涸沼が細くなって涸沼川になる辺りから、那珂川に合流する辺りまでは、広い田園地帯が続きます。連休の頃になると、近辺は田植えのラッシュで、兼業、専業にかぎらず家族が田んぼに集まって協同作業をしている姿を見かけます。
知り合いの稲作農家の方は、田植えはお祭りだと笑っていましたが、確かに少年時代に実家の田植えの賑やかさを思い出しました。その方は稲作では利益は出ないと言いますが、食料自給率の低い我が国なので、一つの文化としても残しておいていただきたいと思うのは、取り巻く環境を考えると、外部の勝手な思いなのかも知れません。
なお、この田園地帯の一画秋成地区は、江戸時代(1835年)に大場村(水戸市大場町)の大場太衛門が願い出て,藩主の徳川斉昭,郡奉行の吉成信貞により開発された「秋成新田」で、秋成という名前は,斉昭に因んだという説もあります。
その斉昭が八景めぐりで藩内子弟の心身鍛錬と、景勝地での風月鑑賞ができるようにと建てた水戸八景の一つ「広浦の秋月」の碑が、涸沼の出口付近の広浦にあります。建立当時は台座の石は地中に埋められて、地面から直接建てられたようにして自然石の味を出し、周りの風景に調和するように工夫されていたようです。水戸八分という独特の隷書体で書かれた斉昭の書が彫られています。
左側には明治25年に建てられた津田信存撰文、小河政常の書による保勝碑が建っていますが、常陸太田産の寒水石(大理石)のため、風雨に晒され碑面はよく読めないほどになっています。
碑と碑の間に遠く筑波山が見えます。直線距離で約40キロありますが、さすが関東平野の名峰、遮るものはありません。
天の神地の神達に植田澄む 右城暮石
黒南風や八景碑越し遠筑波 顎髭仙人
なお、水戸八景すべてについては、拙ブログ「水戸八景…斉昭公選定の水戸藩内景勝めぐり 2020.8.18」に載せさせていただきました。