顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

石垣の名城…白河小峰城

2017年05月09日 | 旅行

小峰城は14世紀中頃、名門結城氏の始祖、結城親朝が小峰ヶ岡の地に構えたのが最初と言われています。江戸時代になって、この地区が会津領であった頃に整備された城郭を、寛永4年(1627)に初代の白河藩主となった丹羽長重が大改修を行い、石垣を多用した梯郭式平山城が完成しました。

白河の関を擁する奥州街道の重要拠点のため、その後榊原、本田、松平(奥平、結城、久松)、阿部の名門譜代大名19代が居城としましたが、慶応2年(1866)阿部家が棚倉へ移されると幕領となり、空き城になります。

藩主の中でも有名なのは、天明の飢饉最中の天明3年(1783)に藩主になった松平定信(号:楽翁)で、8代将軍徳川吉宗の孫、一時期は将軍世子とまで言われました。領民救済や農村復興に力を注ぎ、藩を再建し、田沼意次失脚後の幕府で老中首座となり、寛政の改革を推し進めましたが極端な施政により6年で失脚後、晩年は藩政に専念、名君と慕われました。
辞世の歌に「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」があります。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、白河城は新政府軍と奥羽列藩同盟軍の争奪戦の場となり、会津藩家老西郷頼母が将となり城兵は必死に防戦しましたが、圧倒的な新政府軍の火力の前には力及ばず、ついに落城、建物はほとんど焼失してしまいました。

平成に入ってから、三重櫓と前御門が復元されました。これには定信の時に作成された詳細な城郭絵図が残っており、発掘調査と合わせて出来得る限りの復元を木造で完成させました。天守に相当する三重櫓は、木造復元された城郭建築のうち日本で最初のもので、数少ない木造復元天守の1つです。戊辰戦争の激戦地となった近郊の松並稲荷山の杉を使っており、柱に弾傷が確認できる箇所が残されています。

東日本大震災では、数箇所の石垣・曲輪が崩壊、または積み重ねがゆるむ被害があり修復が進んでいますが、あと1年位かかるようです。

美しい総石垣の城として、盛岡城、会津城と並んで東北の三名城にあげられております。江戸時代から何度も修復が行われているため、様々な石積み(打ち込み接ぎ、切り込み接ぎなど)になっていますが、本丸の正門、清水門跡を入ると正面の高石垣に半円状の積み方をしている部分があり、これは谷積みといい、他には姫路城と名古屋城にしか見られない珍しい積み方だそうです。

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