顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

大山城と孫根城…佐竹氏内乱の戦場

2021年05月11日 | 歴史散歩
大山城は長承元年(1132)大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の築城が最初といわれています。
康安2年(1362)佐竹氏9代佐竹義篤の子義孝が修築し大山氏を名乗り、約230年の間居城としました。文禄4年(1595)9代義則の時に行方郡小高城に移り、慶長7年(1602)には佐竹氏の秋田転封に大山氏も従ったため、城はすべて廃城になりました。

孫根城は、大山城の約1.5キロ西の台地に支城として築かれ、義孝の子義道の長男義兼が孫根氏を名乗り居城としました。
ここが有名なのは、延徳2年(1490)山入の乱という一族間の争いで、本拠の太田城を追われた佐竹氏16代義舜が母方の大山氏を頼り、この孫根城に約10年間匿われたという苦難の歴史の舞台になった城だからです。結局、明応9年(1500) 攻め寄せた山入氏に追われた義舜は、金砂山城に逃れて応戦し、2年後にはこの戦いに勝利して常陸太田城を奪還、この内戦に終止符を打ったターニングポイントの城でした。

大山城は、標高45m、比高20mの台地の上に築かれました。現在はホテル大山城の城郭風の建物がそれらしい雰囲気は出しています。左手の杉林の辺りが本丸跡です。
35年くらい前に学生時代の仲間5,6人で宿泊したことがありますが、当時は城に興味がなく酒飲みの記憶しか残っていません。

城址の標示塔と案内板が建っています。ここから狭い山道で城跡の本丸方面へ登れます。

一段高い森の中にある愛宕神社、この辺が主郭ですが、足の踏み場もないほど草が茂っています。城址の台地は東西200m南北50mほど、あまり広くないので支城の孫根城の規模を拡大していったといわれています。

孫根城は標高50m、比高20mくらいの台地が北の岩船川にせりだした一画に築かれています。
山入氏の攻撃に備えるために、本城の大山城よりも大規模な城を、さらに改修を重ねながら守りを堅固にしていったと思われます。

北側から見た本丸の台地、下を流れる岩船川一帯は、当時はもっと幅が広かったと思われます。

Ⅰ郭とⅡ郭のある御城址には民家が建っており、周辺も畑などで遺構は消失していますが、御城とⅢ郭周りに驚くほど高い土塁と堀跡が一部残っています。

Ⅰ郭南側の土塁①は高さ5m以上、手前の堀は水堀であったといわれています。

同じくⅠ郭南の土塁②が小山のように見えます。堀跡は農地や果樹畑になっています。

御城東側の切岸③の高さに驚きます。この斜面はさらに天然の浸食谷らしき深い堀に落ち込みます。

この深い浸食谷④が天然の堀の役目をしたと思われます。

Ⅲ郭の東側の浸食谷⑤も天然の堀の役目をしていたと思われます。

Ⅳ郭西側にも土塁跡⑥が残っています。
南側一帯に戸ノ内という地名が残っており、そこまで外郭が伸びていたと推察できると茨城城郭研究会「茨城の城郭」には載っています。

Ⅲ郭南に残る高い土塁⑦と堀の跡です。

土塁⑦⑧に囲まれたⅢ郭です。

Ⅲ郭西にも土塁⑧が廻され、その西側にある天然の堀は浸食谷④が伸びていると思われます。

とにかく土塁の高さに驚きました。佐竹一族の庶流大山氏は、山入の乱の後も天正年間(1575頃)、同じ佐竹氏庶流の小場城主小場氏、石塚城主石塚氏との間でも戦さがあり、近隣の同族間の争いが絶えず、城をより堅固にする必要があったのでしょう。
攻防戦のあった高い土塁の斜面に咲いているアザミに似た花は、多分キツネアザミ(狐薊)でしょうか。