
東照宮とは、東照大権現の徳川家康公を祀る神社です。家康公は、死に際に金地院崇伝、南光坊天海、本多正純を呼び、「遺体は久能山に納め、葬儀を江戸増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に納め、一周忌終りて下野国日光山へ小堂を営み勧請せよ」と遺言しました。

遺言のとおり遺体は久能山で埋葬され、一周忌の際、棺が日光に運ばれ東照大権現として祀られました。
その後各地の徳川・松平一門大名や譜代家などは、3代将軍家光による諸大名への造営の進言もあって、競って東照宮を建立し、全国で500社を超えたといわれます。しかし明治維新以後の廃仏毀釈で廃社や合祀が相次ぎ、現在は約130社の東照宮があるそうです。

御三家では、家康公の9番目の男子で尾張藩初代藩主徳川義直公が元和5年(1619)に、日光山鎮座の式に準じて城郭内三の丸に名古屋城内に創建し、国宝にも指定されていましたが戦災で焼失し、建中寺にあった義直の正室春姫(高原院)の霊屋を移築して代わりに社殿としています。
紀州東照宮は元和7年(1621)、家康公の10番目の男子で紀州藩初代藩主徳川頼宣公が南海道の総鎮護として権現造りで創建し、「関西の日光」とも呼ばれました。江戸初期の代表的な建築物の本殿、楼門などが重要文化財に措定されています。
(上記写真2点はホームページからお借りしました。)

さて、水戸東照宮は、家康公の11番目の男子で水戸藩初代藩主徳川頼房公により、元和7年(1621)創建されました。戦前、社殿は権現造総極彩色で、華麗を極め旧国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、昭和37年に現在の社殿が造営されました。昭和11年からは頼房公も祀られています。

神仏習合の当時の水戸東照宮は、別当寺である大照寺が管理し、仏式により祭祀が行われていましたが、天保14年(1844)、寺社改革を進めていた9代藩主斉昭公によって寺僧は罷免され、神式に改められました。徳川の祖・家康公をまつる東照宮までも寺院整理にしたため幕府などの批判を受け、斉昭公の隠居と謹慎の一因になったといわれています。

きらびやかな拝殿入り口。扉と柱の大きな葵紋と天井には白梅と紅梅に鶯が描かれています。規模は小さくても日光や上野の東照宮と同様に絢爛豪華な造りです。

左右の銅造燈籠は慶安4年(1651)、頼房公が、家康公の三十三回忌に奉納したもので、「奉献銅燈篭両基東照宮尊前慶安四年四月十七日、正三位行権中納言源頼房」の銘が刻まれています。江戸時代初期鋳造の歴史的な価値や意匠的にも優れ水戸市指定文化財に指定されています。

常葉山時鐘は寛文7年(1667)、徳川光圀公が水戸城の時の鐘として鋳造させたもので、水戸城二の丸柵町門に設置された後、宝永元年(1704)に水戸東照宮に奉納され、明治5年(1872)から県庁の時報用に使用、大正9年(1920)にその役割を終えて再び東照宮に納められたものです。

安神車は江戸時代末期、斉昭公が考案した、兵士が乗り込める木製の車体で、外側に鉄板を張り、鎧を着せた牛に引かせた日本最古の鉄製「戦車」です。実践に使用されたことはなく、また実際に役立つかどうかは疑問であると案内板には書かれています。

樹齢130年のクスノキ(楠)、昭和20年8月2日の水戸大空襲にも生き残リました。また東日本大震災では社殿の他に鳥居の倒壊、崖の崩落など大きな被害がありましたが復旧も終わり、3年後には創建400年になります。