天保13年(1842)に水戸藩9代藩主徳川斉昭公が開設した偕楽園の一角にある好文亭は、二層三階の好文亭本体と、平屋建の奥御殿から成り、斉昭公はここに文人墨客や家臣、領民を招き、養老や詩歌の宴を催しました。
「好文」とは梅の異名で、晋の武帝の「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かなかった」という故事にもとづいて斉昭公が名づけました。しかし昭和20年(1945)8月2日未明の水戸空襲で全焼し、昭和30年(1955)から3年をかけて寺社建築の老舗金剛組の工事で復元されました。当時の建設費用42,968,600円でした。
1階にある「御座の間」は、斉昭公が来亭した際の居室で、質素な6畳敷き、格天井でも床の間はなく竹の柱だけです。
左右の網代戸は竹篭目紗張りで、両隣の東塗縁広間と西塗縁広間の様子が透けて見え、直接家臣や客人と接することができるようになっています。
東側の「東塗縁広間」では、斉昭公が領内の80歳以上の家臣や、90歳以上の領民を招いて、養老の会を開きました。総板張りで漆塗りが施されている18畳間の天井は、檜皮の網代張りです。
今日の話題はそのうちの詩歌の会が開かれた「西塗縁広間」、36畳の大広間で、床は漆塗りの総板張り、天井は網代張りになっています。
4枚の杉戸には、約8000字の四声別韻字が書かれており、作詩の際に辞書代わりとして用いられました。
ところが!現在はこの場所はカフェになっています。
概ね年配の方には往時の静かなたたずまいを壊すという意見(仙人も)がありますが、一方若い方には素晴らしい雰囲気と好評の意見も聞かれます。そりゃそうですよ、180年前に文人墨客の集った場所ですから…。
さて斉昭公の片腕となって改革を進めた藤田東湖は、開園後の天保13年から14年にかけてこの「西塗縁広間」の詩酒の会に幾度か公に従って陪席し、快く酔って漢詩「陪 宴於偕楽園」を詠んだ話が網代茂著「水府綺談」に出ています。
名區幾歳委空壇 山水始供仁智看 風日美時堪對酒 烟波穏處好投竿
一遊元是諸侯度 偕楽須知百姓歓 不恨筑峯催暮色 回頭城上月圑々
(しばらく空壇のままだった名高い七面山に山水美を兼ね備えた好文亭ができた、酒杯を重ねいつまでも見飽きない、穏やかな湖面に糸を垂れるもよし、様々な清遊は諸侯にとっても趣があり、庶民も偕に楽しむことができる、筑波の峰が暮色に染まり、水戸城の上に満月がかっている。)
※七面山には、2代藩主光圀公の妹菊姫が、亡夫松平康兼の霊を慰めるために身延山から勧請して建てた七面堂がありました。
弘化元年(1844)に斉昭公が隠居謹慎の処分を受けると、東湖も藩邸に幽閉され、3年後には水戸城下の竹隈町の蟄居屋敷に移されますが、嘉永5年(1852)斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府の海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになります。
(斉昭公の肖像画は、藩の絵師萩谷遷喬の筆、撮影可の弘道館展示品です)
東湖は蟄居中でも、一合の酒は欠かさなかったらしく、近くの酒店粟野屋には藤田家の通い帳(掛け買の通帳)が残っていましたが戦災で焼けてしまったそうです。
大洗町の幕末と明治の博物館にある藤田東湖像です。大洗出身の桜井萬次郎が、師事していた長谷川栄作の指導のもと制作したと伝わっています。
その粟野屋の東湖愛飲の酒が「甕(みか)の月」です。のちに吉久保酒造と名を変え、今も「一品」という水戸を代表する銘酒を醸造しています。
(※現在「甕の月」は醸造銘柄には入っていないようです)
「酒甕(さけかめ)に月を映して世を語る」とラベルに書かれた「甕の月」は、筑波山麓の上質米と笠原の名水で仕込んだ美酒で、20年ほど前に弘道館公園の花見の宴で酩酊し、翌日仕事を休んだ苦い思い出が残っています。
偕楽園隣の常盤神社境内にある東湖神社です。
参道の梅老木の先端に空蝉が3つ、しがみついているのを見つけました。
少年老い空蝉と目を合はせけり 山口正心
空蝉のいづれも力抜かずゐる 阿部みどり女
空蝉のふんばつて居て壊はれけり 前田普羅
負けるもんか空蝉三つ天辺へ 顎鬚仙人
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