顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

佐竹氏発祥の…馬坂城址

2019年03月27日 | 歴史散歩

戦国末期には常陸54万石を領した佐竹氏の発祥の地、馬坂(まさか)城址の本郭跡の案内板には、「平安時代の末期、新羅三郎義光(源義家の弟)の孫昌義は久慈郡佐竹郷に永住し佐竹氏を名乗り馬坂城を築いた」と書かれていますが、藤原秀郷流でこの地に勢力を持っていた太田氏(後の小野崎氏)の一族天神林氏の居城を奪い取ったという説もあります。
ここは源義家の陸奥征伐の兵站地とされ、馬の飼育や飼料の補給をしていたので馬坂の名がついたといわれます。



3代目の隆義は太田氏(小野崎氏)が館を構えていた常陸太田の地を奪いその地に移り佐竹宗家となり、4代義清からは稲木氏を名乗り宗家の西南の地を守リましが、稲木氏8代義信は応永24年(1417)、山入の乱で宗家を裏切って山入側に加担したため滅ぼされ、佐竹宗家14代義俊の子義成が天神林氏を名乗り後を継いだといわれます。
馬坂城実測図は現地案内板のものです。

城域は西に張り出した比高30m程度の台地を三つの郭に分けた連郭式平山城で、大手は東の佐竹寺側とされます。本郭とされる一帯は農地や宅地などになっています。

本郭の真ん中に案内板と石碑が建っています。当時の城域は400m四方、約16ha(約5万坪)位あったと推定されるそうです。



西城の土塁と空堀、下の写真は土塁と腰曲輪です。

西城には源氏塚と呼ばれる高さ6mもの古墳があり、それを物見台として利用していたようです。

西城から西に伸びた尾根先の石洞山(石塔山)の案内板によると、頂上に五輪塔があったための命名とかで、ここも物見に絶好のロケーションです。鶴ヶ池工事の人柱になった女子を供養する弁財天という石碑もありましたが、安政3年と刻まれていました。

西北方向には田園地帯が広がります。この約6キロ先には佐竹の支城久米城があります。

古城跡にはヤブツバキがよく似合います。西城一帯は最近地元の方によって整備が行われたばかりで、新しくできた通路、案内板がやさしく導いてくれました。

2郭の押葉平の北方に突き出た尾根の先端にある稲村神社も、出城の役目をしていたと推定されています。

神社参道には春の陽射しを浴びてタチツボスミレの群落がありました。


台地続きの東側には佐竹寺があります。
当時は現在地から西北西に約700m西北の地に観音寺と称してあり、初代の昌義が、馬坂城を奪取する前に居住したとされます。天文15年(1546)に佐竹義昭の寄進によりここに移して再建された茅葺き寄棟の本堂(国指定重要文化財)が現存しており、五本骨扇に月丸の佐竹紋があちこちに付いていました。