顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

本丸を囲む内堀の残る…棚倉城址

2018年06月07日 | 歴史散歩

元和元年(1622)、常陸国古渡(ふっと・稲敷市)より棚倉に移封された丹羽長重は、二代将軍秀忠より築城の命を受け寛永元年(1624)、近津明神(都々古別神社)を馬場の地に遷宮し、その跡地に棚倉城の築城を着手し、寛永4年(1627)に完成しました。

総奉行として信長の安土城を完成させた丹羽長秀を父親に持つ長重は、築城技術の高さを評価され、西側が急峻な崖を持つ棚倉城、その後移封先の総石垣の白河小峰城は、城としての質が高く守りに適ており、陸奥の入り口である要衝に建てさせたといわれています。

その後問題を起こした大名の左遷地ともいわれ、慶応4年(1868)戊辰戦争で落城するまでの240余年、8家16代もの城主交代がありました。
お堀に住む大亀が水面に浮かぶと決まってお殿様が転封されたということから、別名「亀ケ城」という名前までついています。

諸大名の転封を繰り返した後、最終的には16代目の阿部正静が慶応2年(1866)に6万石で入封しました。棚倉藩は奥羽越列藩同盟に加盟したため、慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、白河城や磐城平の戦線に出兵していたところを、板垣退助の率いる新政府軍800名の攻撃を受け6月24日にわずか1日で落城し、建物は消失してしまいました。

本丸の規模は東西110m、南北170mほど、幅25~30mの内堀と幅7~8m,高さ5~6mの土塁に囲まれ、角には隅櫓がありその間が多門櫓で結ばれていました。虎口は北と南東に設けられ、南東側が大手(追手)とされます。土塁に囲まれた本丸は南北に長い長方形をしており、城の中心として御殿が建てられていました。

二の丸の西側は急峻な絶壁で、今は民有地になっている崖上には160mにわたって野面積みの石垣が残っており、下方の棚倉中学校を見下ろしています。

本丸土塁の木の間越しに見える隅櫓は、なんと建物でなく舞台装置の書き割りのような造り物です。雰囲気は出ていますが、ちょっと違和感も禁じ得ませんでした。

追手橋たもとの大けやきは、樹齢600年、樹高32m、目通り幹囲9.5mもあります。目まぐるしい城主交代をずっと見続けてきたことでしょう。

土手のホタルブクロ、落城後150年の土塁の斜面に咲いていました。本丸や堀を囲んで桜の木がたくさん植えられており、花の時期には賑やかになるそうですが、ほとんど人影のない城跡でした。

邂逅は山路の蛍袋より  稲畑汀子
一路遠し螢袋は耳伏せて  中村草田男

水戸東照宮

2018年06月05日 | 歴史散歩

東照宮とは、東照大権現の徳川家康公を祀る神社です。家康公は、死に際に金地院崇伝、南光坊天海、本多正純を呼び、「遺体は久能山に納め、葬儀を江戸増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に納め、一周忌終りて下野国日光山へ小堂を営み勧請せよ」と遺言しました。

遺言のとおり遺体は久能山で埋葬され、一周忌の際、棺が日光に運ばれ東照大権現として祀られました。
その後各地の徳川・松平一門大名や譜代家などは、3代将軍家光による諸大名への造営の進言もあって、競って東照宮を建立し、全国で500社を超えたといわれます。しかし明治維新以後の廃仏毀釈で廃社や合祀が相次ぎ、現在は約130社の東照宮があるそうです。

御三家では、家康公の9番目の男子で尾張藩初代藩主徳川義直公が元和5年(1619)に、日光山鎮座の式に準じて城郭内三の丸に名古屋城内に創建し、国宝にも指定されていましたが戦災で焼失し、建中寺にあった義直の正室春姫(高原院)の霊屋を移築して代わりに社殿としています。
紀州東照宮は元和7年(1621)、家康公の10番目の男子で紀州藩初代藩主徳川頼宣公が南海道の総鎮護として権現造りで創建し、「関西の日光」とも呼ばれました。江戸初期の代表的な建築物の本殿、楼門などが重要文化財に措定されています。
(上記写真2点はホームページからお借りしました。)

さて、水戸東照宮は、家康公の11番目の男子で水戸藩初代藩主徳川頼房公により、元和7年(1621)創建されました。戦前、社殿は権現造総極彩色で、華麗を極め旧国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、昭和37年に現在の社殿が造営されました。昭和11年からは頼房公も祀られています。

神仏習合の当時の水戸東照宮は、別当寺である大照寺が管理し、仏式により祭祀が行われていましたが、天保14年(1844)、寺社改革を進めていた9代藩主斉昭公によって寺僧は罷免され、神式に改められました。徳川の祖・家康公をまつる東照宮までも寺院整理にしたため幕府などの批判を受け、斉昭公の隠居と謹慎の一因になったといわれています。

きらびやかな拝殿入り口。扉と柱の大きな葵紋と天井には白梅と紅梅に鶯が描かれています。規模は小さくても日光や上野の東照宮と同様に絢爛豪華な造りです。

左右の銅造燈籠は慶安4年(1651)、頼房公が、家康公の三十三回忌に奉納したもので、「奉献銅燈篭両基東照宮尊前慶安四年四月十七日、正三位行権中納言源頼房」の銘が刻まれています。江戸時代初期鋳造の歴史的な価値や意匠的にも優れ水戸市指定文化財に指定されています。

常葉山時鐘は寛文7年(1667)、徳川光圀公が水戸城の時の鐘として鋳造させたもので、水戸城二の丸柵町門に設置された後、宝永元年(1704)に水戸東照宮に奉納され、明治5年(1872)から県庁の時報用に使用、大正9年(1920)にその役割を終えて再び東照宮に納められたものです。

安神車は江戸時代末期、斉昭公が考案した、兵士が乗り込める木製の車体で、外側に鉄板を張り、鎧を着せた牛に引かせた日本最古の鉄製「戦車」です。実践に使用されたことはなく、また実際に役立つかどうかは疑問であると案内板には書かれています。

樹齢130年のクスノキ(楠)、昭和20年8月2日の水戸大空襲にも生き残リました。また東日本大震災では社殿の他に鳥居の倒壊、崖の崩落など大きな被害がありましたが復旧も終わり、3年後には創建400年になります。

クルーズ船 ぱしふぃっくびいなす 大洗港寄港

2018年06月01日 | 日記

昨日5月31日,大洗港区に9年ぶりに「ぱしふぃっく びいなす」が7時30分に入港しました。総トン数26594トン、全長183.4メートル、全幅25メートル。客室238室で定員680人。今回の寄港は、大阪発-名古屋着の「初夏の八丈島・ひたちクルーズ」の一環で、17時45分の出港まで偕楽園や弘道館、那珂湊のおさかな市場、鹿嶋市の鹿島神宮と千葉県の佐原、栃木県の日光東照宮などを巡るオプショナルツアーが用意されているとのことです。

客船専用の第4埠頭のイベントバースを開放して、観光物産フェアや出港時には大洗高校マーチングバンド部による演奏などが開催されました。
本年度は、さらに7月と10月、来年3月に「にっぽん丸」が来港する予定となっています。

北関東の海の玄関口として大洗港、常陸那珂港へのクルーズ船の誘致に、いま茨城県が力を入れています。クルーズ船は早朝に入港し夕刻に出港するプランが多いため、乗船客が県内観光地を巡ることにより地域経済の波及効果が期待できます。
現状では年間300回を超えるクルーズ船寄港の博多など西日本に集中しておりますが、昨年は大洗港区4回、常陸那珂港区2回の実績で、少しずつ増えてきている状況だそうです。

ただ、大型の客船が寄港するには大洗港では岸壁の長さや水深が足りず、国内最大級の飛鳥Ⅱ(50142トン)は常陸那珂港区で受け入れていますが、貨物中心港のため、大洗港のように客船専用バースがなく、貨物船との入港調整も必要になっています。
確かに今回の船の長さは、ほぼ岸壁の長さいっぱいでした。