顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

世界にひとつ、陶の雛人形…笠間焼

2023年02月18日 | 日記



茨城県笠間市の窯元やギャラリーが陶製のひな人形を並べる「笠間のひなまつり桃宴(とうえん)」が、今年で23回目を迎え3月3日まで周辺の20店舗で開催されています。



笠間焼というと現在は「特徴がないことが特徴」とよく言われるそうです。国の伝統工芸品に指定されていますが、いつの間にか伝統や格式にこだわらない自由な風土が根付き、移住してくる若手作家も多く、現在地元の陶芸家と合わせて300人以上が活躍しています。



陶製のひな人形は今までの歴史がなかった分、その自由な発想が特に生かされた様々な作品が会場を飾っています。
同じものが二つとない世界に一つだけのひな人形、ほんの一部ですが紹介させていただきました。



ところで笠間焼は、江戸時代中期の安永年間(1772~1781)に、箱田村の久野半右衛門が、信楽の陶工長右衛門の指導で「箱田焼」として焼き物を作り始めたのが最初とされ、天保年間(1830~1840)に隣村の山口勘兵衛の作り始めた「宍戸焼」との二つが合わさって笠間焼になったといわれています。



笠間藩主の牧野家は、これらの焼き物を積極的に保護奨励し、陶土の蛙目(がいろめ)粘土の頑丈さから甕や摺り鉢などの日用雑器が作られ、幕末から明治時代にかけて一大産地として知られていました。



戦後の生活様式の変化により需要が激減する中、県立窯業指導所や窯業団地、笠間焼協同組合などが設立され、作家の個性に重きをおいた作品づくりを指導する場をつくったことで官民一体となり工芸陶器への転換を図ってきました。現在では、さまざまな作家たちが笠間に集まり、地元の作家と切磋琢磨し合いながら、多様な装飾技法を駆使した自由な作風でそれぞれの個性を表現しています。




会場のひとつ、笠間陶芸の丘では、笠間焼作家が干支や小動物を題材に手がけた約130体が並ぶ15段飾りが、会場内を華やかに彩っています。




この一画には笠間芸術の森公園として、茨城県陶芸美術館や県立陶芸大学校などの陶に関する施設が並んでいます。(マップは笠間市のホームページより)

因みに「益子焼」で知られる栃木県の益子町は、笠間市にほぼ隣接しており、江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まるとされています。鉢、水甕、土瓶など日用の道具の産地として発展していましたが、昭和の初めに柳宗悦らの民芸運動の中で芸術品の側面を持つようになり、濱田庄司、島岡達三という二人の人間国宝を輩出するまでになりました。

この隣り合った笠間と益子は、お互いに自由でおおらかな環境の中で600名を超える陶芸家が活躍しており、令和2年に「かさましこ~兄弟産地が紡ぐ‘‘焼き物語”~」というテーマで日本遺産に認定されました。

ところで、仙人が笠間焼というと思い浮かぶのがこの感じの壺と皿、東日本大震災でずいぶん割れた我が家の棚に残っているのがありました。

どちらも作家ものではありませんが、50年近く前に親しくさせていただいていた「製陶ふくだ」の作品です。

なお、益子焼の陶土も鉄分を多く含み、人間国宝の濱田庄司、島岡達三の作品も赤茶色で、笠間焼の色と似ていると思います。(写真はオークションサイトから借用しました)

ただ現在は、どちらの産地の作家たちも、他所の陶土も使って幅広い作品を作り出しているようです。

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