7月2日(日)、曇り。
昨日、出会った駒の映像。
遠路、小生に見て欲しいと、持って来られました。
分かりますかね。
古い古い駒。相当に使われた駒のようです。
一見して、およそ400年前の水無瀬駒である事が分かります。
2枚とも「玉将」の双玉。
その昔、水無瀬兼成さんが漆で書いた駒です。
漆の書き駒ゆえ、使われて使われたて、文字が漆がすり減ったところが目立っています。
不自然に、文字がすり減っている駒も。
飛車一枚の表と裏、銀将の裏が故意に削られているのです。
これを見て、直ぐに昔のある場面を思い出しました。
それは東京、上野桜木町の駒師の仕事場。
丁度、「名駒大鑑」を上梓する直前でした。
その訪問先の駒師作の写真を二~三枚載せるので、許可をもらいに尋ねたときのことです。
部屋には水を張った盥桶で、駒を研いでいるところでした。
桶の中の砥石の上には、古い駒が一枚。
桶の横には、残りの黒茶けた古い駒が、一組ほど。
丁度、一枚が研ぎ終わって、文字が削られたあとの木肌が露出していました。
「何をしているのですか」。
「ああ、お客さんから古い駒の補充を頼まれて、丁度古い頃合いの駒が有ったので・・」。
「それはいけません。380年前の水無瀬駒です。文化財とも言える貴重な歴史ある駒なんですから・・」。
「あ、それとは知らなかった。止めときます・・」。
文字が削り取られていたのは、「飛車」一枚。
心の中で、「知らなかったとは言え、実にモッタイない・・」と。
この時、よほど「譲ってくれないか」と思いましたが、云えませんでした。
昨日。来訪者が持ってこられた駒を見て、その場面を思い出しました。
こんなこともあるのですね。
で、その駒は、あれからどうなったか、私の知っている範囲で、述べておきます。
駒は、その後まもなく三浦さんに貰われた。
そのことを、三浦さん本人から聞いたので、「玉将二枚」を一時拝借して撮影することに。
それが最終原稿に間に合った「名駒大鑑、90ページ」の写真です。
名駒大鑑をお持ちの方は、それをご覧ください。
そ90ページの玉将写真と、昨日の駒。
照らし合わせると、ぴったり。木目は勿論、玉の字の下についた傷がドンピシャ。
これにはびっくり。40年近く前に見た駒との再会でした。
兼成卿88歳の制作年、慶長6年は西暦1601年。
水無瀬兼成の「馬日記」には、この年に87組の黄楊駒が作られたことが記されています。
この駒はその中の一組。
今から418年も前に作られた駒なのです。
ところで、もう一つ。
私が持っている「控えの名駒大鑑」。
その90ページには、三浦さんの名前の上にKさんの名が赤文字でメモってありました。
それで思い出しました。
何年か経って、その駒は東京のKさんに譲られていたのです。
Kさんとも交流があって、この話はKさんから聞いていたのです。
そのあとKさんは、入院されたことを、奥様から聞きました。
15年以上も前のことです。
その後Kさんがお住まいだったあの辺りは大きなビルに再開発されているとか。
kさんとご家族。
今はどうされているのでしょうか。
そのことを、来訪者に申し上げると「納得」とのこと。
昨日は、あれやこれやで、いろいろ思い出しながらの4時間。
所望に応じて「鑑定書」も書いての半日でした。
昨日、出会った駒の映像。
遠路、小生に見て欲しいと、持って来られました。
分かりますかね。
古い古い駒。相当に使われた駒のようです。
一見して、およそ400年前の水無瀬駒である事が分かります。
2枚とも「玉将」の双玉。
その昔、水無瀬兼成さんが漆で書いた駒です。
漆の書き駒ゆえ、使われて使われたて、文字が漆がすり減ったところが目立っています。
不自然に、文字がすり減っている駒も。
飛車一枚の表と裏、銀将の裏が故意に削られているのです。
これを見て、直ぐに昔のある場面を思い出しました。
それは東京、上野桜木町の駒師の仕事場。
丁度、「名駒大鑑」を上梓する直前でした。
その訪問先の駒師作の写真を二~三枚載せるので、許可をもらいに尋ねたときのことです。
部屋には水を張った盥桶で、駒を研いでいるところでした。
桶の中の砥石の上には、古い駒が一枚。
桶の横には、残りの黒茶けた古い駒が、一組ほど。
丁度、一枚が研ぎ終わって、文字が削られたあとの木肌が露出していました。
「何をしているのですか」。
「ああ、お客さんから古い駒の補充を頼まれて、丁度古い頃合いの駒が有ったので・・」。
「それはいけません。380年前の水無瀬駒です。文化財とも言える貴重な歴史ある駒なんですから・・」。
「あ、それとは知らなかった。止めときます・・」。
文字が削り取られていたのは、「飛車」一枚。
心の中で、「知らなかったとは言え、実にモッタイない・・」と。
この時、よほど「譲ってくれないか」と思いましたが、云えませんでした。
昨日。来訪者が持ってこられた駒を見て、その場面を思い出しました。
こんなこともあるのですね。
で、その駒は、あれからどうなったか、私の知っている範囲で、述べておきます。
駒は、その後まもなく三浦さんに貰われた。
そのことを、三浦さん本人から聞いたので、「玉将二枚」を一時拝借して撮影することに。
それが最終原稿に間に合った「名駒大鑑、90ページ」の写真です。
名駒大鑑をお持ちの方は、それをご覧ください。
そ90ページの玉将写真と、昨日の駒。
照らし合わせると、ぴったり。木目は勿論、玉の字の下についた傷がドンピシャ。
これにはびっくり。40年近く前に見た駒との再会でした。
兼成卿88歳の制作年、慶長6年は西暦1601年。
水無瀬兼成の「馬日記」には、この年に87組の黄楊駒が作られたことが記されています。
この駒はその中の一組。
今から418年も前に作られた駒なのです。
ところで、もう一つ。
私が持っている「控えの名駒大鑑」。
その90ページには、三浦さんの名前の上にKさんの名が赤文字でメモってありました。
それで思い出しました。
何年か経って、その駒は東京のKさんに譲られていたのです。
Kさんとも交流があって、この話はKさんから聞いていたのです。
そのあとKさんは、入院されたことを、奥様から聞きました。
15年以上も前のことです。
その後Kさんがお住まいだったあの辺りは大きなビルに再開発されているとか。
kさんとご家族。
今はどうされているのでしょうか。
そのことを、来訪者に申し上げると「納得」とのこと。
昨日は、あれやこれやで、いろいろ思い出しながらの4時間。
所望に応じて「鑑定書」も書いての半日でした。
駒の写真集
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