幕末になると茨城県沖にも外国船が姿を見せるようになり、水戸藩では大津(北茨城市)からこの大洗までの海岸線に陣屋、番所、台場など18か所を安政から文久年間頃にかけて設けましたが、そのうち台場とは近寄ってくる異国船に砲撃を加える施設です。
アクアワールド大洗とホテル鷗松亭の間の細長い松林、確かにそれとわかる小高い丘の真ん中付近に説明板があります。そこに描かれた図によると、コの字形に幅204m、東西92mの土塁を築き、その内側に海に向けて大砲を据えた常陸国では最大規模の台場だったようです。
ただこのような海防施設は実際に使用されず、ここも元治元年(1864年)の元治甲子の乱(天狗党の乱)で藩内の砲撃戦に使われたのが、最初で最後という不幸な幕末の1ページになりました。
ここより約3キロ南にある磯浜海防陣屋には数十名の藩士が常駐していましたが、悲劇の宍戸藩主松平頼徳率いる勢力が占拠し、大砲弾薬を手に入れ願入寺を落とし那珂川を挟んで那珂湊の和田台場や日和山(夤賓閣)に陣取った市川三左衛門側のいわゆる諸生派軍との砲撃戦になりましたが、一説によると砲弾は届かなかったとか。水戸藩では反射炉を造って大砲の鋳造をした数少ない藩ですが、技術では欧米諸国との差は歴然、実際外国船と砲撃戦になったら打ちのめされていたのは長州、薩摩の例を見ても明らかでした。
那珂川挟んで和田台場までは、直線で約1800m、写真では遠方の高台で木々の見える辺りです。河口に押し寄せるいつもは穏やかな春の波が、激しく岩に打ちつけていました。
立ちあがる浪の後の冬の海 平野 吉美
冬波に松は巌を砦とす 松野 自得
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