった駒を磨いたり、手紙を書いたりでした。帰宅は17時。少し遅くなりました。帰宅後は、やはり駒づくり、コツコツとです。
映像は蒔絵筆。昨日は少し慌てました。朝、仕事机に座って気が付きました。その前に使った筆の穂先の漆をそのままにしていたのです。およそ半日、穂先に漆が付いたまま放置。そのため穂先の漆が固まりかけていたのです。慌てましたねえ。穂先が固まってしまっては、筆がパアの台無し、使えなくなってしまえます。おまけにその筆は、絶好調のものでした。本当に慌てました。
すぐに、固まった穂先をテレピン油に浸しましたねえ。テレピン油で、固まった漆をほぐそうというわけです。まだ固まり切っていないときは、これでほぐせます。しかし、固まってしまった部分はすぐにはほぐれません。丁度、今の時期は漆が早く固まる季節なんですね。だから慌てました。部分的に、すでに固まっているところがあったのです。固まったところは、時間をかけてほぐすに限ります。テレピン油につけては、少しずつ、指先でほぐすのですが、穂先の細い毛の一本一本にテンションが掛からないように、ゆっくりとほぐす。これを10回かもう少しくり返しました。
そうすると、固まって毛に巻き付いた漆の塊が、取れてゆきました。今回は、事なきを得ました。完全に、元通りになりました。こんなチョンボを、1年か2年に一回やらかすのです。
ということで、映像は蒔絵筆が10本余り。
右半分が使用中。左半分が大阪角岡製の未使用品。小生にとって、貴重品なのです。
新刊本、講談社「教養としての将棋」が送られてきました。10年越しで、やっと出来上がった本です。まもなく本屋さんの店先で見られると思います。できれば、手に取ってみてください。税込みで950円。
興味深いのは、第1章の羽生さんと梅原さんの対談。これを読むと、勝った負けただけではない羽生さんの奥深い知見と思考の一部が分かるような気がします。 小生は、第4章「将棋の駒はなぜ芸術になったのか(40ページ)」を担当しています。小さい本です。全235ページ。
しかし、そんな言葉にとてもこだわりを持たれている 熊澤さんが、例えば「と金」を金を極端に崩した 極草書体と表現されていることに驚きました。
隷書を速く書くようになって、字画の省略が行われ 草書が誕生した。 草書は「早く書いた書」が元々の語源であり、 次々と文字の繋がった書体のことではない。 隷書を速く書けるように草書や行書が生まれ 最後に楷書が出来た。 楷書の歴史が一番浅い。 楷書の崩しが行書で、さらに行書を崩したものが 草書では決して無い。 篆書、隷書は石に刻まれ、草書、行書は紙に書かれた。 その流れが合流して石に刻るにも 紙に書くにも似合う楷書という書体が生まれたわけである。