顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

田中愿蔵刑場跡

2017年05月20日 | 旅行
福島県東白川郡塙町の「道の駅はなわ」敷地内には「田中愿蔵刑場跡」の碑があります。もとは、彼が斬首された久慈川河原にありましたが、度々の洪水に晒されたため、すぐ上の高台のこの場所に移転されたものです。

田中愿蔵(天保15年(1844) - 元治元年(1864))は、藩校「弘道館」、江戸の昌平黌に学びわずか18歳で水戸藩の郷校、時雍館(野口郷校)で館長を務めた秀才で、元治元年3月27日(1864)藤田小四郎が尊王攘夷を唱え筑波山で挙兵すると、時雍館の教え子らを率いてこれに加わり天狗党幹部となって一隊を指揮します。
しかし、愿蔵は途中から本隊から離れ、別働隊として独自の行動を取ります。栃木宿や真壁宿では軍資金を断ると家々に押し入って金品を強奪したうえ放火し、「愿蔵火事」と呼ばれて後世に悪名とともに語り継がれました。

那珂湊の戦いにも参加し、天狗党側が破れると北へ敗走、一時は助川海防城を占拠しましたが、幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落、10月に八溝山に篭って再起を図りますが食料弾薬も尽き果てたため隊を解散し、三々五々山を下り、逃亡した隊士達もほとんど捕われて処刑されました。
愿蔵は真名畑村(現・塙町)まで逃れましたが、捕縛され塙代官所に送られ、10月16日に久慈川の河原(上記写真付近)で斬首されました。 享年21歳、わずか7ヶ月の凄まじい生き方で幕末を駆け抜けました。彼の足跡の毀誉褒貶は、ほとんど悪名だけですが、300人もの身分を問わないザンギリ頭の一隊を、きちんとした統制で率いた能力は、別な生き方で花開いたのではと思ってしまいます。合掌。