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馬の背状に東に張り出した比高20m前後の水戸の台地は、水を透しにくい第三紀層の凝灰質泥岩(水戸層)の上に、水を透しやすい礫(小石)や砂などの上市礫層が覆い、その間に蓄えられたきれいな地下水が数十年の月日を経て斜面から湧き出している所が数多く見られます。
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現在でも残っている水戸台地北側の湧水の一部を訪ねてみました。なお、水温はどこも15度前後とされています。
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水戸城三の丸に近い北見町北側の崖下にある「小沢の滝」は、明治7年に水戸藩の剣術指南役小沢寅吉が創設した東武館の敷地内に湧き出していたので、そう呼ばれています。
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古来より涸れることのなかったこの湧水は、光圀公の笠原水道を完成させた永田勘衛門円水が台地の下へ給水する田見小路泉水に利用したとの記録も残っています。
また第5代藩主宗翰公がこの台地上に田見御殿をつくり、火災で焼失後は原南陽が朝鮮人参などを植えた薬草園にしましたが、嫡子の原昌綏は石州流の茶人で好文亭設計にも関わっているため、陸羽の茶経やこの湧水を吐玉泉の参考にしたかもしれないと網代茂著「水府綺談」に書かれています。
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現在この滝へは、台地上の官庁街と下の那珂川沿いを結ぶひぐらし坂と呼ばれる歩道があり、一帯は、水戸市の保全地区に指定され小さな緑地公園として整備されています。なお、水戸市で年一回行われる湧水の水質検査では、大腸菌陰性、一般細菌ゼロのきれいな水質が証明されています。
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「洗心泉」という湧水は昔から知られていますが、今は五軒小学校の校庭にあるので、五軒小ホームページより写真は借用しました。この場所には茨城県女子師範学校が明治44年に開校し、昭和20年8月の大空襲で全焼後は、茨城県警察学校がおかれていましたが、昭和60年、水戸芸術館建設のため五軒小学校が移転してきました。
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水戸八幡宮の崖下にある神明宮は水害の多いこの土地の鎮守の守として建てられました。また、ここに湧き出す「神明宮の湧水」は、八幡宮のみそぎ所として参拝する人はここで身を清めたといわれています。
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この泉は、昔から近辺の人たちの生活に大切な水としても利用されてきました。ただ現在では、水戸市の水質調査表を見ると、飲用にはちょっと難しい結果が出ていました。
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周辺はいま八幡池緑地として整備されています。
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七曲り坂は松本町の茨城高校の西脇から那珂川方面に降りる昔からの細い道で、その降りきった一帯には湧水群があります。
「七曲り湧水」は現地看板には「弓道場下湧水」となっていました。斜面の中腹に弓道場とサッカー場がありました。
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「お茶の水湧水群」は水戸藩の重役などが領内巡視で馬口労町や松本町で休憩するときに、この水でお茶を点てて接待したことから、土地の人々はお茶の水と言い伝えてきました。(案内板より)
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この辺一帯は湧水群になっており、近所の人たちが見守っているようです。
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「祇園寺下湧水」は、その名の通り、心越禅師の開山、光圀公の開基による曹洞宗の古刹、祇園寺の崖下に湧き出しています。
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713年に編纂された常陸国風土記や759年編纂の万葉集にも載っている「曝井(さらしい)」は、1200年の歴史を秘めた湧き水です。
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常陸國風土記には「坂の中程に水量豊富で清い泉が出ており、これを曝井といって付近に住む村の乙女達が夏月に集い、布を洗い、曝し、乾した」とあります。
また万葉集の巻九に、高橋連虫麻呂(むらじむしまろ)の作と伝えられている「三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむ彼所に妻もが」が詠われています。(※三栗は那賀に掛かる枕詞)
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近辺最大の愛宕山古墳の西側、通称滝坂の斜面にある曝井一帯は、現在「萬葉曝井の森」という公園として整備されており、かっての藪の中のようなイメージは一新されました。
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遊歩道を上がっていくと国指定史跡の愛宕山古墳があります。
全長136.5mに達する大きな前方後円墳で、那珂川流域では最大規模、5世紀初頭に(6世紀という説も)築造された、那珂国造(くにのみやつこ)の祖である建借間命(たけかしまのみこと)の墳墓と考えられています。
なお、さらに西方にある飯富町の1000年以上の歴史を持つ延喜式内社・大井神社の御祭神はこの建借間命です。
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後円部の頂上には愛宕神社が鎮座し、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祀っています。
平国香が山城の愛宕神社から分霊し、常陸大掾が常陸府中を経て水戸城内に遷座、天正8年(1580)、佐竹義宣が現在地に移したと伝えられています。社殿は東方の水戸城を守護するとともに、火伏せの神様として広く信仰されています。