
櫓は、矢倉や矢蔵とも書き、城郭内に建てられた物見や防御のための建物で、平時は武器庫として使われました。笠間城には、天守櫓のほかに八幡台と宍ヶ崎に物見櫓がありましたが、八幡台櫓だけは明治13年(1880)に市内の真浄寺に移築、今は七面堂として使用されており、茨城県の重要文化財に指定されています。

碑木造二層の入母家造りで屋根は瓦葺き、外壁は白壁塗籠(ぬりごめ)といわれる江戸時代の城郭建築に使われた様式で、柱、貫、庇まで木地の見えないように全表面を塗っています。

笠間城は、鎌倉時代の初期に宇都宮氏一族の笠間時朝(1203~1265)が僧兵の争いに介入して佐白山頂に城を築いてから約650年間、歴代の笠間領主の居城となってきました。本丸の案内板にあった城郭図、自然の地形を利用した要害の山城であることがよくわかります。

江戸期には徳川譜代の城となり、関東ではめずらしく石垣造りで天守曲輪を持つ近世城郭に改修されました。自然の地形を利用した曲輪、空堀と櫓、門、橋、塀などによって「守るに易く、攻めるに難い」山城でした。大手門からの苔むした石段…、急ぎ足で登城する笠間武士の姿が目に浮かびます。

現在、堀の跡や石垣が残されています。山頂の天守曲輪には、佐志能(さしのう)神社があります。この一画は大震災の被害によりシートで覆われていたり、立ち入り禁止の場所もありましたが、復旧の気配はまだ感じられませんでした。写真は天守閣への石段、勾配がいちだんと急になります。

ここが櫓のあった八幡台跡です。4月14日撮影時には、桜の花が散っていました。城跡には桜の花がやはりよく似合います。
